武相国境戦
「わしは徳川の酒井左衛門督だ!北条の将は誰だ!」
「おうとも、小机城守将である北条軍大将北条右衛門佐(氏光)だ!」
古めかしいと言うより形式ばった物言いで名乗り上げる二人。
どちらが強いかと言われてどうだとも言えない程度には数も兵の質も等しそうな二つの軍勢。
違いがあるとすれば、二人の年齢ぐらいだろう。
「こんな老人に付き合うなど、まったく最近の若者は命を無駄にする」
北条氏光は忠次の子の家次と同い年であり、戦歴はそれなりにあったがまだ二十七歳だった。忠次には単純に小僧に見えたし、実際氏光にはひげもまともに生えていなかった。
「言いたい事は言い終わったか」
「ああ言い終わった。そっちこそ遺言は済んだか」
「済んでおらん。まったく、伊達の横取り男ごときに利用されておって悲しくならんのか」
「その遺言、聞き届けたぞ!」
氏光の叫びと共に、銃声が横浜に轟く。もちろん酒井軍も撃ち返し、戦が始まる。だが銃より大きな音を出していたのは、別の武器の音だった。
「まったく、南北朝時代じゃあるまいし」
忠次は笑った。鉄砲が伝令して半世紀だと言うのに鳴り響く弓弦の音は、勇ましいと言うより古めかしく、むしろ懐かしい。
家次がいればまだためているか油断させようとしているかの二択だと言うだろうが、それもまた忠次にはお見通しだった。
(わしとてわかっている。横浜の連中を当てにしているのがな)
徳川軍は北条の民からしてみれば紛れもない侵略者であり、必死に排除しようとするだろう。かつてはそのやり方で上杉謙信をも追い払ったから北条にも自信があり、やり方を変える必要もない。
だがなればこそ、忠次は釣り野伏を仕掛けた。いくら北条領とは言ってもこの後ろには大軍が控えている。この周辺だけは徳川領なのだ。
「酒井忠次を討てー!」
やがて氏光軍が突っ込んで来る。鉄砲隊も弓兵も後退し、刀槍を掲げた兵たちによる戦いが始まる。
「これこそ戦場の空気よ!」
酒井忠次も得物を握り若き敵を迎え撃つ。
「うおりゃあ!」
「やああああ!」
「ぐあー!」
「死ねやぁ!」
戦場にふさわしい声が轟く。金属同士がぶつかり合う音。馬蹄の轟きに、歓声、罵声、そして悲鳴。
血がたぎる。
(わしは家次ではないし、石田三成でもないわ!)
この時酒井家の当主は既に酒井家次だった。だが忠次に言わせれば、家次は文字通りの二代目である。もちろん守山崩れは桶狭間の戦いの時には生まれてもいないし、三方ヶ原や長篠にもいない。いわゆる伊賀越えも経験していない。せいぜい小牧長久手と言う徳川が大大名となってからの戦ぐらいだ。
そういう存在にはどうしても血生臭い経験が足らず、頭と数で戦を考えてしまう。話によればついこの前討ち死にした石田三成も二代目ではないがそういう性質だったらしくそんな人間の二の舞いを演ずる趣味などなかった。
そしてもちろん、自分がどれほどの存在でどれほどの兵を持っているかもわかっている。
この時忠次と共にいたのは酒井軍譜代の兵—————の中でも正直古参ばかりだった。
より正確に言えば、年ばかり食ったような弱い所。
酒井家及び徳川家への忠義の篤さだけを誇りにし、決して恥じないような人間たち。彼らのほとんどが忠次のように次代に御家を任せている志願兵であり、ここで死んでもちっとも惜しくないと思っている人間たちばかりだった。
彼らのような兵たちと共に戦える喜びに忠次は浸り、彼らが死体となって行くのを目の当たりにするたびにやらねばならぬと意欲を燃やす。
「どうしたどうした!これが徳川か!」
氏光の言葉に笑いを噛み殺し、かと言ってわざとらしく吠えたりもせずじっと見守る。この程度の腹芸ができなくてどうすると言わんばかりに、迫って来る北条の兵に武器を向ける。
この時すでに、忠次は退く準備を整えていた。
※※※※※※
酒井忠次が退き際を探している頃、服部半蔵は横浜の漁村に身を潜めていた。
(見るからに殺気立っている……)
この時代の農民は、黙って年貢を領主に差し出すだけの存在ではない。
いざとなれば武器を手に取って北条に味方し、徳川の荷駄をはぎ取ろうともする。
