北条格差
「また杞憂と戦っておったのか」
「杞憂である事を証明せねばなりませぬからな」
数日ぶりに再会した主君からのずいぶんな言い草に対し、小十郎もすぐさま言い返す。
秀吉の目線の先で甲冑と兜を着せられる主君は、おとなしそうに見えて視線はちっとも死んでいなかった。
「何を言うか、夜な夜なずっと小十郎は小十郎はと言っておったぞ」
「小十郎が我が身が死んだと思い込んで勝手に後追いをせぬか心配していただけでございます」
「私はそこまで脆くありません!」
「織姫はそんなに不足か」
「いくら何でもそこまで女子に飢えておりませんから!」
「小十郎には七つの男子がおるからな。わしにはおらん。そういう事だ」
何かを察した秀吉が笑い出す一方で黒田長政は顔を赤らめ、官兵衛は秀吉と同じように笑っていた。いくら何でもと言いたくなる話ではあるが、小太郎が言ったように三十と十六と考えるとさほど問題もなくなる。秀吉が婚姻した時でさえ二十五と十四なのだから、それとほんの三つぐらいの差でうんたらかんたら言うのはある意味目の前の人間に喧嘩を売っているとも言える。
「彼女から何も聞いておらんのか」
「十の娘に何を聞けと言うのですか」
「今は我が妻だ。それにわしは入り婿だ」
「でも」
「おねは十四の時からわしの数十倍しっかりしておった。食うや食わずやの時代からずっと足腰定まらぬこのわしを支えて来た女子じゃ。わしも育ちが悪かったからのう……まだ間に合うかもしれんとは言え、幾たびも幾たびもまぐわったのについぞ無理じゃったからな……………………」
小十郎は、どうしてもデモデモダッテをやめられない。
女々しく男らしくなく武士らしくもないとわかっていても、誰に口説かれてもこうなってしまう。
「出羽の鬼姫も家臣教育まではできなかったか……」
「小十郎は誠意ある人間ですぞ」
「わかっておる。じゃからこそわしのような存在が不可解でしょうがないのじゃろう。それに対する自分の主君ぐらいはわかりやすい人間であってもらいたいというのはまったく誠意に満ちたお話じゃ」
「誠意…」
「じゃがな、その誠意が通じる相手と通じん相手がおる。わしが蘆名政宗を生かしたのは政宗が面白いと思うたからじゃぞ、ただ単純に申し訳ございませんでしたと頭を下げられていたら三成へのはなむけの材料にしていたかもしれぬ」
官兵衛に救いを求めようにも、同じように笑うだけ。杖さえもまるで刀剣のように思えてしまい、わざと帯びずにやって来た脇差をつかみたくなってしまう。その間に政宗は数日ぶりに勇ましい甲冑と弦月兜の姿になっていたが、小十郎にとってそんな飾りに何の価値もなかった。
「で、いつ頃我々は出るのでしょうか」
「おそらくは三日後じゃな。今日はこの後わしと共に徳川殿と会い、策を合わせねばならぬ。もちろん氏照殿ともな。それで明日にさらに細かいところを詰め、明後日に決意を固め、そして…」
「一日で落ちるのですか」
「万が一の確率でな。ああ万が一と言うのは二十数年に一回って意味でな、アッハッハッハ…!」
秀吉の言葉にはまるでつかみ所がない。万が一の確率とか、それこそ投げやりとしか言いようがないお話だ。いきなりとんでもない病気が蔓延して小田原の人間が全滅するとかでもなければ一日で城が落ちるわけもなくそれこそ夢物語だ、だと言うのに目の前の人間はそれを文字通りの意味でぶつけて来る。
「そんなに小田原は悪いのですか」
「ああ悪い。氏直と氏政たちの距離が余りにもありすぎる。北条は氏照殿だけとは限らん事を知ってもらいたい」
「しかし話によれば北条の次期当主には氏規殿を据えたかったのでは」
「氏規は既に我が子が面倒を見ている。ったく災難じゃな、本人からしてみれば全力で北条を守ろうとしたのに」
小十郎はおろか、政宗も知らなかった。
北条家が氏政と氏照に分裂しただけでなく、小田原内部ですら分裂状態にあった事など。
「氏照殿は」
「北条にはある程度の石高を与える旨約束もした。氏規殿や氏光殿と共にお家を守って頂く。それを踏みにじればわしは満天下の笑い者じゃからな」
