兄の婚約・血の呪い
それから十七年が経過した。
当主の訃報は唐突に届いた。商談からの帰り道、馬車がぬかるみで脱輪し、横転したという。高齢だった当主はその衝撃で心臓が止まってしまった。長年持ち歩き続けていた奥方の絵は擦り切れて破れ、その効果はなくなっていた。
葬式を終え、疲れ切って応接室のソファに座る兄と妹。……兄であるディランは唐突に言った。
「妹よ。俺は結婚する事にした」
「爵位を継ぐしかありませんものね。でも結婚して下さるご令嬢の当てはありますの?」
赤ん坊だった妹……レイシアは十七歳になっていた。淑女教育も終えており、王国の法律で未婚者が爵位を継げない事も知っている。
「相手は既に決まっている」
「え?見栄を私に張る必要はありませんのよ」
レイシアの反論に、ディランは喉を鳴らして笑う。
「酷い言い草だ。あちらからの申し出だ。相手は公爵家のオレリアーナ嬢だ」
「……繋がりが全く理解できません」
「まぁ、そうだろうな。しかし、あちらは酷く喜んでいたぞ」
「信じられません。だってオレリアーナ様って……物凄い美少女で、十六歳ですわよね?」
今年、社交界デビューした女性達の中で最も注目の集まった女性だ。レイシアも花の妖精のような儚い姿に、夢でも見ている様に思った程だ。
「彼女が俺を選んだのだ。そして父親である公爵とも利害が一致した」
(利害?おかしいわ。そんな事……)
確かにベルネア侯爵家は資産家だ。前当主の酒の商いが未だに順調である上に、ディランの絵が相変わらず売れまくっている。あまりに長く裸婦を描いているせいで、もう誰も彼を変態だと認識しない。芸術家として歴史に名を残すとまで言われている。だから嫁は簡単に来るとレイシアも思っていた。ただ自分よりも年下で、社交界で争奪戦が起こる程の美少女だとは夢にも思っていなかったのだ。
「こちらは特に何もしていない。あちらの事情だよ」
「……そうですか」
納得しかねるが、あちらの事情ではまだ婚約の内定だけでは詳しく内容を教えてもらえそうにない。レイシアは様子を見る事にした。
特にトラブルも無く、二人の婚約は成立した。兄の言った通り、公爵もオレリアーナも笑顔で婚約を受け入れていた。
婚約式でレイシアの目に映ったオレリアーナは本当に同じ人とは思えない程に美しく、何故兄に嫁ぐのか不思議だった。皇太子妃に最も近い令嬢とまで言われていたのに。
ところが王を始め、婚約式に出席している貴族達は特に思うところも無いのか、手放しで喜んでいる様に見える。
(長い間、結婚しなかったから?)
それよりも驚いたのは、オレリアーナの視線と表情だ。
(オレリアーナ様は間違いなくお兄様が好きだわ。私以外、この婚約式に疑問を持っている人が居ない?お兄様って一体……)
こうして婚約が交わされ、ディランは爵位を継いだ。結婚式は一年後だ。
婚約告知の翌日、ディランから話があると言われたレイシアは兄の書斎へと向かった。
部屋に入って兄の対面に座ると、レイシアの前には爵位と共に結婚の承諾を国王が認める書類も並べられていた。
「私、初めて見ます。ロイパ」
ロイヤルペーパー。略してロイパ。
王族の魔法で強化された特殊紙で、濡れず、破れず、燃えない。しかも盗難に遭っても王宮の保管庫に勝手に帰るし、許可していない者が見ようとしても内容を読み取れないという王宮公文書専用の紙だ。
「これで俺はベルネア侯爵で、お前はその妹だと認定された。俺にもしもの事があった場合、オレリアーナではなくお前がベルネア侯爵家を継ぐ事になる」
「はいはい。お兄様は私がお守りしておりますから、そんな事は起こりませんわよ」
ディランはレイシアを描いた絵をいつも持ち歩いている。何枚もあって、ディランはこれで身を守っているのだ。
レイシアは兄の言葉を軽く流し、初めて見る書類に目を輝かせていた。
