徳川家康の不安
「我々に伊達を受け止めてもらいたいと」
「どうか頼む」
秀吉自ら頭を下げんばかりの勢いで頼み込まれては、家康としても嫌とは言いずらい。一応秀吉の妹を娶ったから家康は秀吉の義弟であり、戦歴からしても領国からしても諸大名の中では筆頭である。
「関白殿下、殿下は我々に小田原城攻囲を命じたはず。それがなぜ」
「伊達が予想外に北条と一体となっておってな、このままでは小田原の後方を突かれてしまう危険性がある。どうにかして伊達を受け止めてもらいたいんじゃ。それができるのは徳川殿しかおらん」
「そうですか、それは光栄至極でございます…」
本多忠勝に対してもなお秀吉は低姿勢を続け、何とか伊達防衛へ当たらせようとする。その気になれば頭さえ平気で下げようとするその姿勢に、忠勝をしてひるむしかなかった。
「ですが、代わりは誰が」
「前田殿が請け負う事となっておる。どうか」
「それなら安心です。皆、北の伊達を抑えに向かうぞ」
家康が秀吉の言葉を呑むことを宣言すると、ゆるやかなため息がこぼれた。そのため息の主の正体に気付いた忠勝は追いかけるようにため息を吐き、井伊直政は心の中で眉を吊り上げた。
「結局、石田殿の不始末の後始末なのでしょう!」
直政は腹立たし気に怒鳴った。直政にしてみればこのまま小田原一番乗りでもして北条にとどめを刺したかったのに、いきなりまったく明後日の方角に行かされて不機嫌になったのだ。
「万千代、そのように熱くなっていては喜ぶのは北条だけだ。
関白殿下の事だ、おそらく小田原が危機的状況であると流布しているだろう。小田原が潰れたらおしまいである以上伊達は一も二もなく小田原に向かって来る。そこを叩けば北条は最後の希望を失う。我々の役目は十分に重要なのだ」
「はい」
家康が説教してようやく落ち着いた直政であったが、鼻息の荒さだけは変わらなかった。確かに理屈は通っているが、それでも北条氏政の事を思うと惜しいのは当然だろう。
「それで伊達政宗はどうやってやって来ると思われます」
「街道をゆくかゆかぬかと言う事になるだろう。それについて皆はどう思う」
「街道など無視して来るでしょう、小田原が落ちたらしまいなのですから」
「直政、伊達軍は遠征軍だ。仮に下野に根付いていたとしても補給はおそらく限られている。戦場に着く前に兵が疲弊していては戦にはならん」
それで伊達軍がどうするかについては、井伊直政と酒井忠次で意見が割れた。忠次は既に六十四歳、将としては熟練に熟練を極めた人間であった。
「しかし北条が味方となったとなれば強引に進めても補給はできましょう」
「補給と兵の疲弊は違う」
「いや石田殿と言う関白殿下の寵臣を斬った以上、伊達はもう北条と心中する気でしょう。また北条とて伊達にまでそっぽを向かれたらそれこそ四面楚歌です」
「北条勢が伊達政宗に味方して膨れ上がると申すのか?なればそれこそまともな道しか通れんと思うが」
「静まれ」
両者の議論が白熱する中、家康はそっと手を前に出した。
その後ろには本多正信がいつも通りどこか奇妙な顔をして立ち、筆頭家老とでも言うべき酒井忠次がその側にいて、左右には大久保忠世、本多忠勝、大久保忠佐が並び、その一つ下に榊原康政と井伊直政がいた。
「わしの見た所どうせ伊達は当分動かん。ただでさえ石田軍との戦いがあった上に石田軍の残党や上杉軍が伊達と睨み合っていて不思議ではない。と言うか二万とも言われている軍勢の中のたかが二千だぞ。負傷者を差し引いてもせいぜいその倍、それで伊達軍は多く見積もって一万だ」
「ではそれらの攻撃により伊達軍は忍城に釘付けだと」
「いや、とりあえずはいつでも引き返せるように鈍行進軍だろう。忍城は今度の一件で要害の名をほしいままにするに至った。しかも水攻めのせいで土地はどろどろになっており守るにはともかく攻めるには不適だ」
「なら…」
「だが忍城から攻めるもまたあまりにも不適だ。農民は攻めには使えないし、武士の数も知れている。わしが上杉景勝ならば適当に兵を置いてとっとと川越辺りにでも向かう」
「で、伊達はどっちを!」
「結論から言えば川越城の方へと回ると見ている。伊達からしてみれば小田原に突っ込んだ所でどこか一角でも包囲網を崩せなければ無駄死にだ。それよりは外側から剥がして行く方がまだ筋が通っている」
家康は直政に対し威を示しながら、ゆっくりと説いて行く。確かに小田原包囲網を破るとか簡単に言った所で、十数万とも号している所に一万で飛び込んでどうにかなる訳ではない。仮に各地の北条の軍勢や農民をかき集めたとしても戦力にはならず、おそらく無駄死にだろう。ならばまだ自分たちの手の及んでいない方から進んで行った方が可能性はある。
「先に抑えるのですか」
「それは難しかろう。直政が言ったように伊達は北条の助けを得て前進して来る。確かに補給は必要だがこちらは敵の城を攻めなければならない。大半が小田原に兵を集めているから空城とまでは行かないが兵数は知れているが、厄介なのは玉縄城だ」
「玉縄城?」
「玉縄城は信玄や謙信をして攻略をあきらめたほどの城だ。さらに言えば城主だった北条氏勝が我々の攻撃を前にしていきなりこの城を去り、ある人物を城主として迎えたと言う話がある」
「誰です一体」
「北条氏照よ」
北条氏照—————。現当主氏直の叔父で前当主氏政の弟。武においては兄以上とも言われる北条の要。
「氏照は八王子城にいたのではないのですか!」
「それがわからんのだ。今年になって急に八王子を離れ、ずっと玉縄に入り込んでいたとも言われている。あの地黄八幡(北条綱成)の孫を差し置いてな」
「その点はどうにも辛いですね。他に何か」
家康は首を横に振った。
小田原は徳川が駿河を領してからは隣国だったからそれなりに間者も入っていたが、そう簡単には情報はつかめない。ましてや本能寺の変以降家康の関心は秀吉か甲信に向いており、家康自身娘で氏直の妻である督姫を通してある程度の情報は入っていたが、もちろん重要な情報などは来ない。
「やはり風魔か」
「他に考えられぬな」
「恐ろしき男ですな」
家康も結局、同じ答えになってしまう。
風魔が情報を封じ、あるいは間違った情報を掴ませ、伊達政宗を操り石田三成を討ち取った、と。
忠次も忠勝も、風魔小太郎と言う存在に感心と恐れを抱いた。
「それなのですが」
そんな空気の中に割り込んで来たのが、本多正信だった。
「何だ」
「平八郎落ち着け!」
「失礼」
いささか喧嘩腰な忠勝の口調に対し家康は声を張り上げるが、たった七文字で場を支配した存在に対して家康より年下の家臣は明らかな悪感情を見せていた。
「構うな、申せ正信」
「では申し述べさせていただきますが、一名ほどそれが可能な男を私は耳に入れております」
「誰なんですか」
「石川五右衛門です」
どうせ風魔小太郎なんだろうと言う言葉を飲み込む直政に対し、正信はとんでもない名前を叩き付けた。