いや元からこの時代の百姓は弁当を持って戦場に行き、敗残兵を襲って荷物をはぎ取ろうとする程度にはたくましい存在だった。落ち武者などはある種の宝の山であり、そのまま私財としてたくわえたり高く売りつけたりしていた。刀狩は兵農分離を進めると共にある種の教育であり戦国乱世の蛮風をなくそうと言う意図もある事を半蔵も理解していた。
鎌倉時代と言う武士が初めて政権を取った時代はそれこそ武士の最も荒気ない部分がむき出しになった時代で、それこそ武士が農民を平気で殺したり農民も平気で相手を殺し合い三族皆殺しを意味する族滅なんて言葉も流行した。その責任が誰にあるかと言う点で行けば、北条義時と言えなくはない。平氏だとか言うがしょせんは伊豆の東夷であり、京洛育ちの源頼朝とは違った。その頼朝も義仲・義経・範頼と兄弟を殺しまくったから、この流れに至ったのは必然だったかもしれない。ましてや秀吉の言う事を聞いていない北条家の領国など、刀狩が行われているはずもない。鍬や鎌ではなく銛を持ち、今にも戦場になだれ込もうとしている。
「お前何ぼさっとしてるんだ、北条様が徳川と戦ってるんだぞ!」
「ああ、ああ……」
半蔵は漁民たちの姿をし、全く気のなさそうな返事をしながら耳をそばだてた。
(間違いない、ここにいる、ここに……)
半蔵は、ここに五右衛門が潜んでいると見ていた。
佐野氏忠の支配があそこまであっけなく瓦解した下野。
伊達政宗による統治にさほど問題の感じられない下野。
そこまでの事が出来るのは伊達政宗だけではない、誰かの力がある。
人心を動かす事は容易ではない。それこそ、並の人間にできる事ではない。
忍びの術と言うのは、何もいきなり火を起こしたり水を手から出したりするようなシロモノではない。あくまでも相手の虚を突き、相手に錯覚させる事が本題だ。存在するのに存在しないと思わせ、存在しないのにあると思わせる。それは兵法にも通じると半蔵は思っている。
それがあの場で出来たのは、やる理由があったのは—————!
(抜け忍め…!)
豊臣秀吉の政に不満があるのか、それとも自分を誘っているのか。一体何があの男を突き上げたのかはわからないが現在天下人に抗うたった二つの存在を操ってまで平穏を憎み騒乱を起こすのか!
忍びを技を泥棒とか言う真似に使うのでさえ腹立たしくてたまらないのに、その上戦乱の種まで蒔こうなど!
もちろん伊達配下の忍びたちの存在を忘れていないが、それでもあそこまで華麗に人心を操れる存在など半蔵は知らない。裏の世界なりの情報網もあれば裏の世界なりの著名人もおり、東北にそこまでの凄腕がいるという話は半蔵の耳に入っていない。
やはり、石川五右衛門。
変装などお手の物のはずだ。
そして忍びらしく砂浜で音を立てないぐらいの事は平気でやって見せるだろう。
だがもちろんあれほどの事を一人でできるわけがないから、おそらく郎党を引き連れているはず。
(いかに自身が有能であろうと!)
数が増えればどうしても落ちこぼれができてしまう。その中には必ず、自分が変装して潜入している事を忘れる連中がいる。たかが漁師が抜き足差し足を覚えているはずもない。
煽動している存在がいる。その者を討たねばならぬ。
その結果自分が襲われようがそれで漁民たちを引き付けられればそれでよし。
忍びとしての全力を使い、全てを見極める。
そして!
「…………!」
その瞬間、半蔵は武士になっていた。
狩るべき敵を速攻で狩る、人殺しとしての本懐を果たさんと欲する武士に。
「なっ…」
一人の漁民を、三途の川に叩き込んだ。そしてそのまま、わざとらしいほどに足音を立てて逃げ出した。全ては徳川家のために。
だがそのサムライの心は、あまりにも簡単に乱れた。
横浜の沖に浮かぶ舟の上の旗。
目の良すぎた半蔵には、その旗がはっきりと見えてしまった。
(二つ引き両……!?)
紛れもない里見家の舟である。
しかも、旗印はかなり上質な布であり、昨日今日作ったような旗ではない。
その全てを悟った半蔵は、真っ青な顔のまま走っていた。




