本多正信の制止
本多正信と言う人間が徳川家の家臣となったのは、三十年前であり二十年前である。
桶狭間の戦いの後に半ばどさくさ紛れで今川家の支配を逃れ三河一国の大名となった徳川家康であるが、その直後に一向一揆が発生した。その一揆の勢いはすさまじく家康も苦慮し、一年以上かけてようやく治めた。その一揆の首謀者の一人が本多正信であり、家康はその罪として諸国放浪を命じた。
元亀元(1570)年、姉川の戦いの直前に大久保忠世の助けを受け徳川家に復帰して二十年徳川家の家臣をやって来たが、正信が戦場に出たのはほぼその姉川一度っきりだった。
複雑な理由など何もない。
あまりにも戦が下手過ぎたのだ。
正信には膂力もなければ戦の駆け引きもできない。よくもまあ一向一揆の首謀者をやれたものだと忠世さえも苦笑していた。
だがその才覚は戦場から離れると比較的あっさりと発揮された。
三河や遠江を駆けずり回っているだけだった武闘派と違い、正信は諸国を回っていた。その分だけ見識が広くなり、政において迷いを覚えると家康は一も二もなく正信に相談していた。
また戦の才能はないが心構えはあり、かの梟雄松永久秀の下にさえ身を寄せた際に徳川に真の武士は正信一人であると評価されていた。本能寺の変の後のいわゆる伊賀越えの際にも同行し、難を乗り切った経緯がある。
だが正信の家中での人気は低い。
大久保忠世は無論酒井忠次のような年長の家臣は正信の必要性を認めており年下の主君を自分と違った方向で支えてくれる存在として頼りにしていたが、年下の家臣からは毛嫌いされていた。
「良き姫はおりませぬか、甲州の名族で絶えた家とか」
「どういう意味だ」
「親の方は諦めますが」
「真面目に物を言わんか!」
本多忠勝が大真面目な顔をして酒井忠次にそんな言葉を言っていた事もある。
家康は旧武田遺臣を取り込んでいたが、当然ながらその御家は武田と共に没落した御家も多く、家康は婿取嫁取して御家の相続を図りまくっていた。
「そこまでの憎悪は一体どこから来るのだ。まさか名族と言っても跡部とか長坂とか言わんだろうな」
「お戯れを」
「戯れが言えるほどそなたは小ずるくない。それが美点だがな」
「拙者はほんの少しだけでも依存をやめてもらいたいだけですが」
「美辞麗句も下手くそだな。とりあえず自分の禄高を見て考えろ。お前は百万石でももらえなければ満足せんのか!」
忠次にそう叱責された忠勝はすごすごと踵を返して行ったが、それでもその背中にはやりきれない気持ちといら立ちが積み重なり、それに不甲斐なさまでが同乗していた。
忠勝の実父の忠高は忠勝が二歳の時に戦死し、忠勝の育ての親となった叔父の忠真もまた三方ヶ原の戦いで散った。そんな根っからの武家である本多忠勝からしてみれば、同じ本多であるくせにちっとも武勇の才もなくかつ家康にへばりついている正信と言う存在がたまらなく不愉快だった。十個も年上の正信に何度も何度も突っかかっては流され、その上に家康が出て来るものだから不愉快さも増し、その度に武門派の仲間たちに向かって甲斐もなく愚痴りまくっていた。
大久保忠世などは忠勝の挙動に眉をひそめていたが武名もあって忠勝の影響力は高く、榊原康政や井伊直政など多くの家臣が忠勝を支持していた。
(まったく、自分と同じ姓である事がそんなに気に食わんのか……お館様に訴えても聞くかどうかわからんな……)
酒井忠次も同じく頭を抱えていた。
忠勝の言い草は武田の名家復活とか言う名目で「本多正信」の直系男子から「本多」をなくしてやろうと言う浅薄とか言うより憎しみに満ちた発想であり、それを欠片も隠そうとしない言いぐさは本人に言わせれば目一杯の妥協なのだろう。
家康に言ってもいいかもしれないが、そうすればおそらくますます正信が家康に近づく事になり忠勝たちの憎しみは深まるし、家康としても忠勝に処分を下さざるを得ない。武断派の筆頭に近い忠勝への打撃は武断派全体への打撃に等しく、言うまでもなく正信の権勢を肥大させる。忠次は正信が権勢を膨らませようが徳川家のためにしか使わない事を理解していたが、徳川家内の人間が理解するかどうかは別問題だった。
