おねは知っている
ここから後半戦です。
「佐吉が!?」
大坂城の中で、二人の女が色をなしていた。
取り分け濃かったのは茶々であり、おねは冷静に関東から来た書状を改めている。
「佐吉、なぜじゃ!なぜこのような!」
「戦場に出た以上こうなるのは覚悟の上だったのでしょう。あまり本人の意思を軽んじてはなりません」
夫こそ健在ながら数多の死を感じて来たおねに比べ、二人の父を一人の母を戦で失ったはずの茶々は正体を失いそうになっている。
(茶々にとって佐吉は数少ない仲間。近江にてお姫様だった頃を知る仲間……)
これが経験の差とかでない事を、おねは知っていた。
元々浅井長政とお市の方と言う大名の長女として近江で生まれ育った彼女にとって近江は故郷であり、近江生まれの人間はそれだけで同志だった。その同志の中で筆頭格とでも言うべき出世栄達をしている三成はそれこそ希望の糸であり、その死は福島正則と加藤清正とか言う尾張出身の同僚のそれの死の数百倍重かった。もちろん二人とも死んでいないが、そんな事など茶々にはどうにも良かった。
「確かに佐吉の事が悲しいのはわかります。棄の事が大事なのはわかります」
「では…」
「ですが今は夫はおりませぬが、私もおります。母上もおります。辛ければ素直に辛いと言いなさい。そなたの辛さは子一人に背負わせるにはあまりにも重すぎます」
「秀次は…」
「あの子は今は小田原です。とりあえず姉上様にお頼み申し上げましょう」
姉上と言うのは秀次の母のなかの事であるが、北政所であるおねからすれば目下だった。義妹のくせにずいぶんな物言いだが、それでも権力と言うのはそういう物だ。
おねは北政所の権力を最大限に使うつもりだった。
「うちの長女を何に使う気だい」
「茶々殿がひどく憔悴しているので話し相手をと」
「人の嫁をずいぶんと簡単に使うもんだね」
「本当に簡単に使うのならば中継ぎなど使いません」
満天下で唯一上からの物言いが許されている女性を前にしてもおねはひるまない。一応使者としてなかの側仕えの侍女を通す程度には謙虚さを示した彼女だったが、それでも結局やっている事は義母の言う通りだった。
「まあお互い百姓の子どもだからそんなんでいいんだろうけどね、今じゃ仮にも関白様の嫁と義姉なんだろ?」
「ええ」
「そんなに簡単にホイホイと動き回っていいもんかねえ」
「いいと思います。それが我が夫ですから」
我が夫の一言であっさりと全てを片付ける姿は、冷酷ではないが情熱的と言うより猛進的だった。
決して妄信的ではない。
猛進的だ。
「それであんた、三成って子が死んだらしいけどどうする気だい?」
「三成の遺児や妻たちへの手当てを出さねばなりませぬ」
「そんなのはあんたがする事でもないだろう。北政所様ってのはそんなにも暇かねえ」
「案外と暇です。百姓や武士の妻であった時のことを思えば仕事量など数分の一ですから」
それは事実だった。関白の妻と言うのは当たり前だが武士以上に貴族との付き合いが多く、どうしても貴族の悠長な時計に付き合わされる。信長がいた時はそれこそ一刻一秒を争いせわしく動いていたつもりだったが、牛車とかに乗って動くような貴族が相手では一日かけても一手も進まない事がちっとも珍しくない。
「それでもその数分の一の中で気になる名前も見つけました」
「何て言うんだい」
「石川五右衛門です」
そしておねの口から飛び出した単語は、またもや石川五右衛門だった。
「あの天下の大泥棒がかい」
「ええ、貴族の皆様も入られたとか入られなかったとか」
「関白様とか言いながら私よりも貧乏だったってのにね。って言うかあの子もあんなのを当てにしてたんだろ」
「それは武士とて同じです」
おねは五右衛門を知っている。
ただ大名の妻と泥棒と言うだけではなく、それ以前に顔見知りだった。
「五右衛門は飢えた民のふりをしてこちらの城に入ろうとした事もありました。もちろん大坂よりもずっと前ですけど」
「それでどうしたんだい」
