徳川軍の後退
「先鋒を譲れ!?四日後には攻撃をかけると聞きました!よりによって!」
秀吉の命を受けた井伊直政はまた顔を赤くした。
実は氏照が書状を送ったのと同じ日に、東方から小田原城へと攻撃をかける旨徳川軍に予告が入っていた。
そんないよいよ小田原城攻略と言う段になって栄えある先鋒の座を譲れなど、不名誉でしかない。
「聞いていないのか、関白殿下は」
「聞いてはいる、だがいったい誰が先頭に立つと言うのだ」
「複雑な話ではない。蘆名政宗と北条氏照だ」
「要するに弾除けか」
直正は不貞腐れるようにそっぽを向くのに対し、大久保忠世と忠佐兄弟は丁重に口を開く。先鋒とか言えば体裁はいいが要するに真っ先に犠牲になりに行く役どころであり、犠牲者の多い役目である。もちろん両軍にもそれなりの防御は寄越されるだろうが、それでも犠牲者は次鋒以下よりも多いに決まっている。
「こんな戦でわざわざ死ぬ必要もない。前で誠意を振るって死んでいく人間を眺めるのもまた将の役目だ」
「それならいいのですが…」
「今更芦名や北条の人間を惜しむほどお人好しでもあるまい。せいぜいご機嫌取りでも覚えておく事だな」
「わかりました」
家康と大久保忠世からたしなめられ、直政は顔の強張りを弱める。酒井家次がいるとは言え、直政はどうしてもこういう扱いだった。
「武将たるもの誰だって戦功を立てたい。私だって同じだ。だが所詮命は一つしかない。浪費する事もない」
「命一つを武器にするのも武士でしょう」
「それでうまく行くのは能力以上に運だ。そんな賭けに他人を付き合わせるのはほどほどにしておけ」
四十三歳の榊原康政もまた、親のような言葉を直政に投げかける。もう三十一だと言う年齢ほどには成熟していると思われていないのに頬を膨らませようとするが、家康の目線がある手前必死にこらえている。
「とは言え…」
「北条はもはや死にかけ、伊達、じゃなかった芦名は服属。戦場などもうないと思っているのか」
「はい…」
「戦は身を立てる手段の一つでしかない」
武士にとって戦場を奪われるのは、立身出世の筋道を奪われるに等しい。家臣たちが満足する俸禄を与えるのもまた主君の役目であり、そのためには領内を潤して石高を増やすか、他者の領国を奪うかしかない。そして前者には果てしなく時間がかかるし、増える量も微々たる物だ。誰も傷つけずに得をするとか言えばお題目だけはご立派だが、そんな悠長な手段に付き合えるほど飼い慣らされた人間などめったにいない。
さらに言えば絶好の肥沃な土壌を作ってくれたと敵は喜ぶだろうし、家臣でさえもそんな事より先によそ様の土地を奪って自分たちに寄越せそれができねえならすっこんでろとなるのが戦国乱世だった。
「主君に身をゆだねるのもまた身を立てる手段ですね」
「おまっ、あのな!」
だがその高説をぶった人間が榊原康政だった事は、直政にとって面白くなかった。そのせいか直政の口からそんな皮肉とも自嘲とも言えそうな言葉が吐き出され、康政の口から唾液があふれ出る。
「私だってその手の存在ぐらいおります!榊原殿や本多殿とて!」
「それとこれとは別問題だろうが!」
「私が少しでも文書きの才があればそうなれたのでしょうか」
「そんなのは関係ない、ただある種の猪突猛進だ!」
康政が本多忠勝とかと肩を並べるまで立身出世できたのは小牧長久手の時に秀吉の出生や織田家に対する仕打ちなどを糾弾したのがそもそもの始まりであり、その上に小牧長久手の戦で莫大な戦果を挙げたからである。
「まさかその経緯がばれていたとか」
「隠す理由など誰にもない。それにそんな話を真に受けるか普通」
そんな事をした人間を秀吉は和睦の際に呼び付け、糾弾するどころか褒め称えて実際に従五位下の位まで寄越し、徳川の重臣に仕立て上げた。あるいは政宗がその経緯を知り、自分も同じように大胆に飛び込んでいけば許されるかもしれないと思ってこんな真似をしたとすれば政宗にとって康政は救世主であり、政宗を嫌う存在からしてみれば要らんことしいの極致だった。
「でもこれで戦が終わるとなればその手の才が出世栄達の条件となりましょう。石田三成殿もその道で出世街道を歩むはずだったのに、ですよね」
「文武は車の両輪である。いずれが欠けても進める物ではない」
「……」
「物事には光と影がある。光ばかり見ていては大事なものを見落とす。その石田三成のようにな。決して我々は三成の二の舞を演じてはならぬ」
この時の家康の目線は、直政を向いていなかった。
康政の方も大久保兄弟の方も、無論この場にいなかった本多忠勝の方も。
「この先の時代、武士は要らなくなるのでしょうか」
「それはない。だが役目は変わろう。そしてつまらぬいさかいからお家が崩れるのもまた変わらぬ」
「そうですね」
その視線の先にいる存在を、決して軽んずなかれ。
その家康のメッセージこそが、直政にとってはある意味一番面倒くさかった。
「前田様は」
「前田殿は氏照の身元引受人だから問題はない。しかしそれにしても、だ。於義丸もずいぶんと立派に育ったようだな」
「関白殿下不在を見事に乗り越えたと」
「そうでなければ大騒ぎになっておる」
「秘かに何かを起こされたとは」
「それはあるまい。どうも風魔小太郎もこちらに付いたようだからな」
「はぁ…?」
忠世に乗っかるように話を変えにかかった家康だったが、息子自慢と共にサラッと吐いた言葉により場はさらにざわついた。
「風魔小太郎が北条を見限ったと」
「違う、小田原を見限っただけだ。小太郎はあくまでも北条の家臣として、仕える主を氏照に変えただけらしい」
「小田原はそこまで」
「らしいな。見ている分には堅城のままなのだが、急に小城に見えて来る」
小田原の城は、依然としてその威を誇っているように見えていた。
だが小太郎に見切られたという情報一つだけで、急に小さくなった。
もうひと月近く包囲されているし確かに包囲網も徐々に狭くなってはいたが、それでも個々の櫓はまだまだ壮健なはずだったのにだ。
「小太郎はそれこそ、北条を支えてきた要だった。北条が五代続いて来たように、風魔も五代続いていたのかもしれぬ。それがいなくなったせいか、どこかあの城は浮いてしまった。と言うかむやみに目立ってしまった」
「本城が目立たぬなど不可能では」
「今の目立ち方は悪目立ちと言う。いかにも攻めてくださいと言わんばかりに自己主張し、来るなら来い取って食ってやると獣のように吠えている」
むやみやたらに吠える獣は一見恐ろしいが、実際は雉も鳴かずば撃たれまいであり弱い犬ほどよく吠えるである。吠えまくるなどそれこそ相手に自分の存在を教えまくるだけであり、そして単純に体力を消耗する。
「おそらく北条氏政はほどなくして討って出てくる。それこそ我々の付け入る隙だと知ってか知らずか」
「そこを叩き徐々に追い詰めて行くと」
「わしが関白殿下ならばそうする。細かい戦勝を積み重ねて人心をさらに追い込む。じゃがわしは関白殿下ではない」
「では関白殿下は」
「おそらく小太郎を使う。小田原を壊すためにな……」
家康は、それ以上語ろうとしなかった。
小太郎にすら見切られた氏政たちを憐れんでいるのか、それともまた別の存在を危惧しているのか。
その答えは、井伊直政には全く分からなかった。