そして今や大久保家が幅を利かそうにも忠世は今還暦で忠佐は五十四と隠居の二文字が見えており、忠世の子の忠隣と末弟の彦左衛門は忠勝寄りである。さらに酒井忠次は既に亡く石川数正は豊臣家に走ってしまっており、忠世と忠佐が隠居してしまえば家康より年長の家臣、と言うか正信を擁護している存在はいよいよいなくなる。せいぜい忠次の息子の家次だが、家次自身が家康の従兄弟と言う関係上徳川家臣からも微妙に色眼鏡で見られておりどこまで頼りになるか疑わしい。
そして正信自身、それらの事をさほど気にしていなかった。禄高こそ少ないが権力はあり、その権力で徳川家を繁栄させれば後はどうでもいいと割り切っていたからである。武断派についても石高と言うわかりやすい数値でいい思いをして、自分は縁の下の力持ちでいいと思っていた。
——————————自然、彼とも親しくなった。
「半蔵殿……」
「……」
服部半蔵。表向きには旗本であるが徳川の影の部分を担う忍びの棟梁にして自らも腕利きの忍び。
正信にとって、頼れる仲間のはずだった。
だがその半蔵の此度の行いは、正信にとって全く看過できるそれではなかった。
正信の屋敷にて二人っきりになった正信は、普段半蔵並みに感情を露わにしない目に怒気を込めてにらみつけ、手に持った扇子を脇差のように半蔵に突きつける。
先刻承知とは言え動かない半蔵に、正信はさらににらみを利かせる。もし許されるのならばぶった斬っているぞと言わんばかりの、本多忠勝ですらひるみそうなほどの目線だったが、半蔵はやはり動じない。
「於義丸様は見逃してはくれたようだがな、もし露見していたらそれこそ私闘の烙印を押されていても言い訳は利かぬ。そなたの首一つで済む話ではない」
「…………」
「申し開きのひとつやふたつはないのか」
「…………」
「口では何とでも言える。石田殿を殺めたのは成田の兵。酒井様を殺めたのは蘆名政宗、そういう事だ」
正信はその男がかかわっているとされるふたつの戦を既に調べていた。後者については既知の事実だったが、前者についても石田三成は正確には戦死ではなく自害、しかもとどめを刺したのは実質成田の兵。その大将が甲斐姫とか言う女性だった事については少しだけ目を剥いたが、それでも気にしてなどいなかった。
「何か言わぬのか。言わぬのであれば肯定だと見なすぞ」
「何をだ」
「小田原にて石川五右衛門に手をかけんとしたのはそなたの息子だろう」
半蔵がようやく口を開きながら首を縦に振ると、正信は平板ながら重たい言葉と共に扇子を半蔵に投げ付けた。
半蔵が右手で扇子を受け取り投げ返すと正信は負けじと扇子を受け止め、そのまま駿府城全体に響きそうなほどの音量で床に叩き付けた。
もはや石川五右衛門の名前は、かなり大きくなっていた。元々半ば市井の中の存在として相当に名を売っていた人間が急に表に出て来たのだから衝撃は大きく、しかも天下人である豊臣秀吉の直臣と豊臣家を破った事のある徳川家の軍勢を倒したのだからなおさらその名は売れている。
「おそらく風魔小太郎も関わっているだろう。もし風魔か五右衛門が証拠をつかんでいるとしたらそれこそ終わりだ。今はそうでない事を祈るしかない」
「だが」
「だがも何もない…」
本来ならば顔や背中に冷や汗を流してしかるべきはずなのにまるで平然としている半蔵に、正信は怒りを膨らませる。人の事を言えないのはわかっているが、これはもう勇敢とか言うよりただ厚顔なだけではないか。
「侵入の際には」
「その時は迎え撃って下され!その時はな!」
「御意」
そんな鉄面皮に向かって正信はついに吠えた。
だが半蔵の反応はいつも通りの三文字だけであり、いつも通り痕跡も残さずいなくなっただけだった。
ひとりっきりになった部屋の中で、正信は天井を仰ぎながらため息を吐く。
(決して触れてはならぬ…………触れれば確実に吹き飛ばされる…………)
わかっているはずなのに、触れてしまいたくなる魅惑の果実。
その欲望をどうすれば断ち切れるか、正信は一人思い悩む事しかできなかった。




