前田慶次郎利益
「伊達政宗」が、伊達の名を捨てて「芦名政宗」となった。
そう声高に宣言された所でまっすぐに受け止められる人間など、この場には一人もいなかった。
「で、では、それだけの、理由と言う物が、あるの、だな!」
「無論。芦名の姫を見つけ娶り、婿入りしたのでございます」
「見せい!」
「ああその名は芦名左京亮の息女、織姫でございます。今はまだ小机城におりますが、この首がつながっておればまた他日」
ようやく統虎が切り込みにかかるも、あまりにも稚拙すぎて簡単に受け止められてしまう。圧倒的有利な環境のはずなのに、棒の一つも持たない丸腰の男に抗う事が出来ない。
「それで……だ、その上で何を望むのだね」
「我が実弟小次郎に伊達家を継がせ、その領国の安堵。さらに我が身に付き合わせた北条家の御家存続」
「その方は」
「それで十分でございます。天下人率いる軍勢と戦い二度も勝てたのですから。この時代に生きる者としての仕事は果たしました」
官兵衛の言葉にも力はない。政宗の顔は全く爽やかであり、自ら死を覚悟した風を見せておきながら死への恐れはびた一文ない。その上に自らの死に様さえも派手に飾ろうとしている。黄金の十字架と言い、純白の装束と言い、とてもまだ二十四歳の若者にできる真似ではない。
「吉兵衛」
「……」
官兵衛は長政に話を振るが、長政は何も答えない。長政に言葉があったとしても統虎の繰り返しでしかなく、その統虎が小指一本で押されたのに切り込む事などとてもできない。
「フッフッフッフッフ……ハッハッハッハッハッハ……!!」
そして秀吉は、笑った。
全く人目はばからずに、笑った。
「まったく、そなたは恐ろしき男よ」
「恐ろしき男とは」
「字面通りだ。官兵衛をも圧倒するなど生中な男にできる事ではない。三成では到底補い切れぬ器であったようじゃな」
「それは……」
「じゃが、わし一人ではその身を計りかねる。そなたのような者と相対するにふさわしき男を一人知っておるからな、その男が来るまではしばし待っておれ」
秀吉は笑顔を作りながら、官兵衛たちを置き残して天幕を出た。
残された芦名政宗は相変わらず勝者の顔をして座り、官兵衛は必死に思いを巡らすように顎に手を当て、統虎は政宗の顔を睨む。長政は表向きには官兵衛を守るようにしながら武器を抜いて震えている。
それほどまでに恐ろしい存在を前にして誰を連れて来るのか。政宗は楽しみに待ち、官兵衛たちは震えていた。
「いい気になるな!まだ関白殿下がおぬしを許したとは一言も言っておらんのだからな!」
「吉兵衛、退屈しのぎにしてももう少しあるじゃろうが」
長政は必死に吠えるが、それでどうにかなる訳でもない。政宗はじっと座って来客とやらを待ち続け、ずっと笑みを崩さない。
「吉兵衛殿とやら、厠にでも行った方がよろしいのではないですか?そこまで気張っていると体に毒ですぞ」
その上で長政に茶々を入れる政宗の余裕を前にして、誰も何も言えないまま時だけが過ぎて行く。
そして四半刻(三十分)ほどすると、ものすごい馬蹄の音が鳴り響いた。
秀吉のそれとは思えない力強い馬蹄。
一時的とは言え元徳川の本陣である場所にまで馬で乗り入れて来るのは誰か。
「ヒャーッハッハ!」
「何だオイ!」
そんな全ての緊張をぶち壊すような笑い声が飛び、長政のもっともな突っ込みもかき消される。そのまま馬蹄の音が消え、馬蹄の音に代わって重たい足音が迫って来る。
その足音は政宗の背中に迫り、そのまま政宗の背中に風を吹き込む。
「ちょ…!」
統虎が変な事を言いそうになる中、足音の主は政宗の背中に強風を送る。
「アッハハァ!大した野郎じゃねえかい!」
相変わらず笑いながら足音は政宗を通過し、政宗の前に座り込む。
その巨岩の如き大きな体は官兵衛たちを政宗から覆い隠し、官兵衛たちを守ろうとしている。
いや、巨岩と言うより、樹海。
より正確に言えば、樹海の中に潜む妖の獣。
