しつけきれなかった現実
新たな居城とする予定の玉縄城に入った蘆名政宗の下に、二人の女性が入って来た。もちろん政宗の監視役となった前田利家の護衛付きである。
「よくもまあ、首がつながっていた物だ」
「それが運命と言う物でございましょう」
「全く軽々しく運命などと口にするでない……とか言えまいな。成し遂げてしまった人間に何も成し遂げられなかった人間が言う物ではない」
年嵩の方の女性が呆れと感心を含ませる中、若い方の女性はじっと座っていた。
政宗の隣の男が年かさの女性の顔ばかり見るせいで、若い方の女性は異様なほどに孤独だった。
もっとも、少なくとも本人は孤独だと思っていない。
「政宗様…」
「何だ」
「織姫様なるお方に会わせてくださいませ」
全く一方的に離縁されたのにもかかわらず、自分を追い出したも同然の男に会いに来てしかも夫を寝取ったとでも言うべき女と会おうとする。そしてそんな女に対し、義姫は何も言わない。
「今すぐお呼びいたしましょうか」
「頼む」
片倉小十郎がそう言って現在の政宗の妻を呼びに行ったのが忠誠心ではなく現実逃避である事は共通認識であり、愛姫以上に弱弱しく見えた。
「小十郎のような人間をあそこまでしておいて責任感はないのか」
「小十郎はあれが趣味ですから」
「そんな人間ではなかったぞ」
「お行儀がよろしい相手ばかりではない事は先刻ご承知でしょう」
「陸奥はいつから京になったと」
「京こそ権謀術策の世界であり、血生臭い戦乱の町です。応仁の乱を持ち出すまでもなく京は陸奥よりも恐ろしい場所です。もちろん血臭と言う意味で」
平安京が都となってから、もう八百年近く経つ。
それからこの国は常に京によって変わり、京から始まっている。鎌倉幕府とて、京を治めていた平氏が壇ノ浦で滅んだ所から始まり後醍醐天皇が蜂起して終わっている。室町幕府については言うまでもない。
「しかしあそこまで騒いだ結果、兄は故郷を遠く離され四十万石、弟は故郷で六十万石。これが現実であるぞ」
「合わせれば百万石です」
「真面目に物を言え。おそらくこの相模と米沢の間には相当な精鋭たちが押し込まれる。それこそ兄弟を徹底的に分かつためにな」
「でしょうな」
「さらに西には徳川もおる、世間中が鵜の目鷹の目でそなたの事を見張っておるぞ」
「小十郎がああなっているとか言う意味が分からぬ母上ではございますまい」
真剣に当たれば当たるだけ疲弊して行く。これが話術だとすれば相当だが、身内に発揮されても困ると言わんばかりに義姫は眉をひそめて見せるが、政宗にはまるで通じる気配がない。
「具体的にはどなた様が入られるのでしょうか」
「おそらくは一番強い所だろう。それこそ織田の精鋭部隊かもしれぬ、もしかしたら前田利家が北陸から移されるかもしれんな」
「交わるのが楽しみでございます」
「そなたは何を言っているのかわかっておるのか」
「はい、側室にして下さいませ」
息子も息子なら、嫁も嫁だった。
正室から側室に格下げされても構わぬと言い出すなど、盲目としか言えない。あるいは貴族や皇室など相当上な御家からやって来たとか言うならなくもないが、この場合は蘆名とか言う滅んだも同然の御家の、本当のそれかもわからない女である。
「お待たせいたしました」
—————とか言う理屈を吹き飛ばす程度には、織姫は整然としていた。
小十郎が重たい顔をする中足取りは軽く、それでいて顔にも所作にも軽薄さがない。十と言う年齢相応の幼さもなく、むしろたくましい。
その所作のまま政宗の真横に自然に座る有様と来たら、どんな言葉よりも自分こそ政宗様の正室ですと主張するにふさわしいそれだった。
「義母上様、織姫でございます」
「蘆名左京と我が義妹の教育の賜物かえ?」
「いえ、金上と石川様の教育の賜物でございます」
そして義母に向かってそんな口を利ける事もまた、政宗の妻にふさわしい素質だった。
織姫の母の彦姫は伊達輝宗の妹であり、義姫は彦姫の義妹である。つまり織姫は政宗の従妹である。このご時世にいとこ婚は珍しくもないが、それでも二年ほど前に亡くなった義妹の功績を否定されるのは義姫としては愉快ではない。
それに、金上盛備はともかく石川様とは誰なのか。伊達家中には政宗の叔父の石川昭光がいたが、東北を巡る争いでは対立関係でありそれこそ蘆名氏が滅んでもなお抵抗していたような存在である。もちろん盛備やその子たちと組んでいたかもしれない。政宗に服属したのはなんと去年である。
