北条氏照の降伏
「北条の兵たちはどうじゃ」
「皆落ち着いております」
「やれやれ、三日もかかってしもうたのう……」
秀吉は汗をぬぐい、ため息を吐きながら水を吞んでいた。
小田原城内部の混乱は秀吉の想定を超える範囲であり、万単位の将兵が逃亡兵になっていた。そして現状、その逃亡兵を豊臣軍は回収しきれていない。
小田原城に籠城していた兵は八万と秀吉は見ていたが、秀吉軍がその日の内に確保できたのは四万、すなわちほぼ半数である。残り四万の内半数が小田原城でこの世を去ったが、討ち死にと言う形で死んだのはそのまた半数である。残る半数は、城内での大混乱の果ての押し合い圧し合いや物資の奪い合いなどで命を落としたのだ。
それこそこの三日間、豊臣軍は死体の処理に追われていた。首がなくなっただけの死体はまだましな方で、全身を踏み付けられた死体や四肢はまともなのに顔がひどく乱れ髪の毛はおろか歯まで抜け落ちた死体まであった。
「直接殺した方がましじゃったかもしれぬ……」
「死人に口なしでございますぞ……」
「わしは結局、せっかちな男になってしもうた……犠牲を減らすために動いていたはずだったのに……」
血臭が漂う小田原城に立つ秀吉と北条氏照の顔色は全く冴えない。黒田官兵衛は半ば無理に笑顔を作っているが、それでも心底からの笑顔でないことは明白だった。
「兄がそこまでの愚物だったとはそれがしもわかりませんでした。徹底抗戦ならばいさ知らず、自分の首元に刀を突き付けられてなお笑っていたとは……」
「不幸中の幸いと言うべきか、将兵たちは信じているようですがな……」
「小太郎も嘆いておりました。最後の最後まで勝利を信じ込んでいたと、秀吉、いや関白殿下はそのうち尻尾を撒いて逃げると。官兵衛殿、将兵たちもそうあの日まで言い聞かされていたと」
「そうですぞ、関白殿下」
自分でも正則と清正たちに言い聞かせていたように、最後の敵が良き敵だとは限らないとは言え、氏政の振る舞いは秀吉の想像を悪い意味で越えていた。
「政宗殿に下野を譲ったと言いのけると言うのは良いとしても…」
「同盟関係とか言うならともかくな……」
政宗に秀吉を阻ませたのちに佐竹や上杉を共に倒して行くとか言うならともかく、それで疲弊した政宗を討ち取り関八州及び東北を北条が制覇する——————
そんな事を大真面目に語っていたのが氏政だった。
「証言はいくらでもあるがのう……」
「某も聞いておりましたと言うか寄越されておりました。その時はまだ芦名殿の事もよく知らずにいたのですが、それこそ弟を失うと言う一大事に伊達家に先を越されるなどと言う真似をした我が身を含む北条家の情けなさに身震いもしました……」
「佐野殿は未だに突発的な死と言う事になっておるが…」
「今となってはもうどうでも良い事です」
もしそれができるのならば、氏忠の死のどさくさ紛れに下野を奪われたりなどするはずもない。あまりにも手際が良すぎるとも思うが、それでもそれを見抜けなかったのは北条の失態である事に変わりはない。そんな家が関八州と東北を手にするなどあまりにも大それている。
「東武蔵や下総にも兄たちの死は伝わっているのでしょうか」
「それはすぐさま伝えさせている。氏政が間抜けであればあるだけ都合がいいのだがな…」
「ええ……」
氏照の顔に輝きはない。自分が蘆名政宗や豊臣秀吉と言うきらめく人物と関わって来たせいか、当主であり兄である存在の間抜けぶりがとんでもなく情けなくなる。
「それでも当主にふさわしい葬り方もありましょう」
「ああ、氏康公の隣に丁重に並べよ」
北条氏政と氏直の首級は既に北条家の墓に埋められる事になっているが、松田憲秀の首は未だに見つかっていない。松田憲秀の息子の直秀は憲秀の首級ともども行方不明であり、長男の笠原政晴は既に自害しているのが確認された。大道寺政繫については風魔小太郎が殺して回収したが、北条の道を誤らせた戦犯として名もなき雑兵たちと十把一絡げに扱われ、息子の直繁も今の所顧みようとしていない。直繫は現状捕虜であるが、氏照に仕えさせるつもりで秀吉も話を進めるつもりだった。
