秀吉、天下統一!?
天正十八年五月六日。
戦後処理をひとまず終えたと判断した秀吉は、大坂城に戻る事となった。
もちろん当地には大谷吉継ら有能な官吏たちを残し、前田利家に頼んで軍勢も残している。
「……なあ、おねよ」
「何でございますかあなた様」
「わしは……本当に天下人になったのじゃろうか……」
秀吉の顔に喜色はない。気の抜けた顔をして輿に乗り、ただ呆然としている五十四の小柄な男がいるだけだった。
「あなた様には酷な仕打ちをしてしまいましたかもしれませぬ…どうしても朝鮮に行きたいのであれば私はお停め致しませぬ……」
「おね、わしは別に私利私欲で言った覚えはない。此度の戦で十分な武功を得られなんだ人間たちをもう少しだけでも富ませてやりたいだけなんじゃ……」
「心得ております。ですが桶狭間からでも三十年、それ以前から見ても百年以上この国は戦い続けて来ました。次の戦をするにしてもまだ時間が必要でしょう」
「しばらくは平和を楽しませろと言う事か……」
「そのための検地であり、刀狩だったのでしょう」
農民出身だからこそ農民の力を知っていた、と言う訳でもない。農兵とか僧兵とか言うのは駆り出しやすい兵士ではあるが所詮は片手間であり、専門家にはかなわない。それにそうしてできてしまった損害はそのまま生産力の低下に直結し、国家の安定性を低下させる。いわゆる兵農分離にはその意味もあり、それを進めて強国となった織田信長のさらなる発展のつもりだった。
だが信長はもう少し破天荒であり、派手だった。大坂をどれだけ派手に飾ってもただの豪華な城でしかなく、ただ大きな町でしかない。
「案外、こんなもんかもしれんがな……」
「そうでしょうね。皆が全力で進んで行ったはずなのに、終着点がこれだと言うのは寂しいかもしれませぬ。しかしかつてこの国を手にした人間たちは、どれほどまで満足できたのでしょうか」
これまでにも天下を取った武士はいた。
だが源頼朝はあまりにも手を身内の血で汚しすぎ、その結果のように己の死からわずか二十年で自分の御家から天下はこぼれ落ちた。
また足利尊氏も幕府を築いただけで天下統一にはほど遠く、南北朝統一を成し遂げた義満もまた己の死以後の内乱を根絶できないまま嘉吉の乱を経て応仁の乱に至ってしまった。
「わしはずっと、上ばかり向いて来た。始まりが下も下だったから、ずっと上ばかり向き、目指して生きて来た」
「私もそれに付き合って来たのです」
「どうすれば乱世の先の世界を作れるのかわからんのだ」
ましてや秀吉は両名以上に乱世に浸かって来た人間であり平和な世の中など知らない。誰かがやらなければいけない役目とは言え、単純に重すぎる。
「お太りくださいませ」
秀吉は首をかしげた。
茶化しているわけではない事はすぐにわかるが、具体的に何をせよと言うのか。
「織田内府様の領国は今あなた様が仮預かりと言う状態になっております。その地を本当に豊臣家の直轄地にするか、さもなくば豊臣家の親族や譜代の家臣にお与えくださいませ。ああ別に浅野でなくても構いませぬ、そうですそうです、市松に与えましょう」
「じゃがそれこそ身びいきだと」
「功臣に領国を分け与えるは当然の事でございましょう」
織田信雄を内乱の件で放逐したとは言え、名目的には織田家はまだ生きている。現在の事実上当主である信長の孫の織田秀信は九歳だが、信雄改易後に一応織田本城と言うべき清州に置かれ石高は二十万石、官位も従四位下になっている。
「泥水を呑むのは為政者の役目でございます。所詮お互い百姓上りなのですから、多少汚くとも世間は許します。何なら私をいけにえにしても良いのですから」
「うむ……」
この先の未来を決めるあまりにも重要な政談を、たった二人で移動中に行う。
言っている事は常識的なはずなのに場所も人間もおかしい。
これが秀吉であり、おねだった。
※※※※※※
「関白殿下様は」
「それよりお体ご自愛下さいませ」
