本多平八郎VS前田慶次郎
天正十八年、六月十三日。
「ついに梨の礫か……まったく、何という恐ろしき男よ……」
「ごまかす事さえもせずとは……まったく、どうして崖下に自ら飛び込むのか……」
「かつてこの地にて信玄公は氏康公を破り、駿河を手にした。考えてみれば氏真と言うのも本当に情けなき男よな、いくら妻の実家が頼れなくなったとは言え……」
本多忠勝率いる五千の「徳川軍」は、駿河の山地を抜け相模に入っていた。
そして彼らがいったん休んだのが、三増峠だった。
—————三増峠。
かつて武田信玄が小田原攻略を諦め撤退した際に追撃をかけて来た北条軍を破り、駿河の今川氏真にとどめを刺した戦。
その結果氏真は早川殿の故郷である小田原に亡命するが武田と北条が手を結んだ際に行き場を失い、事もあろうに徳川家へとやって来た。かつての部下だった家にである。
その時既に家康の家臣だった忠勝には、氏真がとても矮小に思えた。
かつて自分の主君のそのまた主だとは思えないほどに小さくなり、一番ずいぶんな言い草をすれば無為徒食していた男。挙句父親の仇である織田家へ厄介払いしたと言うのに臆面もなく向かったと聞いた際には、嘲笑を通り越して吐き気を催した。そんな存在にだけはなるまいと思わなかった訳ではないが、忠勝は四十三になるまで必死に戦って来た。
人殺しと言われようが知った事か。
主の敵、世の敵を減らす。
「かつて西の名将、朝倉宗滴は言った。武者は犬畜生とも言われようが勝つことこそが本懐。そのための手段を放棄するのは武士にあらず、その事をなぜに、なぜに分かろうとせぬ……」
「いやわかってはいたのでしょう、ただひたすらに城に籠る事を是としていただけで、自分たちが圧倒的に有利だと言う驕りを体現しただけです。蜀魏の争いとは全く違うと言うのに」
司馬仲達が諸葛孔明の攻撃を凌ぎ切れたのは、国力と部下の能力に差があったからだ。ただ引っ込んでいるなど臆病者ではなく卑怯者であり、最も唾棄すべき存在だ。何なら女子の服でも送ってやればよかったと今更ながら思う。
「確かに天下人には厳格さだけでなく寛容さも必要だ。されど今のお館様はあまりにも寛容すぎる。不平分子の増長を招き、天下を再び乱す火種をくすぶらせ続ける。関白もまたしかりだ」
秀吉がなぜ蘆名政宗を許したのか、その事にも忠勝は納得が行っていない。
酒井忠次の事はもういいとしても、それこそ最後の最後まで自分に歯向かった存在だと言うのに、弟の伊達家相続を認めるのはいいとしても蘆名の姫を連れ込んで婿入りして「蘆名家」として生き残ろうなどあまりにも面の皮が厚すぎる。自分ならそんな屁理屈の塊など一発でぶった切っていたはずだ。そうでなければ、天下人として示しが付かない。
なればこそ、上の人間が下せないような決断を自分たちがすべきだ。そのためにこうして立ち上がった—————。
「申し上げます!三引き両の旗が東から来ました!」
「三引き両だと!」
「数はおよそ五百とのこと!」
「ほぅ……」
そんなやる気満々の軍勢の前に、三つ引両の旗が飛び込んで来た。
正確には発見したのは服部半蔵(正就)だが、確かに三つ引両の旗を掲げた軍勢が東海道を西上して来ていた。
「拙者が向かって来る。彦左、福松丸様を頼むぞ」
「了解!」
あるいはこちらの誠意をくみ取りともに石川五右衛門征伐に乗り出してくれるかもしれない。それこそ自分と正義に与する最後の機会でありその気になればすべての罪を許してやってもいいと思っていた。
「もし手向かうようならば」
「無論、天下の大泥棒、否天下の大罪人に与したとして一人残らず滅するまで」
忠勝はまったく勝ち誇った顔をして単独で駒を進めた。
旧暦八月と言う事もありまださほどには色付いていない木々を抜け、愛馬と共に愛槍蜻蛉切りと共に進むその姿は、それこそ千人の男がそれだけでひれ伏しそうなほどだった。
