島津義弘
「今日も小田原城からの攻撃はないのか」
「ええ、ございませぬ」
横浜の戦から十日が経った四月十一日。
豊臣軍本陣から少し離れた場所に、丸に十字の旗が翻っている。
「それで関白殿下は伊達政宗と話し合いをすると言うのか」
「そのようでございます」
その天幕の中で座る男は数名の兵士に囲まれながら白くなったひげを撫で、退屈を紛らわせていた。相手の男は相当に上の男に見守られつつ茶を飲みながら、真面目くさった顔をしたまま気のない返事をしていた。
小田原城攻囲軍に加わってからもうひと月近く経つが、まともな戦など正直わずかしかない。敵が小田原城に籠ってこっちの撤退を待つつもりである以上簡単でもないが、それでも正直面白くない。
「何事も示現流のようにはいかん。ここは薩摩ではない」
「一応一枚ずつ皮をはがしているようですが」
「関白殿下からしてみれば今更あわてる必要もないと言う事じゃろうな。まああわてざるを得なくなっておるようではあるが」
男の名は島津義弘。
源平合戦の時に生まれた島津忠久を初代とする薩摩の大名家の現当主で、いわゆる島津四兄弟の次男である。兄の義久は豊臣家との戦いの後に出家・隠居し、現在は義弘が当主となっている。すでに五十三歳だが、九州統一目前まで行ったその破棄に衰えの二文字はない。
その義弘の言う通り、本来なら物資も将の質も圧倒的有利なはずの秀吉に焦る理由などない。大軍ゆえの補給の問題もまた秀吉はよく解決しており、水軍から兵糧が供給されてくるので食うには困らない。それだけで籠城する側にとっては当てが外れると言う物であり、籠城軍の戦意を削ぐそれである。実際今日も派手に炊煙が炊かれ、狼煙のように上がりまくっている。油断と言うより誘計込みだが、それで小田原が動く様子はない。秀吉自ら西側の本陣を抜け出しているのを堂々と宣言しているのにだ。ちなみにその間は秀吉の甥の三好秀次が大将、秀吉の養子の豊臣秀康が副将となっているが、秀次は関白殿下が戻ってくるまで迎撃だけしていればいいと極めて消極的であり、さらにどこか小さくなっていた。
「秀康殿と言ったか、あれは関白殿下の養子であると共に徳川殿の実子でもある。あのお方はなかなかの俊才だ。あれが豊臣家の跡目になればその天下はたやすく揺るぐまい」
「俊才、ですか。どうしてもあの男の事がこの身の頭には浮かんでしまい申す」
「おぬしも、か……」
そんな義弘の無聊を慰めていたのは、一人の敵将の快進撃だった。
「奥州の小僧かと思っておったが……まったくやるものよな、伊達政宗とやらも」
伊達政宗。
まだ二十四歳にして奥州最大の勢力、百万石を超える大名と化したとんでもない男。元々伊達はそれなりの名家だったがそれでも家督相続から数年でここまで膨れ上がった事自体、まったく政宗の才覚でしかない。
「そして此度は関白殿下の寵臣を討ちさらに徳川殿の筆頭家老を討つ……北条の力ありきと言うにもな…」
「独眼竜の二つ名に偽りなしですか」
「うむ。もっとも竜の側には白波が立っているようだがな。島津の側には立たぬ波がな。まったく果報者よな」
「それがしは好きませんがね」
その上で義弘は、政宗と共にある存在を把握している。相手がその存在を愉快に思っていない事を知りながら大口を開け、酒も呑まないのに笑ってみせる。
「柳川侍従、そんな所だぞ」
島津の陣に招かれた立花統虎(宗茂)は相変わらず真面目くさった顔で残っていた茶を飲み干す。ただ単純に不愉快だと言う顔をしていた宗茂に対し、義弘は自分の手元にあった空っぽの器を向ける。宗茂がすぐ意図に気付いて眉を吊り上げると、義弘はますます笑いそうになる。
「頭は冷えておりますが」
「そうだろうな。だがそれゆえにそうなってしまうのはいささか闇が深い。あの石川五右衛門とか言う男が一番嫌いそうなそれだ」
石川五右衛門。今伊達政宗に次いでかそれ以上に名を売っている男。