秀吉とおねの輿の後ろには、両名ほどではないがかなりの大人数で囲まれた輿もあった。
「ったく、よりにもよって自ら向かいたいとか言い出すなんて……ご自分のお体をお分かりなんですか」
「わからねば行きたいなどと申しませぬ」
その輿には、蘆名政宗の妻の愛姫がいる。
表向きは人質だが、それ以上に妊婦である存在が。
「腹の子に万が一があればどうするのですか」
「その時はあきらめるだけです。旦那様ならば第三の女を娶ってくれるはずですから」
確かに正室とは言えまだ十歳の織姫を人質に送るのは難しいし、義姫にはまだ伊達政道の母としても責務もあるから簡単に引き離せない。ちなみに政道からは鬼庭綱元の次男である小源太が人質として送られており、彼もまたこの一団に加わっている。
「ったく、そこまでして惚れてる人間を追い出して何がしたいんだか…」
「御家のためでございます」
「虎之介、お前はどう思うよ」
「それはお前のカミさんに聞いてくれよ」
護送と言うか護衛役の福島正則と加藤清正の軽口は、軽口のくせに重い。
秀吉を最後まで翻弄した政宗の妻である愛姫に対し本人たちの判断で自分なりに遠慮のない口を利いてみたもののどこか虚勢じみており、むしろ余計に自分たちの威を落としているだけの気もする。
「しかしこれで、本当に戦も終わっちまうのかね…………」
「そうなりゃ俺たちは暇をかこう事になるのかね。お互い、遠い西国に帰るとするか」
「伊予はいいぞ」
「肥後だっていい所だからな」
この時の加藤清正の領国は肥後であり、福島正則の領国は伊予である。尾張生まれの近江育ちの二人からすれば全く遠い地であり、日々戸惑いもあったと同時に新鮮であった。
…だが、そこに彼はいない。
「旦那様が申しておりました、福島様も加藤様も石田様がお嫌いだと」
「それは…!」
石田三成。二人と違い近江出身だが、秀吉の小姓として共にあった事は変わらない存在。
あるいは次の敵は彼かもしれないとさえ思っていた清正からしてみれば、目標を失った気分だった。
「ええ嫌いでした。いつもいつも後ろに縮こまって関白殿下様に向けて舌先三寸を振りかざして、その挙句今回北軍総大将とか言う御大層なシロモノになって、そんで挙句にあんな男にやられて……!」
「嫌よ嫌よも好きの内ですか」
「何をバカな!」
「嫌いな存在を知ろうとは思いませぬ。ああ戦をするならば知る必要もございますが、まさか福島様は石田様を殺そうと」
「人質であると言う事をわきまえていただきたい!」
一方で福島正則は好き放題に並べた挙句愛姫に揚げ足取りされてわめき散らしてしまう有様であり、二人とも愛姫と言うか三成にしてやられっぱなしである。
「だいたいがですね、あなたは関白殿下様のご慈悲により生かされているだけと言う事をお分かりなんですか!」
「市松!」
「すみません、つい……ですが、この福島正則はですね、関白殿下様のためにならば何千何万回死んでもいい覚悟を備えております!」
「その覚悟こそもっとも頼もしく、同時に恐ろしいと教えてくれた方がお二人おりました。
それが石田様であり、石川五右衛門です」
そして、三成以上に急激に自分たちの人生に付きまとうようになった存在。
石川五右衛門。
「この国はずっと武士が動かして来たんです。農民ならばわかりますが盗人にどうやったら国を動かせると」
「人間はそこまで偉大ではありません。自分で動いているようで何かに動かされています」
「そうですかい…」
二人とも、これ以上話す気にはなれなかった。
義姫や織姫と比べたら三番手のはずの女でさえここまでやるのかと言う現実が、二人の心を少なからず打ちのめしていたのである。
(これ以上追及されたら私も他に言うことがありませんでした……)
もっとも、愛姫にこれ以上の手駒はなかったし、正則も清正も秀吉が自分たち以上に打ちひしがれている事など知らない。
そして、その秀吉に代わって主導権を握ろうとしていた北政所の次なる決断など全く知る由もなかった。




