武士と農民と
慶次郎が天幕を飛び出してからまた四半刻後、秀吉が黒田官兵衛が留守を守っていた再び本陣に戻って来た。
やはり左右に黒田長政と立花統虎を連れ、今度は前田慶次郎も共にいる。
緑色の巨人のような慶次郎の存在は秀吉の存在を覆い隠す事はなかったが、それでも黒田官兵衛の存在は薄れていた。
「で、小用ぐらいはあったのじゃろう」
「しょせんは人間ですので」
「ははは、少し見てみたかったがのう」
芦名政宗はと言うと、この間一度用を足した以外ほとんど座り込んでいた。そのせいか白装束は茶色の部分が出来、どこか覚悟も汚れているように見えた。だがそんな捉え方をできる人間など、この場には一人もいない。また秀吉の笑い声が嘲笑ではなく良き仇に出会ったそれである事に気付かない人間も、この場に一人もいない。
「で、だ。そなたは実弟と、自分が守ろうとした北条の二人を守りたいと」
「いかにも」
「で、自分はいいのか」
「先にも述べたように、もう満足しております。許されるのならばそれでよし、許されぬのであってもそれでよし」
「ずるい理屈だのう。先ほどまでの潔さはどこへ行ったのやら」
「元から潔いつもりなど毛頭ございませぬ、自分がやっているのが命乞いに過ぎない事は理解しているつもりですから」
命乞いと言う言葉は、あまりにも情けない。
だが政宗がどんなにきれいな形を整え黄金の磔台で飾った所でやっているのは自殺願望の発露に過ぎず、あるいはそのやり方にほだされての助命を期待するある種の命乞いでしかない。
「ずいぶんとあからさまな物じゃな。この態度、誰から教わった」
「誰からでもございませぬ。強いて言えば本能かと」
「嘘を申すな。わしの情報網を甘く見るな」
「教わってはおりませぬ、思い出したと言うべきかもしれませぬな」
「やはりそうか。石川五右衛門か」
そしてついに、秀吉の口からその名前が飛び出した。
石川五右衛門。事実上最大の下手人。
「もういいんじゃよ、石川五右衛門にそそのかされたと素直に申しても」
「五右衛門がそそのかしたとしても耳を貸さねばよろしかっただけの事。我が家臣小十郎はそうするように必死にこの身と戦いました。されどこの身はその男の言葉を聞きました。そして触れました。びた一文後悔などございません!」
「あの大泥棒が武士のために動くとは思えんが」
「動きたいから動いているだけでしょう、その力に乗っかっただけです」
五右衛門は武士ではないし、秀吉も武士ではない。
武士と言う名の人殺しを生業とする人間からしてみれば、素人に口を出されたくないと言う自尊心もあった。もちろん織田家でもそういう風はあったが、それでも秀吉が出世栄達できたのは織田信長のおかげさまでしかない。ましてや地元に生き地元を知っている農民ならともかく、定住と捕捉と言う名の死が同義語である犯罪者では信用性はない。そんな人間の話に乗るなどどうかしている—————とならないのが秀吉だったし、政宗でもあった。
「その挙句最後まで戦う事もなく!」
「虎之介!」
「し…!」
「関白殿下とて誰かのために戦っているだけでしょう。ですからそのためにあえてひざを折るのです」
秀吉は割り込んで来た長政を杖で打ち据え政宗に向け、政宗も隻眼で秀吉の倍以上の力を持った視線で返す。視線以上に言葉は強く、それ以上に傲慢ながら自信に満ちている。
「だがその望みを叶えてやる義理はない。わしはともかく五右衛門には」
「関白殿下は石川五右衛門と言う存在をどの程度ご存知なのですか」
「直に対面した事もないから知らん。何せこの吉兵衛よりほんのいくつかほど年かさなだけじゃからな」
「それでは我が身には一日の長ありですな。話していて実に面白い男で、どうしてかような存在がいなかったのかと恨んでしまう程度には心和みました。ちょうど十ほど上と言う事で人生の先達としてもようございました」
