本多忠勝の頓死
鳥居元忠の死を知る事もなく、本多忠勝は一頭の馬を追いかけていた。
「前田慶次郎!石川五右衛門の手先がぁ!」
どこにそんな力があるのだと言わんばかりに叫び散らし、その存在を小田原の山の全ての生き物に示しまくっている。草も木も虫も土も、皆本多忠勝と言う存在を恐れてか風もないのに揺れている。
鳥たちは騒ぎ出し、獣も道を開ける。中には逃げようとして道を外れた余り急斜面を転げ落ちた物もおり、そのままこの世を去ってしまった事がたやすく推測できた。
で、追われている前田慶次郎はと言うと、実に悠長だった。
愛馬の松風の手綱を適当に絞りながら、小田原の山中をまるでただの遠乗りをするかのように駆けている。
当然そんなだから距離を詰められそうになるが、時に気を入れてやるとまた少しばかり差が開き、そして離したのを確信するやまた速度を落とす。正確な距離など把握していないが、それでも叫び声と気配だけである程度はわかる。
(自分自身がいかに優れているか、その事を示したくて仕方がないのかねえ……まさかんな子どもじみた思考に染まっているだなんて事は思いたくねえけどさ……本当、家康ってお人もどこで間違っちまったんだか……。
まあ、普通ならばそれで生涯を全うできただろうけどよ……)
あの時の本多忠勝は、名将でも豪傑でもなかった。
ただ目の前の敵である自分を倒したいと言うだけならばともかく、単に気に入らない相手をぶん殴りたいだけにも思える。それ自体はまだ悪い事ではないが、それ以上に忠勝の本性が見えてしまったのが慶次郎は悲しかった。
—————純粋培養のおぼっちゃん。
二歳で父を失い生まれた時からのご当主様で蝶よ花よの乳母日傘ではないにせよ、それこそ根っからのお偉いさんかつオサムライサマとして育てられて来た存在の成れの果て。
それでも今の今まで制御する存在がいたからこそうまく行っていたが、その存在をも凌駕して本多忠勝と言う存在をぶち壊した奴の罪深さには慶次郎も呆れると共に感心もしていた。
「……しかしねえ」
その過程で生まれた数多の犠牲。
平たく言えばこんな所にまで引きずり込まれた徳川の兵たちと、その連中の仲間によって殺された小田原の民。
忠勝ともう一人の男が軽挙妄動しなければ何もなかったはずの彼らが無駄に傷つくと思うとそれだけで悲しく、腹立たしい。応仁の乱を例に出すまでもなく古今東西秩序側にいる人間がおかしくなるのが乱世の始まりだと相場は決まっているが、乱世が終わりかけのはずのこのご時世でさえもそれを繰り返すのでは誰も信用しなくなるはずだ。それこそ乱世のやり直しになりかねない。
そのあまりにも無惨な現実—————。
街道沿いに逃げたと思しき小田原の民兵たちが、血まみれになって倒れている。中にはまだ動いている人間もいたが、もう助かりそうにない事はすぐにわかってしまう。
「慶次郎、様……」
「半蔵か……」
「そう、です……」
それでも生きている人間を何とか松風に乗せ、少しでも小田原へと近づく。派手に揺らすだけでも痛みが走るからほとんど歩くような速度で、街道を進む。松風は重みをものともせず、下馬した慶次郎と背中の人間たちの方を振り向こうともせずただただ前へと進む。
殺伐とした戦場の中にあふれた慈悲は、本来ならばすさんだ心を癒せるそれだったはずだ。
だが。
「貴様ぁ!ついに観念したかぁ!」
今の彼にそんな事を期待できるはずもなかった。
「これを見て物を言ってくれよ。少なくともよそでやった方がいいんじゃねえか精神衛生上にもよ」
「石川五右衛門の手先に慈悲は無用!」
死体や瀕死の重傷者がいるすぐ側で、本多忠勝は凶器を振り回す。前田慶次郎が心底からの失望と共に凶器を薙ぎ払うと、すぐさま打ち合いが始まった。
「覚えておくがいい!石川五右衛門などと言う大罪人の味方をする者の末路が、犬死のみである事を!」
「石川五右衛門さえいなくなれば全てが終わるとか、てめえの頭に脳味噌は詰まってるのかよ……」
慶次郎の言葉は乱雑になる。ただの一般市民の亡骸を前にして石川五右衛門の名を振りかざすなど、それこそお門違いもいい所だ。だが本多忠勝の目は完全に据わっており、文字通り裏表もなく真剣だった。
死体を踏み付けにしようが構う事なく、文字通り思うがままに暴れ回る。自分の目の前の存在全てが石川五右衛門の手先だと思い込み、一匹残らず駆逐してやろうとしている。
「なあ、あんたの憎しみはどこから来るんだ?酒井様の事じゃねえだろ、もうここまで来ると」
「酒井殿の最期を汚したのはあの男だ!徳川のため、世のために戦った人間の最期があのような盗人になど!」
「取って付けたような事を抜かすな。んな事言ったら秀吉だって同じだぜ、石田三成って相当に可愛がられてたらしいからな。どうして秀吉や大事なご主君様にその事を伝えなかったんだよ」
「あのままでは半蔵殿が処刑されていた!五右衛門のせいで!」
「小田原の一件はもう半蔵の独断だってバレてるんだよ!」
慶次郎の言葉は出まかせだったが、嘘ではない。
