徳川家内の空気
「伊達、いや芦名政宗が我々についた?」
もちろんその情報は徳川軍にも入った。
秀吉が《《芦名》》政宗の降伏を受け入れ、そして奥州の政宗の弟の存続を許し、さらに北条の一族まで抱き込んだと言う—————。
「氏規はどうなるのだ」
「それはわかりませぬ」
家康は話を逸らすように氏規の名前を出すが、正信も何も言えない。氏規は元から家康とも幼馴染であり今は氏政・氏直親子と豊臣家の間を駆けずり回っていたが交渉はまとまらず、氏政・氏直親子討伐の暁には氏規を当主として据えるとまで言われていた。
「黄金色の磔台を持ち込んだ所までは存じておりましたが、それでまさか北条まで取り込むとは……」
「氏照と氏光はそこまで独眼竜に取り込まれていたか…」
氏光はともかく氏照は氏規の兄であり、どうしてもそっちが上位になる。別に氏照の事をよく思っていない訳でもないが、家康からしてみれば氏規よりは面白くない。
「とにかく皆に諮るしかないだろうな」
家康さえも、他に何の言いようもなかった。
「ではこれから政宗は友軍となると言う事ですか!」
「おそらくはだ。政宗を半ば人質のようにして芦名軍を動かさせるだけの気もするがな。そうなればその方の溜飲も下がろう」
当然の如く憤慨した酒井家次に対し、家康は当たり障りのない事を言う。実際あそこまで自分に逆らった人間をそうやすやすと許すはずもなく、概ね北条氏照と共に先手と言うか弾除けとして使われるだろう。もちろん政宗自身が先鋒に立たされる可能性も十分ある。それで万が一討ち死にでもしようもんなら、政宗のやった事には冗談抜きで何の意味もなくなる。
「しかし政宗はおそらく我々と同じく東方に当てられる事になりましょう。もちろん西側に回り関白殿下自ら監視の上でと言う事も考えられますが」
「時間がとか言うにはあまりにも安直です。関白殿下らしいと言えばそれまでですが個人的には賛同しかねます」
「とは言えしょせん今の我々は関白殿下の配下、その事を分かっているのか万千代。それとも何か、徳川が政宗のようになれなくてむくれているのか」
「馬鹿も休み休みおっしゃっていただきたい!」
大久保忠世から幼名で呼ばれてへそを曲げた井伊直政だったが、実際この場にはもう豊臣方か北条方かしかいない。第三勢力とか言う野望を気取れる存在などどこにもいない。
いや強いて言えば「伊達政宗」が東北の諸大名を糾合しさらに佐竹辺りと組めば第三極になれたかもしれないが、その政宗は既に豊臣に降っている。
「直政、そなたの敵は一体誰だ」
「それは、お館様の敵でございます」
「ならば言う。今の我々の敵は北条氏政と氏直だ。それら以外をむやみに排除してはならぬ」
家康自らにたしなめられてなお、直政は顔の赤みを減らさない。井伊の赤鬼と言うより小鬼のような顔をして、主に駄々をこねようとしている。
「でもお館様は氏政だけでなく氏照をも討てと」
「もう玉縄での戦は終わったぞ!」
「氏照が関白殿下に会えばどうなるか分からないとおっしゃっていたではありませぬか」
そしてその小鬼の一撃は、確かに主の痛点を突いていた。
「確かにそうだ。だからわしは氏照を見張らせた。だがあくまでもそこまでだ」
「本当は不意を衝かれただけなのではございませぬか!」
「否定はせぬ。わしとてあそこまで北条の人間の心を政宗がつかんでいるとは思いもよらなんだ」
家康自身、北条氏照と政宗が事実上共闘して自分たちに勝った時から両者の仲を疑ってはいた。このまま両者が結びつきそのまま氏政・氏直親子と一体化すればそれこそ最悪小田原城を落としてもまだ戦いが終わらないとか言う泥沼に突入するかもしれないぐらいの危惧は抱いていた。
だから最悪の場合氏照を殺し伊達政宗の味方を減らすぐらいのことはするつもりではいたが、それでも政宗が秀吉の陣に入ってからわずか一日で氏照が動いたのは家康にとって想像の範囲外だった。
(関白が氏照を呼びつけたとして素直に応じるとは思わなかったわ……氏照ほどの存在をそこまでさせるとは一体……)
家康は、伊達政宗と言う存在を軽く見ているつもりは全くない。わずか数年で戦乱状態だった東北をほぼ統一し百万石の大名になった手腕は卓越したそれであり、実際戦って負けてしまった以上最大限の評価をせざるを得ないつもりだった。だがそれはあくまでも卓越した武勇と知略であり、カリスマ性については考えていなかったと言うか考えたくなかった。
カリスマ性と言うのは基本的には極めて属人的であり、いかにその人間が優れていようとも死ねばおしまいである。ましてや秀吉のような水呑百姓の出生がいい方向に作用するでもなく、自分のような十数年人質生活をしていた体験がある訳でもない政宗にその筋の素質があるとは認めたくなかった。親を戦場で自ら撃ったのはそれなりに重いが、それでもそれは本人の問題である部分も少なくない。
「氏照が関白殿下のいらっしゃる大庭城に赴き服属を誓ったのがほぼ事実である以上、関白殿下は政宗をますます信用する。氏照は武将としては氏政異常であると評判だからな、この一撃で小田原城が一気に崩れる可能性もある。そうなればこの戦の一番の手柄は芦名政宗だ」
「そんなめちゃくちゃな!石田三成殿を殺したのに!」
「関白殿下はその程度の事は呑み込む。少なくともそれで棒引きぐらいで手を打つ可能性は高い。そうなれば芦名家は今の下野一国並みの領国を保ったまま生き残る。もちろん伊達家本体も粗略にはされない」
それでは東の巨大な勢力が消えたわけではない。仮に旧伊達領の米沢六十万石と政宗が半年近く実質統治していた下野一国を合わせれば百万石近く、小田原出兵前と比べて十数万石しか減っていない。それこそ秀吉が出した惣無事令を踏みにじったも同然のお話であり、完全な勝ち逃げである。佐竹や上杉、最上とか言う伊達の敵対勢力を太らせたとしても盾にしかならない。
「だが直政、かと言って大仰に兵を動かせるわけでもない。その時の氏照は数名だったんだぞ。そんなのを襲ったらどうなるかわかるか」
「……」
とは言え大庭城に向かった氏照は寡兵と呼ぶにも馬鹿馬鹿しい人数での行軍と言うより投降の使者であり、そんな物を数百の兵で取り囲んで殺せば卑怯者との烙印を押される。仮に案内とか気取った所でそんな役目は本来秀吉が大庭城にいる以上秀吉軍自らするものであり、家康や直政なんぞがずけずけやる役目ではない。
「とりあえず、あの娘、いやあの女は本物なのでしょうかね」
そして政宗の名目を最大限に補強しているのが、織姫とか言う芦名の姫である。
話によれば今も小机城にいるらしいが、まだ十前後の娘に婿入りするなどまったく理解の外だった。
「どうやら芦名の家臣にかくまわれていたと言うか拉致されていたらしいが少し前に救出され、そして政宗の物になったとか」
「…まさか!」
「そう、石川五右衛門だ」
石川五右衛門————————————————————。
「またか!」
直政のその三文字は、徳川家の共通認識だった。




