義姫と愛姫と佐竹義宣
「まったく、何と言う、何と言う……」
息子が愛姫を捨て、芦名の姫である織姫に婿入りして「芦名政宗」になる——————————。
その事を知ったのは政宗が秀吉に向けて大見得を切る二刻(四時間)ほど前、小机城から唐沢山城に来た使者による手紙が来たからだった。
「義母、上……」
「義母上で良い。まったく、とんでもないとか言う言葉では生ぬるいほどにとんでもない愚息、いや至愚息じゃ……」
「でもこれで責任は芦名家のみと言う事に」
「なるか、秀吉がそんなにも甘ったるい人間な訳があるか」
愛姫と離縁し芦名家の人間となった以上、全ての責任は「芦名政宗」にのみある、だから「伊達家」には関係ない—————と言いたいのだろうが、それにしてもあまりにも遅すぎると言うか付け焼き刃にもほどがある。
「私は芦名の事をよく存じませんし織姫なる女性の事も存じ上げません。しかし彼女が人間として真っ当な扱いを受けていたとは思えぬ事だけは理解しております」
「三日間飯を食わねば米粒一つでも馳走に見えるか」
「義母上様はあの盗人がお気に召しませぬか」
「いや……」
「もちろん私も盗人と言う存在は気に召しません。されど自分の欲望のためにまだ十の女性をあそこまで押し込めておくのはもっと気に召しません」
それでも石川五右衛門の存在を頭ごなしに否定はしない義姫だったが、政宗の案には単純に批判的だったし、不憫な立場のはずの愛姫から出た言葉はもっと予想外だった。
「私はあなたを娘と思っております。あの至愚息がまったく好き勝手な真似をしようとも守ります」
「それはそれは…」
「っておい、もしもし……!」
さらに予想外だったのは、愛姫が急に笑い出した事だった。
この連続攻撃に義姫も間の抜けた声を上げる事しかできず、愛姫はさらに笑った。
「いえ何、義母上様がそこまで取り乱すのが珍しくてつい…………」
「私はそんなに冷たく見えますか」
「そのようなことはございませぬ、でも常に沈着冷静で怒るにしてもきちんと要点を踏まえ納得させるような怒り方をなさいますので」
「まったく、わらわよりそなたの方が幾倍も追い詰められていると言うに、言っておくがもしわらわがその気になればそなたを今すぐ伊達家から放り出す事もできるのじゃぞ」
「存じております」
「あの至愚息の書状を見てない訳でもあるまい」
愛姫の実家の田村氏は摺上原の前の動乱でほとんど伊達家の従属勢力となっており、伊達家の人間でなくなった愛姫の帰れる場所ではない。
「そなたの事を誰よりも愛しく思っている。されどそれゆえに死出の旅路に同行させるのは余りにも惜しい。ゆえにこの書をもって縁を解く。この身はこれより伊達の名さえ捨てる事となるゆえに、かような不貞の輩の事など忘れる事こそが最後の愛となろう。もし万一懐妊あらば、その時は小次郎にすがれ」
字面こそそれなりに飾っているが、平たく言えば三行半である。そんな立場の人間が突き付けられて笑えるような文面ではないはずだ。
「もしその結果我が夫が秀吉に討たれるようであれば、後家なりにする事はします」
「まさかこの城に籠ってなぎなたでも振りかざす気か」
「早速教えてもらいます。その程度の権力ならまだあるはずです」
「類は友を呼ぶとはこの事か……よくよくわらわはそんな運命の中にあるらしい。貞淑な女子などわらわには寄り付かぬのじゃな…………」
義姫には政宗と小次郎政道の他に二人の女児がいたが、共に夭折した。だからこそ愛姫には自分なりに期待していたつもりだったのだが、それが自分さえもひるみそうになるほどの傑物となるともうあきらめの気持ちさえも芽生えて来る。小次郎はまだ未婚だが、その女性が自分が求めるような女らしい人間である保証などまったくない。
「なあそなた、わらわの養女にならぬか」
「それは…」
「あれはもう侍としてある種の覚悟を決めてしまった。おそらくそなたの立ち入る隙間はない」
「側室になっても構いませぬが」
「向こうが、いや何より秀吉が構おう」
「その時は私自ら戦うまでです」
