秀吉、大混乱す
「ちょっと何言ってるかわからん」
呆れたと言うよりかつて織田信長たちを沸かせて来たようなすっとぼけた調子で答えた秀吉に対し、秀吉の二人の養子は必死にその旨を伝えていた。
「ですから、北政所様が!大坂を飛び出し!」
「今や駿河を越えて小田原へと向かおうとしているのです。ああ護衛には山内殿が付いておられるようです。と言うか、権中納言様の軍勢を四千ほどもぎ取って行ったようです」
血まみれの小田原城を迂回せずにやって来た秀吉も大胆だったが、そんな報告を宇喜多秀家と徳川秀康にさせた女性も大胆だった。
この時の権中納言こと豊臣秀次の領国は近江四十万石であり、そこには山内一豊の他に堀尾吉春、中村一氏、田中吉政などがいた。そしてその中で山内一豊を選び、東海道を下って来たらしい。
「じゃ今までどうしてわからんかったんじゃ」
「入る情報のすべてが権中納言様が援軍を出すと言うそれになっておりまして」
「山内軍と言う肩書で北政所様の存在が秘匿されていたようです。いや、北政所様自らわざと秘匿したと言うべきでしょうか」
「そのようなのです!」
宇喜多秀家は全く落ち着きなく、身振り手振りばかりしている。聞いた所秀康も秀家も全く知らなかったようだが、秀康に比べ秀家は宇喜多家の家臣を侍らせて何かを聞きたそうにしている。秀康は一人でじっと座り、秀吉の目をじっと見つめている。元々養子とは言え実質的当主だった秀家と家康から半ば人質のような形で送り込まれた秀康では始まりからして違うが、それでも二人には差があった。
「小田原攻略では二人ともよくやってくれたんじゃろ?」
「あまりにもうまく行きすぎとは思いましたが、それでも北条の重臣の家族を含む人質を確保し逃亡兵たちは多数討ち取りました」
「そう聞いておるわ。二人とも本当に良くやってくれたわ」
「それでやはり我々は……」
「あわてるな。そなたらについては一番後じゃ。とりあえず実父殿には信州と上野の大半を加増し、真田安房守に残りを与える」
秀吉は政宗の監視の意を込めて真田昌幸に今の上田城と沼田に加え上野周辺で少し加増し、その昌幸の領国以外の信濃と上野をすべて家康に加増する事にしている。
「それで北政所様はなぜまた」
「わからん。わしにもわからん」
「それなんですが氏規殿が」
で、北政所についてはなぜそうなったのかわからん物を素直にわからんと言う秀吉に続くように秀家がため息を吐く中、秀康は全く冷静に氏規と言う名前を出した。
「北条氏規がどうしたんじゃ」
「石田佐吉が身罷ったと聞くやすぐに動き出したと」
「どうして今まで黙っておった!」
「いえ、あくまでも佐吉討ち死にの報を受けた使者が動き出しただけであり来る使者も陣中見舞い及び石田軍の代わりの援軍だとばかりでございました。ただ…」
「対馬守か」
「いえ、千成瓢箪の旗が飾られていたそうです」
千成瓢箪と言うのは豊臣ではなく羽柴の、と言うか木下家の家紋であり、原点回帰と言えるかもしれない。天下統一まであと一歩と言う所で原点を思い出せと言う意味なのかとも思えるが、同時に過去の恥部であるとも言える。
「おねは一体何をしたいんじゃ……手紙だけで済まぬ事があると言うのか」
「それについては私もわかりかねます」
そのおねが何をしようとしているかなど、秀康でさえもわからない。目的自体がわからない以上、何の手の打ちようもない。一応関白夫人にふさわしいもてなしの準備はしているが、それを好むとも思えない。
「申し上げます!」
「どうしたんじゃ!」
「対馬守様ご着到です!」
だが、歳月人を待たずであった。
対馬守とか言う言葉を誰も額面通りに受け取る事はなく、一気に場が引き締まる。
「わた、私は対馬守を迎えに!」
「自分の身の程を考えよ!」
逃げようとする秀家に逃がさぬとばかりに秀康が掴みかかるが、秀家の方が一枚早かった。秀家が陣からいなくなるや秀吉はおろか秀康さえも視線を惑わせ出し、耳は秀家が逃げ出した方角にばかり向いた。黒田官兵衛もいない中、と言うかいても役に立たないのがわかっている以上、《《自分たちで何とかしなければいけなかった》》。
「秀家!」
そして、ついにその時が来た。
全く耳慣れた怒声が小田原城下に響き渡り、兵士たちの身が竦む。
この時宇喜多勢の主力も秀家と共に小田原まで来ていたが、直家の代からの古参ですら身が竦む思いだった。宇喜多直家と言う権謀術策の権化のような人間とはまた違う、天下人の妻とか言う肩書以前の覇気。宇喜多家の家臣はその点不慣れであり、秀家もまたしかりだった。直家がおねと対峙する事はなかったが、直家でさえも勝てぬかもしれぬと弟の忠家が評していた事をもちろんあの世の民である直家は知らない。
