蘆名軍の撤退
命など惜しくはない。
だが、あの男を生かしたままでは死んでも死にきれない。
(我らが力は全て世のため人のため……あのよう面の皮も欲の皮も千枚、いや万枚張りの輩にその力を利用されるより不幸な事が世の中に存在するはずもない!)
忍びの技は秘中の秘。それこそ書物には書かないか知られてもいい事だけを書き、後は口で伝え頭に叩き込むのが忍びの心得だった。それこそ門外不出であり、抜け忍と言う存在を最大限に憎む最大の理由だった。
元々伊賀忍びの一族であった服部氏は狭すぎた伊賀の地を離れ足利義晴の家臣となったが室町幕府も衰運著しく服部氏を抱えきれなくなり、そこで三河に赴き家康の祖父松平清康に仕えた。
要するにそもそも必要がなければずっと伊賀の国に籠っていても良かった程度には自閉的であり、足利義晴と言う征夷大将軍様に仕える程度には武家らしい御家だった。
ましてや、服部半蔵こと服部正成は家康とは同い年である。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶのが美徳でありそういう生涯を送って来た家康は半蔵にとって全く理想の主君だった。
その力を全く私利私欲のために使い、私利私欲のために伝播する存在。それこそ目で「盗み取る」事は美徳である以上、同じように五右衛門の技を盗み取った存在により止めようがないほどに拡散され、忍びが忍びでなくなってしまう。いけしゃあしゃあと書まで記して後世に残すかもしれない。
なればこそ、小田原にてその命を奪わんとしたのに。
(出て来い!出て来ないならばどこまでも追いかけ、その首必ずやもらい受ける!)
今の半蔵には、家康も政宗もない。
ただ、敵を討つことしか頭になかった。
「天下をも盗まんと欲する盗人とその郎党をぉ!一人残らず殺せぇぇぇ!!」
自分が影ならば、こちらは光。
光と影の二つの刃をもって、石川五右衛門と言う存在を砕く。
半蔵ははるか後ろにいるであろう同志を頼みにしながら、山中を駆ける。
山も、木も、嫌いではないが好きにはなれない。自分の身を隠すには好都合だが、相手の身を隠すのにも好都合だ。ただの武士ならばまだしも、今度の敵は忌まわしい事に忍術の達人。それこそ徹底的に存在を秘匿するだろう。
しかも風魔小太郎まで味方をしている。
(風魔め……何もかも失っても構わぬと申すのか!)
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いでもなく、半蔵は風魔小太郎にも失望していた。
それこそ今川が健在だった時期から幾度も暗闘を繰り広げて来たある種の宿敵であり好敵手であった存在が、なぜ盗人などの下僕に落ちぶれねばならぬのか。小田原で見た小太郎はその環境に何の不満も持たず、嬉々として五右衛門の味方をしていた。
まだ蘆名家の家臣でいれば許せたのに。
いや、もしかしなくても蘆名政宗の方針で五右衛門を守らせたと言うのか。
なれば、もう一刻の猶予もない。このままでは全てを盗まれる。
だからこそ!
