片倉小十郎の心痛
「石川五右衛門、か……」
主君がずいぶんと嬉しそうにしている物だから、小十郎は振り上げた拳の行き場を失くしてしまった。
徳川軍が武相国境まで追いやられる一方で慰労の意を込めて小机城で行われた宴の中でただ一人仏頂面をしていた男は、一周回るまでもなく道化じみていた。
「なるほど、あっちこっちからいろんな物を盗んで来たとんでもない大泥棒、つまりものすごく悪い奴って事なんですね」
「そうなのです、そうなのです……」
「あそこまでふざけた真似ができるのも大泥棒だからなんですね」
「はいそうなのです……」
剣を身に帯びずあちこちに酌をして回っている女性に小十郎はすがるように問いかける。なんとか一人だけでも味方を探さないと不安で胃が壊れてしまうのではないかと思えるほどに思い悩んでいた小十郎は、妻子持ちのくせに若い女性に縋ってしまった。
「はあなるほどよくわかりました。どうやら私が忍城で出くわしたのはその石川五右衛門だったと言う訳ですね」
「そうですか……」
「その五右衛門のせいで石田三成は馬鹿にされたわけですね」
だが女性らしい装束を身にまといながら貞淑さに乏しく、それでいて好色さのまるでない生娘からの言葉は、小十郎の期待に応えるそれではなかった。
—————「馬鹿にされた」のではなく、「馬鹿」にされた。
要するに、三成の水攻めが失敗したのは五右衛門のせいだと言わんばかりの言い草である。こんな事を言われた時点で、その前後の言葉の意味はすべて吹っ飛んでしまう。
「申し訳ございません、ついイライラして…………」
「いえ、私もついはしたなくなってしまい申し訳ございませんでした……」
彼女の名は甲斐姫。成田氏長と言う忍城城主の娘で忍城の戦いの際にも自ら甲冑を身にまとって出陣し数名の首を取ったと言うとんでもないじゃじゃ馬娘。そして今回は忍城を離れこんな小机城まで平然とやって来る程度には活発な女性。
「しかし徳川がお姫様を見ただけで崩れるだなんて予想外だったな」
「単に後退しただけです!」
「まだ玉縄城まではすんなりと行けそうにないが、とりあえず兄君も戦果を挙げられたようで何よりだな」
「ありがたき事……」
この宴の最上段に座るのは小机城の城主である北条氏光だが、その氏光さえも小十郎の方に視線を散らす。まるで余計なことを言うなと言わんばかりに視線を送り、こっちが抵抗しようとするとそっぽを向く。眼力に負けたと言うより、頑迷さに辟易しているのだろう事がすぐわかってしまう。
「それでこの後はどうするのです、やはり小田原城へと行くのですか」
「それは依然として難しかろう。徳川は老いぼれの酒井忠次こそ失ったが損害は最小限で敵としてはまだまだ力を持つ。もちろん小田原城に向けられる兵を削れるのは大きいがそれまでとも言える」
「ではどうしろと言うのですか!」
「城主殿の兄上と合流すべく玉縄に向かう。徳川とて挟撃状態である場所にいつまでも兵は置かない。難しくはなかろう」
自分も自分で宴の席でこんな深刻な話題をしてしまう程度には空気が読めないのはわかっているが、酒も飯もまったく味が分からない程度に弱っている自分の気持ちを受け止めてくれない甲斐姫にも氏光にもいい加減腹が立っていた。
「小十郎、よく我慢してくれた」
やがて座がお開きになりかかった所で、主の声が耳に入り込む。いつの間にか氏光の倍以上の酒を飲み干しながらちっとも酔わない自分が遠巻きにされているのに気づき余計に飲んではなおさらと言う負の連鎖に入り込んでいる事に気付いたのは無鉄砲な主に指摘されてからだった。
「私はそんなにとげとげしいでしょうか」
「そなたが誰よりもわしを大事に思っている事はわかっている。だがずっとそればかりでは自分から先に破滅してしまう。そうなればわしまで道連れだ」
「今は気を引き締めるべき時でしょう」
「常在戦場もいいが戦う前から兵を疲れさせては駄目だ。それで喜ぶのは我々を悪く思う人間だけだ」
「はあ…………」
それでも自分の気が晴れない理由はわかっている。だがそれをいくらぐちぐちくどくどと述べた所で、誰も聞いてくれない。政宗より十五歳上の亘理重宗でさえ、すっかりその気になって浮かれ上がっている。
「いっその事適当な官位でも与えてしまっては」
「腹一杯の男に満漢全席を出すか」
「刀か小判でも差し出せと」
「その発想から離れろ」
武士としての発想しかできない自分には、あんな存在を御するなど夢のまた夢なのだろうか。それこそ神にでも祈るか、さもなくば手打ちにして文字通り誰の言葉も聞く事もできない存在にすればすっきりもするか。そう考えれば考えるだけ自分だけが取り残されたような気分になって来る。