「石川?」
「石川五右衛門様でございます」
「な…」
当然の如く義姫が大口を開けようとする中、小十郎の後ろから真昼間なのに真っ黒な忍び装束を纏った男が現れた。
「貴様が天下の大泥棒か!」
「まあそうだな、俺様が石川五右衛門様だ!」
顔は目以外見えていないがそれでもその眼には武士たちの闘争心を掻き立てる、ある種の媚薬のような輝きがあった。
だが媚薬と言うのはそれこそ中毒症状を引き起こす可能性の高い薬であり、過剰摂取の果てに精神を病む事も珍しくない。この時代にそれまでの医学知識があるかどうかはともかく、危険なそれである事は義姫にもすぐわかった。
「小十郎。そなたではこの男は手に負えぬ。政宗が勝てたのはある種の奇跡だ」
「でも亘理殿は」
「戦おうとしていないだけだ。そしてそれはおそらく正しい。これと真正面からやり合えば損をするだけだ。政宗や織姫のように受け入れるしか方法はない。
まったく、その気になれば財貨どころか家一つ、いや国一つ盗めただろうに」
「俺様は俺様の好きなように生きるだけだよ!」
義姫の言葉は、やはり正しい。だが五右衛門自身にその気がない以上どうにもならない。結局物事を為すには能力以上に本人の意欲が必要であり、五右衛門は今更泥棒以外になる気などなかった。
「秀吉はな、夢を抱いて生きて来た。その夢をこうして成就させてなお、まだ覚める事がねえ!俺様は知ってるんだよ、秀吉がこの後何をする気か!」
「蝦夷地を…」
「てめえはすっこんでろおっさん!あの野郎はまだ戦をやるんだよ!んな事しなくても死にかけの龍に向かってよ!」
「死にかけの龍、やはり」
「てめえは寝てろ!」
小十郎に裏拳を見舞おうとするその手は泥棒ではなく忍びのそれであり、武芸者としても一流たる所を見せつけるそれだった。小十郎がかわす事さえせず政宗の背後に立とうとするや、五右衛門は深くため息を吐き織姫は口元を抑えて笑った。
「片倉様は本当に面白きお方ですね。そう思われますでしょうお義母様」
「それも五右衛門の教育ですか」
「三つ子の魂百までも。金上親子も片倉様も、生まれた時から忠義第一の侍であり、それを阻害される事こそ最大の艱難辛苦であると」
「金上親子も哀れよな。必死になって守って来たつもりの姫にここまで言われるとは」
「食事一つでも好き嫌いがあるのです」
織姫に必要なのは金上盛備・盛実親子や小十郎のような優等生様ではなく、五右衛門であり政宗。割れ鍋に綴じ蓋と言うにはあまりにもいびつな蓋だが、合っているのが現実だった。
「それであなた様、愛姫様を再び側室とすると言う話ですが」
「無理がある。それこそ秀吉に許しを乞うために愛姫を離縁したと言うにまた愛姫を戻すのでは」
「それがかなり面白い事になったようですぞ」
その織姫が愛姫の話をしようとするとまた義姫は突っ込んだが、負けじと政宗も悪い顔をしてみせる。
「何が面白いのじゃ!」
「何でも、この国で一番偉い女性が駿河まで、いや相模まで来ているとか」
「この国で一番偉い女性?」
「北政所様だそうですよ。なあ五右衛門」
「おうそうだよ!」
北政所様————————————————————。
天下人・豊臣秀吉の妻にして、この国でたった二人だけ秀吉が頭が上がらない存在のうち一人。
「……会いに行くのか」
「無論です。そこで天下人とその妻の許しあらば愛姫の望みも叶いましょう。共に参りますか」
「言われるまでもない!」
「ありがたきお言葉。それで実はもう一人連れて行きたい女性がおりましてな」
「織姫か」
「いえ…」
義姫は空しいなりに抵抗はするつもりだった。
武家の女として必死にあがき、その力を百姓の娘に見せつけてやりたい。だから北政所と面会するのはやぶさかではないが、その上にもう一人と言われるのは予想外だった。
「何、ほんの少し前に世話になり、ほどなくして正式にこの蘆名政宗の家臣となる存在の娘です」
「そうか…」
そして政宗の平板ながら自信に満ちた物言いを聞かされてしまっては、もう義姫には抵抗する手段などなかった。小十郎はあきらめたようにため息を吐き、愛姫と織姫は口元を抑えて笑った。
そして石川五右衛門は、いつの間にか消えていた。




