悪意のための悪意
小田原を伊賀忍びが攻撃したその日、六月六日。
服部半蔵が本多正信を殺し、本多忠勝が本多正純らを処断していた日。
この三面同時とも言うべき作戦を、家康は無論風魔小太郎はまだ正確に把握してはいなかった。
(徳川家康が取るようなやり方ではない……)
それでも、徳川家康の方針でない事はすぐに分かった。
家康と言う隣国の存在に付いて、小太郎は当然の如く調べ上げていた。家臣から個人の人格から領国から調べられる限り何もかも。
十八年前の三方ヶ原で全ての野蛮な心を忘れたのか引っ込められるようになったのか、笑顔のまま怒気を吐き出す事もできるようになった文字通りの狸親父。誰にも真意を悟らせず、深慮遠謀を組み立てられる天下人の器。
そんな存在がなぜ小田原に無駄に戦乱を起こそうとするのか。
「俺様に家康に会いに行けっつーのか」
それでも自分なりに打つ手はあったし、すぐに実行させた。
「小田原で半蔵がやった事をわざわざ家康にチクれっつーのかよ」
「家康でなくともいい。誰かにでも知らせるのだ」
「家康が知ってたらどうなるんだよ、俺様もてめえもただのアホじゃねえか」
「半蔵はあのままならば家康に殺されていただろう」
当然の如く悪態を付く五右衛門に対し、小太郎は爆弾を投げ込む。
理由は言うまでもなく小田原にて、すぐそばに秀吉がいたと言うのに勝手に自分たちを襲った事。それこそ秀吉を殺す気だったと言われてもまったく言い返せないほどの暴挙であり、家康の責任問題に発展しても何にもおかしくないお話だ。
「それが何だよ、半蔵が独断でやったっつーのか!」
「ああそうだ」
「アホらしい、あの家康の御犬様がよ!」
「犬とて主のためと思えば主の言葉も聞かず吠える。自分と主を同一視しすぎていぬとは限らぬがな」
要するに五右衛門の排除こそ天下の大義だと思い込んで半蔵が主の意志を勝手に汲み取り、勝手に五右衛門を殺そうとしたと言うのだ。小太郎は自分のダジャレに笑い、五右衛門は頭を抱えた。
「でもお前の言う通りだとしてよ、俺様に何をしろっつーんだ?まさか浜松城から武器でも盗めっつーのか」
「それはまだ早い……おそらく半蔵は誰かを引きずり込んで小田原に向かい、蘆名政宗に五右衛門を殺せと迫る……しかも十や二十ではなく文字通りの軍勢で」
「……それに反発する奴なんかいるのかね」
「いる。少なくとも本多忠勝や大久保彦左衛門とか言う存在ではない。見た所酒井忠次の息子はかなりまともで親の暴走を嘆いていた。あと大久保家も兄弟と長男はまともだが行動できるかは別問題だ、眠らされている者を無理に起こすのは困難だろう、それこそ慎重と書いて臆病と読むような連中が仕切っているのだからな」
忍びにせよ泥棒にせよ武士にせよ、慎重であるに越した事はない。ましてや家康と言う存在が慎重居士の代名詞だから、鬱屈がたまっている連中がいたとしてもちっともおかしくない。普段押さえつけ続けた反動がとか言うには彼らは年を取りすぎていたはずだが、それでもそこまでの力と意欲を持っていた。
「そして、だ。もっと面白い男がいる…」
「あいつから聞いたのか」
「わかっているならばやってみせよ。全く蘆名政宗とは時さえ恵まれておれば本当に天下を取ったやも知れぬな…………」
五右衛門はそこまで言われると共に消えた。
また、動いた。
これが終われば、あの男に振り回されなくて済むと思えば。
本当の本当に、自由に生きられると思えば。
五右衛門は、最後の戦いに挑んだ。
これまでの生涯で最も大きな盗みを—————。
(ったく、戦は常に初陣と思え、かよ……)
だがその盗みの第一段階は、案外と平易だった。
小田原を通過し徳川領の甲斐に入ると言う第一関門もあっさりと突破し、ほとんど気づかれる事なく駿河に五右衛門は入り込めた。
実を言えばこの時伊賀忍びは強い所が小田原に注ぎ込まれ、二番手の存在は本多正信・正純親子の襲撃に使われており、残っているのは三番手以下だった。そんな程度の存在に石川五右衛門を関知する事は出来ず、簡単に侵入を許してしまった。
そして一番強い所が小田原にて風魔小太郎に殺され二番手が本多親子の後始末のために三河や遠江を駆けずり回っている間に、五右衛門は駿府城に侵入していた。
(チッ……!)