「わしの見立てだがな、石川五右衛門は秀吉と戦っておる。たった一人でな」
「そのために我々を道具に!」
「どうしても首に縄を付けたいのか」
「当然でございます!」
政宗の見立てを聞かされてなお、全てが同じ方向に向く。せめて盗人でなければ、青天白日の身元であれば。どうせ私利私欲しかないのが目に見えているのに、そんな者のために伊達家を使い潰されてたまる物か—————
「唐国を すべて我が身は 空なれど 白波捕え かうはならずや」
「大波を 人欠けるとも 千尋の 谷の先でも 口を漱がん」
その危惧に対し政宗は風流を気取り短歌で答える物だから。小十郎も完全に意地になってしまう。
中国全土を全て統一して満天下を治める存在になってなお白波—————つまり盗賊を飼うなどできっこないと政宗が攻めれば、ならば千尋の谷に挑んでなお俗人はその欲望をかなえ飲み込んでやろうではないかと小十郎も譲らない。
「小十郎、これだけは言いたくないがな、頼むからこれ以上威張りくさった猿真似をするのをやめろ」
「なっ……」
「はっきり言うがな、正直痛々しくて見ておれんぞ。わしにびた一文責任がないとは言わんが、今のお前がやっているのは屈原の猿真似だ」
「私は別に忠臣を気取るつもりなど!」
「わしへの忠義を尽くしている自分はそんなに美しいか?だったらその方はただの猪武者だな」
「猪武者………………」
その小十郎の息の根を止めたのは、猪武者と言う単語だった。
これまで必死になって手綱を引き絞っていたはずの自分が、猪武者。
おそらくはこの世で最も不本意な肩書を前にして、小十郎の頭はようやく冷めた。
「それがしはずっと殿の暴走を止めようと思い込んで突っ走っていたと言う事ですか……」
「重宗たちにいくら話しても通じなかった理由は毒食わば皿までと言うだけではないと言う事だ」
結局は方向が違うだけに過ぎない。
五十歩百歩ならぬ百歩百歩であり、百歩逃げるのも百歩進むのも百歩移動した事に変わりはない。いや百歩百歩と言うよりは零歩百歩であり、自分だけ勝手に逃げて他の連中を無謀だと言って笑っていると言えなくもない。それで逃げきれれば賢明となるが、逃げなかった連中が戦果を挙げた場合臆病を通り越して無下の痴れ者と後ろ指を差されても文句は言えない。もちろん小十郎はそう言われるのも百も承知だったが、その分だけますます道化味が増してしまう。
「我ながらひどく往生際の悪い事ですね……!」
「まあそなたを崖から突き落としたのはわしだがな。全てが終わった時にはいくらでも恨み言をぶつけろ」
「その日がなるべく遅くなるようにします…………」
小十郎は泣いていた。
十も下の主人の前で泣いていた。
かつて主人の光を失った目玉を取った人間が、その主人の前で。
それほどまでの修羅場を経験しながらあまりにも不可解な存在に悩むその姿は、政宗よりも幼く見えた。
「礼を言うぞ」
「それはこちらのセリフでございます」
「そうか、ありがたい部下を持ったものだ」
この時、およそ半年にわたってぎこちなかった主従はようやく一つの結末を迎えた。その原因となった張本人がこの結果をどう思うかはさておき、政宗と小十郎にとってはこの上ない結果が訪れたのである。
「ですが秀吉はこのまま直には来ますまい」
「まさか小次郎でも使うか」
「考えられます。小次郎様を当主として自分に従い殿を討てば領国は保証すると」
「そんなありきたりな手な訳もあるまい。まあ実はそれについても手を打ってあるがな。またあの五右衛門だが」
「五右衛門が何を」
「その手を打ち消せる切り札がだ。また泣く人間が出てしまうかもしれぬがな、やむを得まい…」
その上で目の前の大敵に対して手を用意している主人と盗人に、恐れを抱いたのもまた事実だった。
しょせん東北は京や大阪からすればへき地であり、いっそ百十万石ぐらいやってもまだ十四歳の小次郎を当主として祭り上げる事も考えられる。秀吉の目的は伊達や北条の滅亡ではなく服従だとすれば、それでいいのかもしれない。もちろん旧北条領を上杉や佐竹に与えて太らせるか子飼いの家臣を送り込むかして徹底的に監視させる。伊達政宗と言う存在を恐れるのならばそれぐらいやっても許されると平気で考えそうなのが秀吉だった。
その上をどうやって行くのか。自分は付いて行けるのか。
小十郎は安心と同時に、無力感を思い知り脱力した。
だがその暇もないほどに、秀吉は次の手をぶつけて来る。
小机城に届く一枚の書状。
—————四月十七日、大庭城にて、秀吉自ら伊達政宗と対面したい、と。
方倉暘二を片倉暘二と書いてしまうのは私だけだろうか。