「なるほど……」
秀吉がどの程度まで五右衛門を知っているのか探りを入れにかかった政宗に対し、秀吉は最低限の事しか言わない。こっちも探ろうとしているのか、それとも本当に何も知らないのか、二人して腹を探り合っているようだった。
「それで、そなたはその五右衛門がそなた、いや伊達や芦名を守ると思うているのか」
「彼は守りたい物しか守りますまい。その守りたい存在が守れと言えば彼は守りに来てくれると思います」
「ほう……御家ではなく人に懐くと言うのか」
「ええ。そして武士と言う存在を激しく嫌悪しております。それがしには幾度も幾度も話してくれました。昔の関白殿下はどちらかと言うと好きでしたが、今の関白殿下は嫌いだと」
「ずいぶんと懐かれたようじゃな」
「ええ、逆にこっちが懐いただけかもしれませぬが」
政宗もまた、五右衛門の全てを知っている訳でもない。いくら自分が親友を気取った所で相手に利用されているだけかもしれないし、実際ここまで半年近く政宗は五右衛門に誘導されているという自覚はあった。
「ふむ、ふむ、ふーむ。そうか、そうか……。ああわかった、相分かった」
秀吉は、自分が最終判断を下すべき時が来たのを知ったかのようにわざとらしく間延びした声を出しまくった。
「その五右衛門とやらにこう申せ。
そなたを親友と呼ぶ人間をどうしても守りたいと言うのならな、ここに北条の代表を連れて来てくれ、と」
「代表と言いますと北条の」
「そうじゃ、北条氏照じゃ」
北条氏照。
現玉縄城城主にして北条家では二番手か三番手ぐらいの実力者。当主の氏直や大御所の氏政にその気がないであろう以上、今話が通じるであろうもっとも位の高い人物。
「そなたはここから動いてはならぬ。そうじゃな、三日ほどここに留まっておれ」
「その旨をどう伝えろと?」
「紙と筆を持て」
秀吉は紙と筆を持って来させるまでの間、急に意地の悪い顔で政宗に微笑み出した。
「もし三日の間に氏照が来ぬのであれば」
「心得ております」
「勘違いするな。北条の身の上に付いては保証せんと言っておるだけじゃ。伊達や芦名をどうするかはまた別の問題だと言っておる」
「右衛門佐(氏光)殿では駄目ですか」
「駄目じゃな。この大戦を終わらせるには氏照ぐらいの重みがある人物が頭を下げるぐらいの事をせねばならぬ。今の所氏規がわしの望む北条家次期当主じゃが、彼だけではどうにも心もとなくてのう」
氏規は氏照の弟で、小田原征伐以前から豊臣家と交流のあった人物であり、徳川家康とも顔見知りと言う存在である。だがしょせん弟は弟であり、兄ほどの武勇伝もない。
「案ずるな。徳川殿の軍勢は小田原へと向かわせている。この大庭城と玉縄城までの道を阻む物はない。阻む物などな」
政宗の中での五右衛門の大きさ。北条氏照にとっての政宗の大きさ。
いや、北条氏照が五右衛門と言う存在を受け入れるかの度量。
それを試そうと秀吉は言っているのだ。
「わかり申した」
「そうか。まったく大した武士じゃのう、天晴天晴」
皮肉を言っている感じはない。ただ素直に目の前の存在をほめている。
「で、何ですか?俺に使いっ走りをやれと」
「そなたがやりたいと言うなら止めぬが」
「まあね、俺の松風ほど速いもんもそうそうないですからねぇ!」
慶次郎もそれに乗っかる。秀吉はおろか清正や統虎と比べても大きな男の存在が迫るたびに、並の男ならば震えそうな物だ。
だが芦名政宗と言う存在がそれに当てはまらない事など、もう誰もがわかっていた。
その存在を叩くには、もう一つの方法しかない。
将を射んとする者はまず馬を射よ—————。
その流れのまま黒田官兵衛は義姫と小次郎を狙い、秀吉は北条氏照を狙ったのである。




