佐竹義重の嘆息
「呆れた、本当に呆れた……」
「里見も真剣だったんですが……」
「だから性質が悪いのだ!」
「小田原にも行かず、武蔵も守らず、こんな辺境にしがみついていったい何をしたかったのだあの連中は……!」
佐竹義重は、晩夏にふさわしい草木が茂りつつある居城の庭に向かって文字通り唾棄していた。
「ええかっこしいですよ、そのおかげで再就職も万々歳って訳です」
息子の義宣もまた悪態を付いていたが、それでも顔色は悪くない。
「下総には丹羽長重だかが来るそうです、北条の連中はその家臣になるとか。やれやれ、関白殿も相当参っているようです。自分が壊そうとしたも同然の丹羽家を盛り立てるとは。でも良かったではないですか、無駄に兵力を使わずに」
「いい訳があるか、小田原に参じておれば上杉のように少しは得ができたかもしれんのだぞ!」
この戦役で佐竹家の獲得できた領土は、ほとんどない。単に常陸五十四万石の支配を認められただけである。もっとも常陸国内の支配の完成ができていなかった以上内部の支配力向上には役立ったが、北条の領国である下総を食い荒らす事は出来なかった。
しかもその下総に入るのが織田信長の重臣であった丹羽長秀の息子であると言うのはともかく、下野まで織田家臣である堀秀治が入ると来ている。そして、陸奥と言うか会津には蒲生氏郷だ。もう、佐竹家に領土拡大の余地はない。
「義広はどうしたのです」
「写経ばかりしている。関白に見捨てられたも同然だからな、このままだと出家したいとか言い出すかもしれん」
義宣の弟の蘆名義広は秀吉が政宗に蘆名家の家督相続を認めさせたと聞いてからすっかり気力を失い、現在では武道の稽古と写経で己を鍛えていると言うより逃げているだけの人間になっている。
政宗に摺上原の戦でも負け、政治でも負けた義広はすっかり落ち込んでしまったのだろう。
「適当な姓でも与えて分家でも立たせるか」
「どんなです。今更蘆名家など名乗れませんし、蘆名の姫ももうおりますまい」
「それだ」
そんな弟に対してさえどこか投げやりな義宣に対し、義重は乱暴に右手を振る。
右手の人差し指の先は真西ではなく、南西だった。
「蘆名の姫、織姫とか言う娘を連れ出したと言うか見つけ出したのは石川五右衛門だ。あの泥棒だ」
「泥棒であるゆえに正統性がないのならば、蘆名家の血筋をもっと口やかましく言えばいいだけではないですか。ああ、今更ですが。それよりなんでまた石川五右衛門の話なんかするんですか」
「するに決まってるだろう、義広があんなになったのは五右衛門のせいだ」
実は血統的正統性を言うなら義広の妻の実父は正統なる蘆名の血筋を引く蘆名盛興であり、織姫の父の蘆名盛隆は二階堂盛義の息子で立場的には義広とほぼ同じである。もっとも細川藤孝と言う細川からすれば末端も末端の人間が大きな顔をしているように戦国乱世に血筋の太い細いなどどうでも良く、力の多寡が問題だった。
「五右衛門は神出鬼没です。大名などと言う動けない物では勝てません。それこそ相手が失敗するのを待つか、それ以上の存在を抱えるしかありません」
「相当に評価しているな」
「憎い相手を倒すには相手を正当に見極めねばなりません。憎しみに囚われては文字通りの猪武者と化し敵の策に絡め取られます」
「父親に向かってずいぶんな物言いだな」
「今は私が当主です」
義重からすると痛い言葉だった。
小田原陥落の経緯は秀吉が正当化のために言いふらした事もあって義重の耳にも入っており、何とか和平を求めようとしていた当主の氏直を隠居人の氏政が足蹴にし続けたせいで内乱を招き援軍であった蘆名政宗にすら見放されたと言う、なんとも「前当主」である身からすれば嫌な話だった。
「では石川五右衛門の特徴を周辺の諸大名にばらまけと言うのか」
「いかにも。尾張や京育ちゆえに釈迦に説法かもしれませぬが、それでも何もしないよりはよほどいいでしょう。ああ武蔵に来る池田にも、政宗にも里見にも」
「上杉はいいのか」
「上杉は石川五右衛門など元から大嫌いですから」
それでも義宣はそこまで醒めているわけではないを知り、義重も少し胸をなでおろした。
佐竹と上杉は反北条で仲良しこよしかと思いきや佐竹が織田家と比較的仲が良い事を知ってから謙信を含む上杉家の態度が冷淡になり、景勝も下野が挟まっていると言う事情を知りながら下総や東武蔵に向かおうとせず小田原を目指したようにどこかこじれ気味だった。また謙信自身も室町幕府の将軍様を放逐した織田家の事を嫌っており、景勝がその性質を受け継いでいないとは考えづらい。秀吉に対してもおそらくは心服はしておらず、その仲間のような織田家臣たちともおそらく第一印象は悪いだろう。
「上杉がこの先どうしていくかなど知った事ではございません。話によれば関白は丹羽家を二つに叩き割り兄に下総を弟に越中を与えるとかで」
「そんなのはどうでもいい。越中の先は能登であり加賀だ、どうせ前田なんだろ。結局織田の天下は変わらないじゃないか」
「いかにも。右府公の天下を受け継いだ関白殿下の政権の下で暮らすしかないのです」
今日日鎌倉幕府がどうとか源平がどうとか言い出すのは時代遅れを通り越した懐古趣味かこじつけかのどっちかであり、佐竹が清和源氏の末裔とか言う確固たる現実もさほどの意味を持たない。
「上杉は最悪過去の遺物扱いされると言うのか」
「ええ。小田原を手にすると言っても所詮は北条家としてのそれ。上杉が満足しないのであればそれこそ血に飢えた獣たちの餌となりましょう」
「まだまだこの国には血に飢えた獣が多いのか」
「我々もその一角です。少しでも隙を見せた存在があればすぐさま一気に食い尽くされる危険を抱え込んだ今はむしろ一番危険です」
これきり戦がないとなると領国拡大など論外であり、それこそ他の大名の失政からの謀叛及び一揆、それに伴う豊臣家からの処罰による減封改易の後釜ぐらいしか方法がない。だから今はどの大名も他者の失政や失策に敏感であり、少しでも失態を犯せばすぐさま隣国ところか日ノ本中からにらまれる。ただでさえ石高さえ増えれば先祖代々の土地を離れても知った事かいと言う環境にいた織田家出身の人間が権力を握っている以上、全く油断ならないのだ。
「まあ、おとなしくしておけと言う事か。わかった、当主様の言う通りにしてやろう」
「まことありがたきお言葉にございます」
「しかしな、わしはあの石川五右衛門とか言う男を叩き潰す事は諦めておらぬぞ。この国に石川五右衛門などとと言う存在をよく思っている人間が何人いるかと言う話だ」
「石川五右衛門を捕らえるのは」
「わかっておる。だがもしうかつにも我が常陸に来たなら、その時は遠慮なくその命を奪うまで!」
大名と言う存在の不自由さこそ五右衛門にとって付け入る最大のスキであり、また誘いのスキともなる罠だった。
逆に言えば、他に五右衛門に対してなすすべなどないと言う事でもある————————————————————。