「天下の大泥棒、元々忍びだったのにその技を悪用して罪を重ねている輩がですか」
「若いくせに頭の固い事だな。それではそなたはここまでだな」
「意味不明です」
「わしは薩摩と言う地に閉じこもってここまで老けてしまった男よ。だがそなたは若くして京に出て来る事が出来た。まだ染まり切るには早い」
「何だと!」
義弘は激昂する統虎にもう一度空の器を向け、統虎も黙って受けてやろうとばかりに器に顔を近づけ、目をつぶる事なく見開いてみせる。
だが当然水は飛んで来ず、代わりのように器が飛んで来た。
「おいこら!」
「だからそういう態度こそ駄目だと言っているのだ。武士の常識で物事を計るな。道雪殿も懸命すぎたな」
「どういう意味だ!」
「落ち栗でもあった方がいいか」
さっき投げられた器を叩き割った拳を義弘に向けるが、義弘はびた一文反応を変えずただただ笑っている。さらに頭に血を上らせた統虎に対し義弘は夏なのに栗の話を口にする。
「それはどういう了見ですかな」
「美作殿よ、相手はそういうやり方を一番嫌っているし憎んでいるし倒そうとしている。それに勝っても得る物は少なく負ければ損害は大きい。その事を見せつけるために動いているのだ。捕まえたら足か頭にいが栗でも押し付けてやるか」
統虎の代わりのように義弘を睨んだ美作こと由布惟信もまた、統虎と同じく顔を赤くする。栗が何を意味するか知っていながらそんな言い草をする義弘に、二人とも腹が立ってしょうがなかった。
「ああそうですか、これが石川五右衛門のやり方だと!」
「なぜ五右衛門の肩を持つのです!」
「敵を知り己を知れば百戦危うからずと言うだけだがな」
ふてくされた主人と迫る部下に対し義弘は真顔でそう言い返す。
幼少時うっかり栗を踏んでしまった統虎に対しその栗を押し付けたのが由布惟信であり、他日栗を避けようとした統虎を笑ったのが惟信と同じく立花家の重臣の小野鎮幸である。そして前者の話の際に悲鳴を上げようとした統虎を睨みつけたのが統虎の実父の立花道雪であり、立花家にとっては現在の統虎を作り出した美談のように語り継がれている。
それを笑うのは道雪や二人の重臣、いや立花家その物を笑うに等しい侮辱行為であり、誰も見ていなければ戦のきっかけとなってもおかしくないほどの行いだった。
「伊達政宗ならば我々でも戦える。だが石川五右衛門には我々では勝てない、勝てたとしても逃げられるだけ。それこそ、関白殿下のような人間にしか勝てないだろうな」
「関白殿下……」
「ああ、なぜ盗みをする人間が出るか。それは単純だ、治安が悪いからだ。もちろん皆無にはできんだろうがな」
武士ではない敵に、どう武士は戦うのか。
織田信長が僧に対しては答えを出したが、泥棒に対しては出し切れなかった。一銭斬りと言う過酷な刑法をもってしても根絶はできず、石川五右衛門の跳梁跋扈を許してしまっているのが現実だった。もちろん刑をこれ以上重くはできないし逆に緩めた所でどうにかなるはずもない。そして躍起になって山狩りのように探したとしても捕まえられるかわからない。
「我々にどうしろと言うのです」
「どうもすまい。ただ石川五右衛門のような存在と直に戦って勝つ事など不可能だと言う事だけだ。武士道に溺れるな」
「真面目に物をおっしゃっていただきたい!」
「大真面目だが」
武士道と言う存在に耽溺するのが支配者階級の特権であり、役目だったはずだ。それをせずにどう戦うのかと統虎はさらに喰ってかかるが、義弘は真顔で答えるだけだった。
「まあ困った事があったならば三河少将(秀康)殿にでも相談する事だな。あのお方は世間が広いからな」
「そうさせてもらいます!」
自分から呼びつけておいてずいぶんな言動を繰り返した義弘に対し統虎と惟信は吠えながら帰って行った。
だがその背中は先ほど来た時と比べてやたらと小さく、そして頼りなくなっていた。




