義姫と甲斐姫の嫁姑問題
「武勇の才は藤次郎から聞き及んでおります。しかし家を守ると言うのは全く別物です」
義姫は次男の妻として三つ指を付いてみせた甲斐姫に向けて右手の人差し指を指す。そのまま必死に若い娘の後頭部をにらみつけ、戦慣れして少しばかり色の落ちた頭に禿を作ろうとしていた。
「はい」
「それなりには花嫁修業もしたのでしょうが、所詮それは大名の家臣のそれ。伊達家は六十万石あり、蘆名と合わせれば百万石です。そんな御家の人間の立ち居振る舞いとはそれこそ衆人環視の的であり、少しでも粗あればここぞとばかりに突いて来ます。
いくら現在の天下人が元農民であり妻もまたしかりだとしてもそれを知らない人間は関白とその夫人としか見ませぬ。まあ今はそんな人間などおらぬかもしれませぬが、いずれはその振る舞いが受け継がれ日本一粗野な関白と夫人であったと後世の人間から物笑いの種にされるやもしれませぬ」
「わかりました」
だが、それでも自分の滑稽さはわかっていた。別に全く落とす必要のない豊臣秀吉と北政所の名前を出してまで相手を何とかしようとするなど、自分に力がないと言う事の証明でしかない。
(力の差を見せねばならぬ、だがどうやってだ……)
だからと言って料理はまずいだの掃除がなってないだの起きるのが遅いのだの嫁いびりをやろうもんなら、それこそ全力で立ち向かってくる。そうなればいくら政道が政宗とは違うとは言え甲斐姫側につく可能性もあるし、単純にみっともない。
何より、もう二度もこの甲斐姫にはしてやられている。
初対面の際にほんの少し怪しんで見せただけなのにいきなり服を脱ぎ出し、ついこの前政道に強引に抱かれたと言うのに平然と嫁になると言い出すなど肝の座りっぷりを知らされてしまい、毒気を抜かれそうになっていた。
と言うか、甲斐姫が家事をやる必要があるとすればそれは自分や政道に対してぐらいであり、最悪政道の間の男子さえ産めばお役御免でも許されてしまう。六十万石の大名にはそれ相応の人材もいれば道具もあり、丸投げが許されてしまう環境だった。
「そなたは」
「いくら奥方様がまだお若いとは言え毎日の夜伽は大変でございましょう、と言う訳でほどなく殿様の側室になる予定の者でございます」
結局義姫にできるのは、甲斐姫の対抗勢力を作る事だけだった。
それなりに筋の通った、それなりの教育を施された娘。
いきなり二人だけの時間を共にしていた政道と甲斐姫の傍にやって来て、深々と頭を下げた。
「母上はなぜそなたを急に」
「殿様が殿様足りえるか不安であり、その時まではじっとおとなしくしているようんにとの仰せでございました。奥方様もご存じの通り兄上様は大変立派な方であり」
「ああもういい、そういう通りいっぺんの口上はわかった。甲斐姫、その方は」
「いえいえあなた様、私は最初から分かっておりました。どこかで関白様の側室として大坂へ向かうとか聞いておりまして、私もそうなるかと思っておりましたらこんな事になるとは、運命と言うのは奇異な物ですね」
だがその上で放たれた口上を政道はあっさりと蹴飛ばし、甲斐姫は話を逸らす。良くも悪くも真剣に聞く気がないと言う証明であり、相手になれていないとも言える。それでもその女性は二人が自分の方を向くまでじっと叩頭し続け、二人の歓談を耳に入れ続けた。
「どうしたのですか」
そしておよそ二十分ほど経ってようやく再度反応した甲斐姫に向けて、なるべく真顔のまま顔を上げる。あくまでも自分は脇役でいい、政道にとって自分は甲斐姫の次の存在で一向に構わぬとばかりに、顔を上げたままで何も言わない。何か命令を出されるまでいくらでもこの体勢のままでいるつもりだった。
「私の顔など見ていても面白くはありませんよ。まあ野山を駆けずり回って来たと言う自負はありますが。それとも手でも見ますか、薙刀やら手綱やらを握って来た手を」
だがその口から出た言葉は命令ではなく雑談に類するそれであり、かろうじて命令じみたその言葉もとてもややこしい物ではない、一応言われた通り甲斐姫の手を見てみるが、口で言うほど荒れていない。どう見てもお姫様の手であり、奥方様の手だった。若干日に焼けているかもしれないが差異を感じるのはそれなりに困難に思える。
と言うか、義姫が送り込んだ女性自体があまりにも無理があった。
彼女は伊達家の有力家臣とかとは違うが、特別な娘ではない。花嫁教育をきちんと受けて来た良くも悪くも普通のいい家の出の子女であり、それまでの存在だった。
義姫からしてみれば特異な存在である甲斐姫との対立軸になって欲しいのだろうが、まず同じ土俵に立てなかった。
「殿様の言う事を唯々諾々と聞くのがあなたの役目ですか?」
「いかにも…」
「義姉上でもそんな役目は務まります。まさか義姉上の年を知らぬわけでもありますまい」
「寡聞にして存じ上げませぬが」
「十です」
「……………………」
この一撃だけで、簡単に押し黙ってしまった。
「あなた様」
「男はぜいたくな物だ……そなたが言っていた今川殿とか言うお方のように生きる事はたやすいように見えて恐ろしく難しいのかもしれぬ……そなたは今川氏真殿の事を知っているか?」
「……」
「かつては三州の大名であったがその地位を失い、親の仇である織田殿の下へ赴き蹴鞠を披露し、今でも京にて過ごしている……どれだけの嘲弄を受けたか計り知れずであり、私だったらその前に自決しているか特攻していただろう。それもまた立派な生き方だ」
「私には絶対できないですよ」
成田氏長は北条の人間だし、甲斐姫も一時期身を寄せていた今川氏真の存在は一応だが関知していた。その氏真が小田原を離れた後何をしていたかについて聞いたのはつい最近だが、それでも甲斐姫自身その生き方に奇妙に感心していた。
「まさかとは思いますが」
「そう思ってくださって構いませんから」
「そなた母上に言われたのであろう、私が染められぬように、と」
そしてかろうじて口を開いた所に入り込んで来たとどめの一撃により、義姫が送り込んだ手先は立ち上がれなくなった。
「私だって好き嫌いで行けば嫌いです。そう述べていたと義母上様に申し付けなさい。ああ、側室と言う事ならば一向に構いませんが」
「それは了解だな」
「はい……」
差別化されていると言うにはあまりにも惨めな背中を引きずりながら消えて行く女性の事など、二人はまるで気に留めなかった。
そしてその女性が結局甲斐姫の言った通り政道の側室となるのだが、それはどうでもいい事だった。