だが駿府城を預かっていたのが井伊直政だと知るや、すぐさま諦めるように何も盗まずに城から消えた。井伊直政と言うのが家康と体まで許し合った寵臣だと言う事を五右衛門は知っていたが、それがこの状況に対し何も動いていないのは不自然であり半蔵の暴挙を放置しているのと変わらない。しかもその駿府城にて本多正信とその息子が殺されて謀叛人扱いされているとか言う話を聞いたもんだから、ますます五右衛門は恐怖感を覚えると共にこの場にいても無駄だと感じた。
(結局はあの野郎どもの力を借りなきゃいけねえのか……)
五右衛門は、結局小太郎と慶次郎の言う通りにした。
※※※※※※
「何事だ!」
そして六月十三日。
三増峠にて本多忠勝と服部半蔵が暴れ回ろうとしていた頃、徳川の西の端とでも言うべき岡崎城は大混乱に陥っていた。
「何でも福島家の家臣が徳川からの亡命者を受け入れた故に話したき儀があると」
「それはただの野盗だと申しておけ!」
岡崎城を守っていたのは鳥居元忠であり、大久保兄弟を軟禁している彼は言うまでもなく忠勝・半蔵与党だった。誰がやったかは知らないが本多正信の家臣か何かが尾張へと逃げ込んでしまったのかと思うと実に虫酸が走る。正信の甥は徳川家にいたが父親は蒲生家の人間であり、継承権と言うべきものはない。
今はかなり荒々しい三男を根っからの三河武士に育て上げて父兄の垢を落とさせる気だったが、この調子ではそれも怪しくなる。それこそあの親子を殺した意味がなくなり、石田三成とか言う威張り腐った腰抜けの死さえも無駄になるかもしれない。
そんな事は許せぬとばかりに腰を上げた元忠だったが、今度は一人の使者の足音ではなく無数の馬蹄の轟が響く。
「今度はなんだ!」
「およそ千名ほどの軍勢が岡崎城に!」
「何だ友軍か。まったくこれで福島にもきちんと物が言える」
元忠がその情報に安心したのは全く無理もない。
東から全く無警戒で千人もの軍勢がやって来るなど、友軍しかありえないからだ。援軍としては微妙な数だが、それでも示威行為には悪くない。
そしてその援軍がかなり早く迫っているのには驚いたが、そんな事は一向に構わなかった。
「そなたらは大久保様たちを見張ってくれ。あの大泥棒の呪縛から解き放ってやらねばならぬからな」
元忠は笑顔を隠さないまま、東門に向けて歩き出した。足取りはとにかく軽く、それでいて背筋は伸びている。まるで恋焦がれていた恋人に会うかのような足取りの軽さだった。
そしてその軽さのまま、東から来た軍の大将の名前を聞き流し、城門を開けた。
「ふざけるな!」
次の瞬間、その大将の槍が元忠の頬を捉えた。
「な…」
元忠がとっさに防いだおかげで即死だけは免れたが、それでも頬から血が流れる。
その隙に大将が連れてきた兵たちが次々と岡崎城になだれ込み、「鳥居軍」の兵を制圧して行く。
「貴様…!」
「確かにあの男は好きではなかった!だがここまでしなくてはならなかったのか!」
「それは…!」
「それがしは徳川の将だ!鳥居殿、あなたは、いやあなた方は……!!それがしとて信じたくなかった!だが……!」
一枚の書状が、血まみれの元忠の顔に投げ付けられる。
「これが真実ならば、謀叛人は本多佐渡ではなく本多忠勝ではないか!あの彦左衛門が兄を殴ったと言う事の意味も分からずにいた自分が恥ずかしいわ!」
半蔵が手先を使い小田原で起こした騒動と言う名の虐殺、本多正信・正純親子を謀叛人と言うか裏切り者に仕立て上げての殺害行為—————。
「こんなデタラメ!」
「それがしとて驚きました、まさか関白殿下と北政所様のいるすぐ側で刃傷沙汰を行うなど!」
そして、首謀者たちの狙いはすべて石川五右衛門と言う大罪人を排除する事。
本多正信・正純親子を殺したのは彼らが家康を止めていたから—————。
「小平太!あれは刃傷沙汰ではない!関白殿下も認めた大罪人の処刑だ!」
「彦左衛門は大久保家から追放される覚悟でそんな真似をした!その事に早く気付いていれば!」
「そんな事はどうでもいいは小平太!どうでも良くないのは」
「石川五右衛門か!?そんなコソ泥のせいで、こんな勝手な真似を!」
それらの行いが記された書状を投げ付けられてなお全く動じない元忠の胸に、榊原康政の槍が突き刺さった。それでもわずかに呼吸を保っていた元忠は必死に刀を康政に突き付けるが、それが何かを捉える事はなかった。
「大久保様たちを救出し浜松城へと向かう!」
康政自身、断腸の思いではあった。
だがそれでも、あまりにも情けない忠勝と半蔵の行いが許せなかった。
(心ある伊賀忍びだと思いたいが、あるいは本当に五右衛門がやったのかもしれぬ……だがいずれにせよ、半蔵殿、いや正成……そなたは何という愚かな真似を……あの男が嫌ならば素直に言ってくれればいいのに……!)
そのせいで本多正信とか言う男のために働かなくてはならなくなったと恨み節を述べながら、康政は槍を振るった。




