蘆名政宗の刃
「ずいぶんと暑いな」
蘆名政宗は正式に本拠とする事にした玉縄城天守閣にて、柄にもなく弱音を吐いていた。
時に五月下旬、梅雨は終わりかけ太陽が輝き、湘南の砂浜を照らしている。
夏の海岸には漁師たちが走り回り、すぐそばには鶴岡八幡宮がある。
そんな実に武士らしい場所で暮らしていると言うのに、政宗の顔は今一つ冴えない。
「どうしたのです、そんなに暗そうな顔をして」
天守閣には他に織姫だけがおり、外を眺める夫の背中に向けてやや遠慮に欠けた声をぶつける。
「織姫、そなたは平気か、この暑さが」
「私だって陸奥の女子です。どうして旦那様は駄目なんでしょうね」
政宗は目くじらを立てる事もしない。同じ地区の出身だと言うのに汗もかかずにいる織姫に差を付けられていると言うのに、妙におおらかな目をしていた。
「まあ私は一年近く宝物と言うより置物として押し込められておりましたからね。そうなれば暑さにも慣れましょう」
「そなたのために汗を搔く事を美徳だと信じて疑わぬ人間たちに囲まれているのもか」
「織姫と言う看板があればいいだけの人間ですがね。ああすみません、織姫って書いた短冊があれば満足するだけの人間です」
「相変わらずだな」
鰯の頭も信心からとか言うが、それこそ家臣が求める主君と実際の主君が一致しない事などちっとも珍しくない。
例えば小机城を与えられ蘆名家筆頭家老となった片倉小十郎などは政宗をもっと名家の当主らしい人間になって欲しいと思っていたが、その願いに対し政宗はひとつも応えていない。と言うか主従に限らずお互いがお互いに求める人間像と実際の人間像が違っている事は日常茶飯事であり、そのすり合わせこそが人間関係だった。
「確かに武士道は我々の道だ。だが世の中にはそれに従って生きる事をよしとできない武士も数多くいる。可能不可能ではなく合う合わぬの問題だ、そして時の問題もある。
五右衛門が申しておったぞ、今川氏真とか言う男の話を」
「今川…」
「桶狭間で右府公に討たれた今川義元の長男だ。世間では御家を守り切れず部下であった徳川や父の仇の織田にひざを折ったとかずいぶんな言われようだったが、それでもその結果今まで生きておるらしい。武田勝頼も北条氏政も逝ったと言うのにな」
「さすが五右衛門様ですね」
五右衛門にとってこれらの話はただの暇つぶしであり同時に人様の懐に入り込むための一種の芸でしかない。その芸を買うために招いたと思えば、それほど安い報酬でもないと政宗は見ている。
「そうだな、さすが五右衛門だな。その五右衛門だが、なんとも面白い土産を持って来た」
「そうですか!」
「いや正確には五右衛門と言うか風魔小太郎だがな。わしにはわからんが忍びにもいろいろあるらしい。その気になれば簡単に足がつくと言うのに、黒脛巾組にもへまをせんように言っておかねばな」
黒脛巾組は伊達配下の忍び集団であるが、伊達家が蘆名と伊達に分割されるに当たり同様に分割され、現在の蘆名家に仕えているのは往時の五分の二ほどである。だが風魔郎党はまだともかく石川五右衛門や風魔小太郎にはとうてい及ばず、現在は両名の下で修練に励んでいた。
そんな黒脛巾組の主人である政宗は腰を下ろし、懐から一枚の板を取り出した。
紛れもない、手裏剣だった。
※※※※※※
「では小田原で……」
「仕事終わり早々に呼び付けて済まないとは思っている……されどどうしても見てもらいたかったのでな」
「なんでえ、その気になりゃいつでも見せられたのによ!」
ほぼ同じ時刻小机城にて一仕事を終えた片倉小十郎の寝所に忍び込んだ小太郎と五右衛門が出したのは、やはり一枚の手裏剣だった。
「懐かしき米沢に戻ったのだ、少しは癒されていよう」
「それには賛成だけどな!」
「軍務ですからな!」