「そういう事だ。本当に三日で終わるかもしれんぞ」
政宗の顔には、まるで憂いなどなかった。
※※※※※※
「今すぐ投降しましょう」
「真面目に物を言え!」
その頃小田原城本丸でもまた、憂いなどなさそうにしている二人の中年男が親子喧嘩を見つめていた。
「氏照が討ち死にしたとか捕縛されたとかならともかく、どうして我々に反旗を翻す必要がある?」
「この小田原が落ちるのも時間の問題だと思われたからでしょう…」
「万が一と言う物ですよ、まあ斉天大聖でも見てしまったのでしょう」
「なるほどなるほど」
松田憲秀が世界一高貴かもしれない猿の名前を出して氏照を評論し、大道寺政繁もそれに追従するように笑う。この二人によるまったく面白くもない漫才はもう何十日連続かで公演されていた。そしてそのたびに氏政と言う客一人だけが笑う。
「もうこの小田原に明日などありません。私が関白に投降し」
「馬鹿か!」
「馬鹿とは何ですか!状況はこれより悪くなりようがありません!少しでも遅れれば」
「ああまったく、かわいそうな城よ……」
氏政は必死にわめく息子をあやしながら、《《小田原城》》をなぐさめる。
始祖早雲が奪取してから百年近く落ちなかった城が、なぜ落ちると思われているのか。連戦連敗ならともかく、連戦連勝中なのにだ。
「連戦連勝をもたらした人間が!今や敵になってしまったのです!」
「だからそんな馬鹿馬鹿しい事を言うなと言ってるだろう、どうして伊達政宗が蘆名政宗になり、寵臣を殺したサル関白に頭を下げ、同じく寵臣を奪った狸男と手を取り合えると思う?政宗が負けたならともかく、勝ちまくったのだぞ?」
「秀吉はそんな事気にしません」
だと言うのに息子は自他共に認める卑賎の出である成り上がりの関白に必要以上におびえ、たった一人の寝返りに動揺している。
「よいか氏直、此度の連勝は、北条家の連勝である。伊達政宗は北条の力と威に魅かれて自ら頭を下げに来たのだ。そしてサル関白を打ち破った暁には我々と共に」
「富士山の 高嶺に咲くや 三つの花 日月笑いて 赤く染まらん」
「関東と陸奥を分け合いいずれは天下をも握るのだ」
氏直の言葉など、氏政の耳には届かない。政宗が寝返ったという噂ですら秀吉が流した虚報に過ぎず、関白のくせに小賢しい手を使うと内心嗤っていた。
「……まあそろそろ連中も動き出すでしょう。そこで私が猿の手先を叩いてお館様を元気づけねばなりますまい」
「仕方がありませんな、私も同行したいのですが任せます」
憲秀と政繁もまったく同じ調子だった。氏政よりも世間が広いはずなのに二人して浮かれ上がり、氏直の言葉など全く耳に入らない。
(もう誰もわしの言う事など聞いてくれない……)
氏直の苛立ちはとっくに最大限を通り越しており、何度自分の刀でこの三人の中年男の頭をぶった切ってやれば気が済むと思ったか、自分でも十から先は数えるのをやめたほどだった。
そして苛立ちが一周回った果てにたどり着いたのは、無力感だけだった。こんなにも自分は真剣に訴えかけているはずなのに氏政以下誰も耳を貸さない。
いっそ本当に死んでしまえば気が楽になると思い、それでそうなったら誰が残された将兵の責任を取るのかとなってしまう。そのためにもなんとかせねばならないとは思ってはいるが、思っていても行動に移すだけの気力がない。
(ああ……短い生涯を終える事になるか……初代様、我が不才をお叱り下され……)
氏直は早雲に向って、懺悔の言葉を繰り返した。自分の無力と不才をひたすらに嘆き、自分の手でお家を滅ぼす罪を嘆いた。
だが、氏直も氏直で、ずっと氏政らに拘束されていた訳ではなくそれなりに暇はあったはずなのに、口ばかりだった。
憲秀と政繫の息子である直秀と直繁など若い家臣とも会っていたが、氏直の口から出る言葉は決まっていた。
「どうかこの家のために、民のために頼む!」
一見ごもっともだが、実際にごもっともなだけでしかない。
そんなごもっともなだけでしかない言葉が持つ力など、知れていた。