「恨むな……恨むならば石川五右衛門を恨め!」
服部半蔵の刃は、冴え渡った。
前田慶次郎の後方にいた、蘆名軍五百。
総大将のはずの慶次郎を一人先に行かせていた遅滞行軍と言うより無責任なだけの軍隊気取りに向かって、半蔵は斬りかかった。
「は、は、半蔵だぁ!」
「……」
さすがに五百人の口を封じ切る事は出来ず名前を叫ばれるが、それでもどうと言う事もなかった。誰も彼も武器を振る事も出来ず、秒単位で命を奪って行く。
「敵わねえ、逃げろ!逃げろぉ!」
「もう駄目だぁ!」
そして二十人も殺さない内に、敵軍は四分五裂した。蘆名の旗は無残に投げ捨てられ、誰も彼もみっともない悲鳴を上げながら逃げる。刀剣を落とした者も相当な数がいた。少しでも情があればあまりにも不甲斐ない敵に同情もしたが、そんな気分になれるほど半蔵は人間ではなかった。
「ややもったいないかもしれぬが……」
物理的な障害物を排除するために、懐から取り出した一つの球。
東海道を行く落ち武者たちに向けて投げ付けられたその球は爆発を起こし、十数人の犠牲者をまた作り上げた。
文字通り吹っ飛ばされて倒れた者はまだましで、直撃して手足をもがれた者もいる。半蔵はそんな死傷者を文字通り踏み付けにしながら、小田原とその先を目指す。内心で一方的に哀悼の意を示す事さえしない。そうした所で誰に届ける気もなく、受け取らせる気もない。
(後世に清らかなる世を……汚れは全てこの半蔵が払いのける。そのためならば……)
その半蔵の夢を壊しにかかる存在も、もちろんいた。
「英雄ごっこは楽しいか、半蔵よ……」
昼間のくせに全身黒ずくめの半蔵と違い、足軽のような姿をした男。
風魔小太郎。
「風魔よ……!そなたは!」
「ただのこそ泥をなぜ追う……?徳川の全てを賭けて叩き潰して、その先に静謐と秩序が待つと言うのか……」
「わかっているならばそこをどけ!」
半蔵が激高すると、小太郎は口元を歪め、哀れみを込めた笑みが顔中に広がる。
そして、その顔のまま命のやり取りが始まった。
「消えよ……」
「フン……どんなに感情を抑え込もうが無駄だ。貴様はサムライだ。人殺しを職務とするサムライだ……」
半蔵は忍び刀を振り小太郎の喉元を狙うが、足軽姿の小太郎は普通の長さの刀で忍び刀を叩き上げ、その体制のまま右足を振り上げる。
当然読んでいた半蔵はサッと後ろに飛び退くが、小太郎はすぐに足を戻し刀の長さに任せて斬りかかる。
「我からの忠告だ。サムライが忍びの真似をするな」
「貴殿は五右衛門の下僕でいいのか」
「クックックックックック……!」
つい貴殿とか言う言葉を使ってしまった半蔵を、小太郎は思いっきり笑った。
「貴様にとってはそれが唯一無二の真理なのだろうな。そして真理を否定する存在はこの世に、否どこの世にも存在してはならぬ……」
「殺……!」
「そのためにだ、本多忠勝や大久保彦左衛門辺りを使ってまで強談判を仕掛けようなど、そして無駄に血を流そうなど、全く野蛮だと思わんのか?」
「黙れ…!」
失望していたはずなのにまだわずかに残っていた期待を裏切られた感情をむき出しにするように口数を減らし、小太郎と言う名の五右衛門の下僕を襲わんとする。
だが、力が出ない。小太郎の得物がまともな刀であるせいかわからないが小田原よりも一撃一撃が力強く、すぐさま押し返されそうになる。幸い得物ならばそこいらへんに落ちていたから拾って叩き付けては見るが、得物の質とは違った力が籠められている刃を押し返せない。
「そこをどけ…!」
「所詮貴様は一人…不肖の息子でも呼ぶか」
「息子の出る必要はない……!」
それでも味方はいる。その事が半蔵の心を支えていた。
だが忠勝を含め徳川軍は、箱根の山中には詳しくない。一応小田原への道筋はわかっているが、それでもそこ以外の道はわかっていない。
忠勝は自分にボウガンを放ってとっとと逃げた前田慶次郎を無我夢中で追っており、後続の大久保彦左衛門率いる兵もそれを追うばかりで小田原へと向かっているのかさえも分からない。平たく言えば迷子だった。
実は半蔵が見た「蘆名軍」は小田原の民兵であり、半蔵により殺されると共に四分五裂こそしたが、あらかじめ小田原へと逃げる道はわかっていた。本来ならば徳川軍の先手大将を認めた時点で逃げる予定だったから小太郎の計算はやや狂ったが、それでも彼らの大半が無事逃げ切れそうではあった。
言うまでもないが、この時の無駄な犠牲が小太郎に柄にもなく力を与えていた。
北条の配下としての、最後の戦い。最後の意地。
ある意味半蔵が最も重んじて欲しい方向に、小太郎は進んでいた。
そしてこの時半蔵の目当てである石川五右衛門は、本多軍のはるか後ろにいたのである。