とにかく政宗があそこまでの決意を固めてしまった以上、自分は嫁だった存在と我が子を大事にするより他ない。思えば小次郎は兄や義姉、何より自分とはまるで似ていないおとなしい子。だからこそ寵愛していたつもりだったが、思えばそれこそ疱瘡により片目の視力を失い引っ込み思案になっていた政宗への失望ありきであり、政宗にそんな事がなければ小次郎はあくまでも次男坊としての立ち位置を教え込んでいたかもしれない。
「兄上は私などには及びもつかないとんでもないことをなさっているのです。もしそれが水泡に帰したとしても私は兄上のために、伊達家のために動くのみです」
現状でもその程度の事を言ってのける程度には真面目な男だ、政宗の代わりとしてはそれほど不足でもない。だが伊達その物を滅そうとすれば相当に面倒くさい事になるのが分かっているだろうから、秀吉はおそらく小次郎を抱き込む。そうなれば最悪の場合小次郎は兄を討たねばならない。と言うか、自分が秀吉ならそうする。
いや実際
「伊達小次郎殿に申し付ける。貴殿の兄である伊達藤次郎殿は惣無事令を守らず我が豊臣家の家臣となった真田を攻撃している北条と手を組み、我が軍勢を忍城にて破りさらに徳川殿の軍勢をも小机城周辺にて破っている。しかも両方の戦いにて我が寵臣及び徳川家の筆頭家老を討ち果たした。当然ながら死んだ者は帰って来る事はなく、二人ともここで死ぬ運命ではなかったはずだ。それを踏まえていただきたい」
と言う秀吉と黒田官兵衛の名が連名されたまったく予想通りの書面が届いていたし、それで政宗と小十郎が争う事になるのもやむを得ないと思っていた。
政宗はなぜあんな真似をしたのか。
兄弟で争うのを避けるためか。
あるいは芦名家の家督を継ぐ予定だったのにできなかった小次郎の代わりをやると言うのか。
(そんな手が通じるはずなどなかろうに……)
いずれにしても、今更生還など望むべくもない、
仮にそうなったとしてもそれを喜べない存在がいる。
その存在の事を思うと、改めてここまで笑える嫁がうらやましくなった。
※※※※※※
—————実際、政宗の行動は義姫が危惧する対象にも知られていた。
「まったく、予想外に伊達、いや芦名政宗とやらは女々しい男だな!」
「弱肉強食と言う物でございましょう」
「義宣、そなたはそれでいいと思っているのか!」
「あの戦いに負けたのは我々ですから」
芦名義広の実父が吠える中、実兄は平然としていた。「芦名義広」はこの時常陸にいたが、それでみ名目的には芦名家の当主であり続けていたはずだった。だが政宗のやった事は義広の正当性を全く破壊する行いであり、佐竹からしてみれば信じがたい行いのはずだった。それなのに佐竹の跡目である義宣の物言いは実に冷めており、顔にも深刻さはない。
「兄上…」
「今は下総の攻略に当たればいい。真田殿を通じて関白殿下にも我らの奮闘を伝えている。父上、眼前の敵の対処を怠る訳には参りますまい」
「うむ……」
まだ二十一歳の佐竹義宣であるが、政宗がそうだったようにこの時にはまだ四十四歳の義重を凌いで既に佐竹家の当主であった。義宣は義重時代から豊臣と誼を通じており、それは上杉や真田と言った反北条、反伊達の勢力とも友好的だったという事でもある。
「関白殿下からは下総を攻めれば十分であると言う墨付きを受けている事、既にご存知のはず」
「されど武蔵は…下野は…」
「下野に余分な兵など一兵もないはず、陸奥とて本拠ゆえに動かせるものではございますまい。武蔵は忍城を構わねば問題はないでしょう。そう上杉と真田からも来ております」
実際、上杉軍が忍城を放置して小田原城に向かったと言うのに忍城を含む武蔵の北条軍はさしたる反撃もなく、ただ守りに徹していた。ただでさえ小田原城一点集中防衛によりあまり兵がいなかったのに加え、下野と相模の間の道を守りたがったのもあった。
「街道沿いの北条の兵たちは政宗を信じております。彼らを相手にすればそれこそ死ぬまで戦われかねませぬ。下野に隙が無いのは意外でしたが…」
「佐野氏忠はそこまで不人気だったのか」
「ええ……」
それでも氏忠の不人気には少しばかり疑心も抱いたが、それよりも今は目の前の敵の方が大事だった。
義宣には、義姫の危惧など全く知る由もなかった。