そして、ふと見た国王直筆の赤いサインにゾワリとしたものを感じて二度見した。爵位等のサインが黒いインクであるのに、結婚の承諾書類のサインだけが、赤かったのだ。それも禍々しい感じのする……。
「お兄様、陛下のお手によるサインが、とても恐ろしいのは気のせいでしょうか」
「恐ろしいに決まっている。これは陛下の血によるサインだからな」
驚くレイシアへ、ディランは言った。
「……とにかく、聞きなさい」
レイシアは居住まいを正す。
「この世界は、二つの層で成り立っている。層とは我らの居る地上と……地獄だ」
「天国はないのでしょうか」
「……母上と父上なら、あの世で作っているかも知れないな」
(本当にないのね)
酷く落胆してレイシアは兄の話の続きを聞く。兄は真面目な話の途中に冗談を挟まない。レイシアはディランに育てられた様なものだから良く理解しているのだ。
「この世界の貴族と言うのは、地獄に住まう魔族の血を持っているか否かで決まる」
一瞬、レイシアは目を丸くして絶句する。
「え……私達は人間ではないのですか?」
上ずった声で言うと、ディランが真剣な表情で言った。
「違うな。魔法を使えるだろう?」
「魔法の魔って、魔族の魔なのですか?」
「そういう事だ。魔族との間に生まれた半魔が平民の中に出現したら、爵位を得る事になる。うちも先祖は小さな畑で麦を作っていただけの農民だ」
ディランは続ける。
「貴族だけが魔法を使えるのは、我が国の魔族……悪魔の血を受け継いでいるからだ。悪魔は人の強い願いを聞いて地上に出る。願いの代償として半魔を産む事を望む。契約者は必ず無垢な乙女で子供は男児だ。例外はない」
どんな姿の悪魔だったのかは分からないが、とんでもない話だ。
(何を願ったのか分からないけれど、お陰で私はここに居るのね)
「家が断絶しない限り、悪魔は血筋に力を与え続ける。悪魔の血と言うのは、人間の因子で力が弱まる事はない。人との間に生まれても、半魔は半間のままだ」
レイシアは不安そうに口を開いた。
「では貴族同士の結婚で、悪魔との契約はどうなるのでしょう」
「実はそれがよくわかっていない。だから、魔法院が調べている」
ディランは続けた。
「幸い我が国は、国王陛下が貴族の結婚には血のサインをして婚姻を縛っている。他国よりは調べるのが楽な状態とも言える」
「婚姻を縛るとは?」
「既婚女性が、夫以外の男性と深い関係を持てない様にするというものだ。女性は婚姻契約を違えた場合に呪いを受ける」
「呪いだなんて……」
「強力な呪いで打ち破る事は不可能だ。悪魔と言うのはとても嫉妬深いから愛する女の不貞を許さない」
つまり既婚の貴族女性には、夫を裏切った代償としてとんでもない事が起こるのだ。
「それって女性だけなのですか?」
「女だけだ」
この契約は、男の浮気は許されても女の浮気は許さないという、かなり身勝手な思惑で生まれた物であるらしい。
「酷いわ。女の悪魔は居ないのですか?」
「居るらしいが、地上に出て来ない」
レイシアは、地獄で別の悪魔に執着されていると瞬時に悟った。
「結婚に関しては、王族の始祖である魔王が編み出した強い呪いが付随している。半魔如きが抗う余地はない」
ディランは紅茶で口を湿らせてから、妹に真剣に諭した。
「王国の王族は代々伴侶に執着する。これだからな」
血のサインをトントンと指で叩く。
「年齢の釣り合う皇太子との結婚は、高位貴族では忌避されている。温厚であるならまだしも、思い込みの激しい面がおありだ。俺もお前の事を心配していたのだ」
「それはあり得ませんわ」
レイシアは王妃も狙える爵位である上に年齢も皇太子の一つ下。つり合いは取れているが、ぱっとしない平凡顔である為、成人して夜会で出会っても声をかけられた事がない。