小十郎は小太郎の弄びと五右衛門の嫌味に目一杯不機嫌を込めて言い返すが、そんなのが何の意味もない事など小十郎本人が一番わかっていた。それでもああはいはいとか言わずにもっともらしい言葉で返してしまう自分に対する自己嫌悪がなかった訳でもないが、だんだんと諦めの気持ちの方が強くなっていた。
飲まれたら終わりだと思いながらも、抵抗する術が見つからない。何をすれば彼らに勝てるのか。考えれば考えるだけドツボにはまり、考えるのをやめたくなる。それでも自分だけとは意気込んでみるが、その見込みはいくら経っても見つからない。
「気づいておらぬわけでもあるまい……」
「まさか!」
「すっとぼけやがって、これだから石頭のオッサンはよ!」
「五右衛門よ、もう少し手心と言う物があろう」
「本気でわからぬのだ!それとも何か、これが徳川が使っていた手裏剣だと言うのか!」
それどころか、その末路と言えそうな代物を容赦なく見せつけに来る。
満身創痍の所に責め立ててくる物だから匙を投げる事もできず、開き直ってあがく事しかできない。だと言うのに敵たちは軽くあしらうように首を縦に振り、そのままその証拠を見せる。
「なぜこんな真似を」
「ややこしい事はなんもねえよ、この俺様への憎しみが抑えきれねえだけだ」
「そうだ、五右衛門の存在自体が半蔵にとって最大の苦痛なだけだ……まったく、どこまで浅薄な男なのか…………」
自分を狙っているわけでないとわかっていても突き刺さって来る。
おそらく自分の主君はこれを矛として、いざとなったら敵に迫るだろう。そうなれば敵は大打撃を受けるしあるいはいくらか自分の物になるかもしれない。
ある意味どんな刀剣や玉薬よりも恐ろしい武器、恐ろしい刃だとわかっている。
だがそれでも、今の小十郎にとっては目の前の二人の方が単純な武芸者としてのそれ以上に恐ろしかった。
「これだからオサムライサマは大嫌いなんだよ、自分が正しいと思ったら人のいう事なんか聞きゃしねえで」
「個人的な感情に走るな」
「いや俺は走るね、このガチンガチンな岩頭のオッサンをぶっ壊すまで」
「砂利をさらに砕くのはただの酔狂だぞ、こんな何枚剥いても武士でしかない男を」
「わかってるよ、あくまでも趣味だ。それを仕事にしたら死ぬまで終わらねえぜ」
自分でさえもここまで恐ろしいのだ、他の誰が恐れずにいられると言うのか。
内容はともかくここまでのほほんとした口調で話しているだけなのに体力も気力も削がれて行く。まさしく化け物だ。
「で、なぜまたこんな真似を」
「さっきも言ったろ、この俺様が怖くて怖くてたまらねえんだよ、無理心中してえんだよ」
「無理心中……まあ正しいな」
「そこまでして何が得られるのか、仇討ちか」
「安心して眠れるんだよ」
阿呆くさいと言い返す事などできやしない。自分だって気持ちは同じだから。
だがそれをやれば自分の主人の御家は確実に傾く。最悪潰れるかもしれない。
「上杉が赴任して来るまでしか時間はないと」
「だが徳川殿がそんな事など」
「させねえだあ?てめえゴネまくってご主人様の下野への足を十日ほど止める事に成功しただろうが、家臣って立場をなめてんのか?それとも俺様は特別な人間で徳川の連中は違うとかって、どんだけ威張りくさってるんだ?」
「……………………」
小十郎にはもはや、五右衛門に逆らう気力など残っていない。威張りくさるとか言う心外極まるはずの言葉にも、言い返すことすらできずうつむくのが精一杯だった。
「いずれにせよ、追い詰められた徳川、いや半蔵は必ず来る……いや、半蔵だけならばまだしも、な……」
「わあったよ、半蔵親子め、今度こそぶっ飛ばしてやる!」
「ご武運を…………」
小十郎には、これ以上の言葉を吐き出す事は出来なかった。