「かつての北条の領国はどうなるのでしょうか」
「もちろんそれ相応に領主はあてがう。本来は徳川殿をあてたかったが……」
「無視できないと」
「ああ、蘆名を北条と引きはがすのは困難だ。正直西国にそんな土地は余っていない」
秀吉からしてみれば本当は伊達と蘆名だけでなく蘆名と北条も引き離したい。だが現状の北条は氏照頼みと言うより政宗頼りであり、さらに言えば北条の関東の統治そのものはかなりうまく行っていたからあまり引きはがしたくない。
ましてや蘆名家にも四十万石を約束した以上、それ相応の土地をやらねばならない。だが立場からして大坂城に近接した地には置きたくないし、九州や四国などに余った土地はない。結局そんな土地があるのは、関東しかないのだ。
さらに言えば、もう一軒ややこしい家がある、
「しかしそれがしにそんなに何もかも話して大丈夫ですか」
「構わぬ。北条についてはこれからが本題だがな、どうしても領国を割かねばならぬ家が一軒あってな……そしてそれ以上に、北条をすんなり許して良いのかと言う声もある……」
「その声は慎んで受けねばなりますまい」
「上杉は上州と武州を求めている」
「上杉はそんなにも欲深ですか」
上杉家。関東管領の地位を上杉憲政から受け継いだ越後の大名。
かつて氏康の子を養子にした事もあったしつい最近まで同盟を結んでいた事もあったが、基本的には水と油の家。そんな御家が憲政以来の悲願である北条討滅が成った以上、そのあたりの領地を求めて来てもそれほどおかしくはなかった。
「上杉とはいろいろあったじゃろうがな、徳川家にも加増せねばならぬ事情がある以上やすやすとはいかぬ……」
「上野を徳川に譲渡すると」
「そうなる。だが上野と三河は遠く、さらにまた別の人間にも報いる必要がある」「かと言って下野は上州と地続きではあっても越後とは地続きではない」
「小田原ですか」
いずれにせよ、上杉は勝者で北条は敗者。だが上杉は忍城への遅参もあり戦果は乏しく、褒賞もそれ相応になってしまうのは仕方がないと言うかそうせざるを得ない。
だとしてもそれでも「上杉の望み」を叶えねばならないのもまた総大将の役目だった。
「氏照殿が当主であればまだ北条は壮健であっただろうし、戦ももう少しはましな物になったでありましょうな……」
「この身とて少し間違えば兄や松田・大道寺のようになっておりました。六代目当主として生き恥をさらすのも役目でございましょう」
北条家の全権を握る事となった氏照は、ただそううなずく事しかできない。
わざとではないだろうがこんなにも荒れ果てた小田原を渡してしまうのには罪悪感もあったが、それ以上に諸行無常ぶりも秀吉は覚えた。
(これが戦の果ての顛末か……)
殺し合いするだけ殺し合いして、後は奪った領土の分け合い。古今東西戦とはそんな物とは言え、正直あまりにも浅ましい。
もちろん武士になり天下人になった以上仕方がない事だが、それでも武士は偉大だった。石川五右衛門だけは認めないだろうが、それもまた為政者の仕事だった。
とりあえず上杉景勝の養子で十二歳の上杉義真改め北条氏義が、北条の姫と婚姻し小田原周辺の九万石を相続。これが名目的な北条家の宗家となり、そして北条氏照には伊豆一カ国六万石が与えられる。天下人に最後まで逆らった家の落としどころとしてはそれほど悪くはない。
そして残りの相模と武蔵の一部合わせて四十万石が、蘆名政宗の取り分となる。
(裏切り者として苦しめばいいと思う程度には性質が悪い……つもりなのじゃがな)
蘆名政宗に残る相模と武蔵の一部を与えねばならぬと言う現実は、決して後味のいいものではなかった。