「そなた……」
「前田慶次郎利益でございます!」
緑色の地に艶やかな花を描きまくった明らかに女物の小袖を身にまとい、髷も適当に結いながら大半の髪を流した大男。下の袴も鮮やかな緑色と言うか新緑色であり、花畑辺りにいれば擬態できるかもしれないと思わせるほどには特異だった。
「そなたが関白殿下が派遣なさった」
「まあまあ、そんなに堅苦しい物言いをなさらずに。吉兵衛殿も立花殿も、少しばかりお休みになってはどうかと」
「されど…」
「四六時中気が張っていては張り詰めて切れてしまいますぞ。ここは年かさの男たちにお任せ下され」
慶次郎の言葉と共に統虎と長政が天幕から出て行き、残っているのは官兵衛と慶次郎と政宗だけになった。
「年かさ…」
「これはこれは、これでもそれがしは既に四十四!」
実は一つしか違わない慶次郎と官兵衛だが見た目からしてまるっきり違う。経歴も得意分野も全然違うから当たり前だが、それでもあまりにも別の人種だった。
「さて時に、関白殿下様は貴公を見定めよと申し付けられておる!二十年前の時と同じように!」
「まだこの身に両目があった頃の話ですか」
「いかにも!かつてはほぼ徒手空拳の身として関白殿下と共に戦場を駆けずり回り過ごして来た!時にはとんでもない真似をやらかしては怒鳴られもした!」
「それでなお何を得ようと言うのですか」
「あえて言えばこの身が、この生涯がいかに素晴らしいか極める事!そのためならばいかに後ろ指を差されようとも!」
その慶次郎は叫ぶように次々と言葉を放ち、さらに地団駄を踏むように見せながら華麗な調子を刻んで行く。政宗も官兵衛もその存在に引き付けられ、他の物が視界から消えて行くような錯覚に陥りそうになる。
「所詮この身は武士。我が身が望むのは弟の伊達家の安泰と、我が手によって守らんとしている北条の御家の存続のみ」
「そのために伊達の名を捨てたと」
「ええ。弟の不始末を兄が付けるのは当然の事」
「青龍を 求めてみちなる 世をかけて 画餅食わずも 画龍破れず」
「黄龍も 羽虫も茄子も 親にして 子であるゆえに 道を歩まん」
その慶次郎は政宗の返答に対し和歌をぶつけるが、政宗もまるで引かない。
慶次郎が政宗のありきたりな返答に失望するように未知なる「三千」世界をかけなければ見られないような青龍だと思ったらただ絵で見られる程度の龍だったとけなしているのか微妙な歌で答えれば、政宗も青龍よりさらに格上の黄龍をしてただの生き物に過ぎないと言わんばかりに尊大めいた歌をぶちかます。
「ずいぶんと手慣れている……」
「小十郎も我が袖を引こうとこれぐらい言ってのけたのですから」
「天地をも動かす歌の力をもって、身命を賭してまで食い止めた存在を振り払い、得た物がこれでよろしいのですか」
「一向に」
「なればこちらもさらに一首詠まねばなりますまい」
慶次郎は懐から短冊を取り出し、筆で何かをなぞる。
黒田官兵衛も歌の心得はそれなりにあったがそれなりでしかなく、慶次郎のような当意即妙の才はない。計略ならいくらでも出て来る人間をして、前田慶次郎は規格外の人物だった。
慶次郎は短歌を詠み終わると陣幕をめくって少しばかり立ち話を行い、また馬蹄の音を立てて陣から去って行った。
「あまり気に入られなかったようだのう」
「決めるのは関白殿下でございます」
「もっとも、相手が武士であって武士でない存在だと言う事を失念していた我が身の不覚を認めねばなりませんがな」
「武士にして武士にあらじ……か」
政宗はあくまでも冷静だった。
あれほどまでの大見得を切って先延ばしの先延ばしとでも言うべき結果にされれば緊張の糸も切れようものだが、政宗はまったく崩れていない。そんな存在をここで亡くしていいのか。冷徹な策が練れるはずの官兵衛をしてそう思わされる。
この時の黒田官兵衛は、統虎や息子はおろかひとりの雑兵よりも弱い人間だった。