「あなたには小田原のこの有様を制止する力があったはずです!」
「それはあくまでも、敵が混乱を起こし自壊して」
「もうこれ以上戦など起らぬ事は明白!それなのになぜこんな風に立つ鳥跡を濁したのです!」
「ですからそれは北条氏政が!」
「確かにそれは聞いていますが、それならそれでもっとやり方があったはずです!例えば氏政に反抗する人間だけを焚きつけるとか!」
死人に口なしを振りかざす秀家に対し、おねもおねで抗って来る。関白夫人らしからぬ生臭い事を言いながら、それでもその態度は関白夫人だった。
「あなた聞こえているでしょう、最後の最後に何をやっているのです!」
そして、ついに天幕の中の秀吉にも被弾した。
「母上、父上へ申したき儀があればこちらへ」
「秀康、あなたはこの顛末について何とも思わないのですか!」
「賢きやり方に際限がないように、愚かさにも際限はございません。氏政は死の前日まで我々が尻尾を巻いて逃げ去り奥州の伊達と共に、いや我々との戦いで疲弊した伊達をも滅ぼして天下を治める気でありました」
「真面目に物を言いなさい!」
「残念ながら大真面目です。どなたに聞いても構いませぬ」
その義父を守るように、秀康が滔々と舌を回す。ついさっきまで混乱していた所などみじんもなく、秀家のように声を震わせる事もしない。
「秀康、私だってたわけではありません。伊達、いや今は蘆名政宗が北条の味方として佐吉を討ち、さらに徳川殿の重臣である酒井殿を討った事ぐらいは存じております」
「その蘆名政宗の寝返りさえも氏政は信じておりませんでした」
「鼠は沈む船を去ると言います。その鼠を掌握できなかったのですか」
「間に合いませんでした。蘆名殿がこちらに付いてからまともな期日もなく、それこそ誰が寝返るのかほとんど把握できませんでした。氏規殿をしてもまるでわからず、全く申し訳ございません」
秀吉を目で制しながら天幕より出でて、深々と頭を下げる。
秀吉が極めてばつが悪そうにする中、おねにも負ける事なく秀康は立ち向かう。
「うちの人は!」
「母上様に申し上げます、わざわざ小田原の戦のまずさを糾弾しに来たのですか、石田佐吉の死を知って」
「違います、私はどうしてもあの男を思い出さずにいられなかったのです」
「あの男とはどなたでしょうか」
「石川五右衛門です」
石川五右衛門————————————————————。
その名前は北政所以上に、豊臣軍を揺るがすそれだった。
「石川五右衛門がどうしたんじゃ!」
「あなた様、ようやく反応なさいましたね!」
「いや違うんじゃ、どうしてそんな盗人のために!」
「あなた様もご存じのはずでしょう、その石川五右衛門がかつて長浜にも侵入せんとしていた事も!」
「ああ」
「私もその時は確信が持てませんでしたし少しばかり噂を含めて置いたら諦めたようですが、しかし此度左近殿が佐吉を殺めたのが五右衛門であると申し送って来たのです」
「左近……」
秀吉自身、石川五右衛門の事を認めたくなかった。今更武士を気取る気もないが、なぜ今更になって自分の邪魔をするのかわからないし、考えれば考えるだけなぜ蘆名政宗などの味方をしたのかわからない。
「とにかくこれ以上戦をする必要もありますまい、これから先は五右衛門との戦となります」
「わしもそうは思っとる、じゃがどうすればいいかわからぬ」
「五右衛門が不要な世にするのです。誰も乱れる必要のない世に」
「じゃがどうすればいいのかわからぬ」
「会うのです、五右衛門を今一番よく知る存在に」
今の石川五右衛門を一番よく知る存在。それが蘆名政宗だった。
「蘆名政宗か…」
「関白の権限を使いここまで呼び付けましょう」
「それで…」
「私も共にあります!」
「しかし」
「わかった」
そして秀吉は、おねを一番よく知る存在だった。
秀家が止めるのも聞かずに秀吉はおねの同行を認めた。言っても聞かないのを知っているし、自分で言うのも何だが五右衛門対策など何もないからだ。
「とは言え護衛は必要でしょう。私たちが何とかしますゆえ」
「今蘆名家は前田様のお預け状態なのでしょう。市松と虎之助にやらせなさい」
秀康が自ら護衛を申し出たのに対しおねは利家の下にいた二人を呼ぶ。この辺りまったく隙のない話であり、秀吉も無言でうなずくしかなかった。