あの時あの場にいた秀吉は半蔵と五右衛門たちの戦いを聞きながら、平然と政宗たちと政談を交わしていた。その際に半蔵が何を望んでそんな真似をしたのか、とっくのとうに気付いている。
その上で秀吉は家康を追求する気などなく、ただおとなしくしていればそれでよかった。家康が半蔵を処刑しようがすまいが、どうでもよかったのだ。
「どっちみち結果は同じだ!五右衛門は生き、半蔵殿は死ぬ!この理不尽を黙って受け入れろと言うのか!」
「戦こそが一番の理不尽だろうがよ……言っとくがな、ここで死んでるのは芦名軍の兵じゃねえ。小田原の方々だよ」
「何が言いたい!」
「半蔵の配下の暴挙に頭に来ててな、そんで立ち上がったんだよ」
「小田原では人の財貨を奪う事が正当化されているのか!」
「……最後の期待を……裏切るのかよ……!」
馬上から繰り出される、憎しみに満ちた刃。
慶次郎の言葉に対して嘘だとさえ言わず、自分の邪魔をする存在を全て一人のせいにするその姿は、もはや本多平八郎の名を冠する事さえも不敬であるかのように濁り、黒ずんでいた。
「この野郎!」
「ええい、なぜだぁ!?」
もうこれで十分だと言わんばかりの叫び声。
その悲痛さを込めた一撃にさえまったく変りなき姿勢を示す忠勝に対し、慶次郎はもう何の期待もしなかった。
澄み切ったつもりでいる濁り切った存在と、濁り切った存在だと自称しながら澄み切った存在。
善悪二元論で言ってもどちらが上か明らかな中、慶次郎は刃を振る。
忠勝の呼吸も苦しそうになる。
だがそれは慶次郎との戦いによる疲弊ではなく、自分の気持ちがちっとも伝わらない事に対しての困惑。
なぜだ、なぜ自分は正義のために戦っていると言うのに!
何か一つでも起これば、崩れそうなほどに脆くなっていた心と身体。
「う……う…………」
そこに入り込む、わずかなうめき声。
ドゴーン!
さらに、遠くの爆発の音。
「何をぉ!」
それでも心はまだ生きていた。
だが、身体は崩れた。
うめき声と共に伸びて来た一本の腕。
まるで血の池からはい出して来たような手がつかんだのは、馬の脚。
そう、本多平八郎が乗っていた馬の、右後ろ脚。
「のわああああああああああ!」
全く握力などないはずの腕により、これまで主人の無茶に付き合わされて来た馬は大きく体勢を崩し主人を投げ出した。
そして宙を舞った本多忠勝の行く先は、慶次郎が差し出していた槍だった。
「馬鹿な、馬鹿、な……!」
その六文字を最後に、本多忠勝の生涯は終わった。
「徳川も想像より相当にちょろいな」
「それで誰かやったのか」
「ああ、俺様の趣味じゃねえけどよ……ったく、俺の名前一つで簡単に釣られるんだもんな……」
三増峠を突き進む本多軍の後方からいきなり現れ、わざとらしく大きな火薬球をぶつけた男は苦笑いを浮かべていた。
五千と言っても本多忠勝と大久保彦左衛門、さらに服部半蔵に引きずられていただけの軍勢はその一発の火薬球で混乱し、大久保彦左衛門が必死に兵たちをまとめようとするもその男が名前を名乗るや否や別の意味で混乱と言うか殺到を起こし、それこそ将棋倒しを起こして獣たちのように斜面を滑落、それに巻き込まれた大久保彦左衛門は何とか立ち上がったもののさらに滑り落ちた兵に潰され、そのまま谷底へと消えた。
「五千人とか言うけど、その五千がいっぺんにこっちを向くんだからなぁ、おお怖い怖い」
「それこそそれだけでつながっていたと言うか、それだけを楽しみにしてたんだろうな。財宝を盗んでばっかいたのに今やお前が金銀財宝だよ」
「同じ穴の狢じゃねえかよったく……」
石川五右衛門—————。
三河遠江にて一仕事していたその男はそれからわき目もふらずと言うほどではなくゆっくりと戻り、半蔵にさえも気づかれぬまま徳川軍を見張っていた。
「にしても、本多忠勝がこうも無惨に死ぬとはなぁ」
「お前さんのおかげだよ、っつーかこいつに感謝しなきゃな」
「とか言いながら何を持ってるんだよ、ああ松風に乗せてやんなきゃな」
いつの間にか忠勝が握っていた蜻蛉切を奪い取りながら小田原の民の死体の頭をなでる五右衛門の姿は、俗人のそれながら決して悪意はなかった。
死にかけていたのが蘇生できたのか、たまたま瀕死の状態で気を失ったままだったのかはともかく、一人の兵士の手が必死にうめき声を上げ、忠勝の馬の脚を掴んでいた。
そして大久保彦左衛門の死を予見するかのような爆発音と、認知できなかったにせよ紛れもない現実。
怪物と化していた本多忠勝が死ぬには、すべての条件が備わっていた。
「悪いけどこれはもらって行くぜ!」
「でもあいつは絶対に執着するか、ちっとだけ使わしてくれよ」
「まあいいけどさ、後で返せよ!」
「ハッハッハ、お安い御用!幸い家康もねだりそうにねえからな!」
五右衛門は槍を投げてよこし、慶次郎はそれを片手で受け取る。
まるで桶か何かの貸し借りをするような有様だが、これが紛れもなくかの本多忠勝が使った名槍・蜻蛉切の末路だった。