もっとも、「敵軍」をそんな事を気にしない人間が率いていないとは限らないのだが。
「おお?おお!?そこを行かれるは!?」
全く素っ頓狂な声を山中に響かせる男に不意を突かれたように足を止めた忠勝だったが、すぐ気づいた声の主には覚えがあった。
「まさか」
「そうですとも!いやあまさか本多平八郎殿にお会いできるとは、いやあ無為徒食するのも悪くありませんなあ!」
「……前田慶次郎か」
前田慶次郎利益。あの天下の傾奇者として有名な男。
その男が、たった一人でやって来た。
「惜しいかな。まさか前田参議が石川五右衛門などに付くとは」
「叔父上ならばこの俺を蘆名家に渡した。今の俺は蘆名家家臣、前田慶次郎よ!」
「人大きく なれると見るや 頃選ばず 百を求めて ろくに得られず」
「本当に辛気くさいねえ、そんでその上やたら威張りくさってさ。本多平八郎がこんな人間だったなんて世間はがっかりするぜ」
即興の三十一文字が「傾奇」の字をばらした(なれる=可)上で「ろく」が「五」にかかっている事を見抜いた相手が深々とため息を吐くが、忠勝も負けじとため息を吐き返す。
「我々は天下の大悪党たる石川五右衛門の征伐を行うべくこうして兵を進めているのだ。早急に我らと共に蘆名殿に会い、全力で五右衛門の処刑を行うべく兵を挙げるように請願すべし」
「五右衛門一人に振り回されて情けなくねえのか?」
「石川五右衛門はこの国に、いやこの世に不要!」
「あんたがどこまで行ってんのか詳しくは知らねえけどさ、天下の大悪党様と互角に張り合おうとしちゃまずいんじゃねえのか?世に名高き豪傑の本多平八郎も落ちたもんだ。まあそういう訳でさ」
吠える忠勝に対し慶次郎はのらりくらりとした口調のまま懐から何かを取り出す。
「弓…!?」
—————弩。
いや、クロスボウ。
火縄銃とほぼ同時に到来しながら普及せず消えたはずの兵器が、本多平八郎に向けられた。
「今ならば冗談で済むぞ」
「そりゃこっちのセリフだよ。家康殿ともあろうお方様がこんな強引な真似を許す訳がない。大方何らかの脅しでもかけたんでしょうな。従わねば腹を切るとか強談判でもしましたか」
「ほざくな!やはり傾奇者は乱世の負の遺産!秩序正しき世には不要!」
「だいたい五千もの兵を引き連れて交渉など冗談でなければいったい何なのか!それこそ文字通りの無断侵入であり侵略行為!石川五右衛門などと言う霞の如き存在を捕まえるためにそこまでする由を満天下に聞かせられましょうか!
いや、聞かせられませぬ!!」
慶次郎が弓を引くと共に矢が風を切るように飛び、忠勝の右手を狙う。
生中な男ならば指一本ぐらい飛んでいてもおかしくはなかったが、忠勝はその歴戦の手腕をもって矢を叩き落とした。
「そなた!石川五右衛門をなぜ身命を賭して守ろうとする!」
「俺は本多平八郎と言うお方を守りたいだけです!ささ、わかったらお帰り下さいませ」
クロスボウを投げ捨てしっしっと言わんばかりに右手を振る慶次郎に対し、忠勝は矢の代わりに目線で慶次郎の手を焼き切ろうとする。
もちろん前田慶次郎がそんな物で動じる訳もなく嘲ると言うより哀れみに満ちた笑顔を向け、すぐさま松風と共に踵を返した。
「お、お、お、おのれ、おのれぇぇぇ……!!」
本多平八郎の唸り声が、相模の山中に響き渡る。
何が何でも、全てを注ぎ込んで、敵をあの世へと送る。
そのためならば、他の何も無用だと言わんばかりの気。
もし見えているとすれば、それこそ鬼神のように見えたかもしれない気。
「天下をも盗まんと欲する盗人とその郎党をぉ!一人残らず殺せぇぇぇ!!」
本多忠勝の号令と共に、兵たちは一挙に駆け出した。
(御意…!!)
そして、この舞台を作り上げた男も。