「ちょっとからかったんですよ、この城にある代物は全て銘が付いていてよほどの辺境でもないとすぐ見抜かれると」
おねはずっと城に籠るような人間ではない。彼女自ら乗り出して領内の貧民のための炊き出しなどを行い、その際に数多の民に触れると同時に五右衛門にも触れていた。
戦の前にも下見があるように盗人もまた標的を下見してから侵入する物であり、五右衛門もまた庶民になりすまして下見をしようとしていたのだろう。盗人と言うのはそれこそ金銀財宝を奪うのが仕事であり、その財宝を金穀に変えるに当たっては表には出ない商売筋があるのも真実だった。治安良化と共にその手の筋を封じようとしているが、なかなか根絶は難しい。
「その五右衛門がどうしたって言うんだい」
「島左近は申し述べているのです。此度の一件は五右衛門が関わっている可能性があると」
「へえ」
そして島左近は石田三成ほど優等生でもないからか五右衛門の存在を深く感知しており、その五右衛門の存在が自分の主人の死につながっていると疑っている旨書状に記していた。茶々は三成の死と言う時点でショックを受けておりその後は目を通していなかったようだが、おねは五右衛門の存在を理解していた。
「それでです。おそらく五右衛門は私たちに戦いを挑んでおります」
「ケンカを売りに来たのかい、たった一人で」
「五右衛門にとって夫はただの百姓であり、私は百姓の女房なのでしょう。そして五右衛門からしてみればそんな夫と妻が天下人になった事は好都合だったはずです。
ですが私たちは今や関白と関白夫人です、その前に侍です。せっかく自分の思う通りだったはずなのにそうならなくなってむくれているのでしょう」
「とんだわがままだね」
なかが言うように、五右衛門がやっているのはまったくのわがままでしかない。たった一人人が変わってしまって気に入らなくなったからって抵抗しようなど、図々しいにもほどがある。だが五右衛門にしてみれば全く真剣であり、そのために石田三成を殺したのだ。
「ですが我が夫はわがままを通せます」
「それが関白様って奴なんだろ」
「夫が北条と伊達を倒した先に何を望んでいるのか、それは私も今一つわかっておりません。その時私は夫を止められるでしょうか」
「あんたの言う事を聞かない子じゃないだろ」
「あのお方が幾度も無茶をするなと袖を引きちぎらんとした私を足蹴にしたかご存知でしょう」
そしておねに言わせれば秀吉もわがままなのは同じだ、となる。自分が賢いとは全く思っていないが、事前に聞かされていたら何度反対したかわからない事を秀吉は平然とやってのけている。その時点で自分がああだこうだ言う資格などないのはわかっているが、それでも不安は消えなかった。
「私は夫に会いに行きます」
「ほうそうかい、あの子も本当迷惑をかけるわねえ」
「わかりました」
おねはそうなかに告げてから歩を進め、そのまま三十年前と変わらない速度で歩き出した。
「ちょっと!」
そう、この世でたった一人彼女を止められる女を置き去りにして、大坂城を歩く。
呆気に取られ聞き逃していた彼女が気付いたのに構う事なく、四十四の女が歩く。
止められる人間は誰もいない。
言うまでもないが北政所として莫大な権威を持っていたおねに諫言できるような存在は限られていたし、ましてや糟糠の妻である分だけ重みもあった。女官の大半はおねを尊敬していたか北政所と言う権威にひれ伏していたかのどちらかで、男たちも似たような物だった。
結果そのまま半刻はおろか四半刻もしない内に、既に何もかも出来上がっていたと言わんばかりに整えられた兵馬の守る篭へと入り込んだ。
「奥方様!」
「夫の危機に妻が黙っているなどできませぬ!」
「ですが!」
「ですがも何も今更退けますか!」
やっと大政所の部下の女官に追いつかれた時には、もはや出立間近の状態だった。
「母上と茶々殿にお申し付け下さい、私は関白殿下と共に以外帰らぬと!」
こうしておねは、秀吉が十八日間かけて通った道を追ったのである。
時に天正十八年、四月一日。
秀吉が《《芦名》》政宗を認める十七日前の事である。




