白の入浴剤その湯船の中には白い何かが潜む それはあなたの背後でのみ蠢いている
最初はいつもの入浴と同じだった。
パジャマを持って脱衣所に行くと、パシャパシャというお湯の音がいつものように聞こえた。
タイミング良くチャイムが鳴り『お風呂が沸きました』とアナウンスが聞こえる。
私はパジャマと下着を脱ぎ捨て、洗濯機に入れる。
風呂場の照明は暖かみのあるオレンジ。
私はお気に入りの入浴剤を投入した。これも、いつもどおりだ。
ふんわりと煙のように白色が広がり、お湯に色をつけていく。
微かに甘い香りが漂い、湯気がバスルーム全体に広がっていく。
かけ湯をしてから湯船につかった。
思えば違和感はこの時点からだったかもしれない。
(何か変・何か変・温かいけど重いお湯・変・お腹は一杯・何かいるかも・変なものがいたら・気味が悪い・白いお湯の中に・変じゃない・普通・絶対気のせい・疲れてる・田舎の母・電話したくない・面倒くさい・お湯が揺れる・変じゃない・普通)
何だかほんの少しだけ湯が重いと感じた。
うまく言えないが、サラリとはしていない。
湯船から出て、髪を洗う。
眼を閉じて頭からシャワーを浴びると、背中にぞわりと産毛が逆立つような感覚があった。
(何かいる・湯船に何か・生き物・疲れてる・ありえない・嫌な予感・電話は面倒・何かいる・白い生き物・雲のお化け・蜘蛛が上から・顔のついた蜘蛛が見てる・白い蜘蛛がたくさん浮かんでる・こっちを見て笑う蜘蛛・老婆の死体・湯船に浮かぶ死体・あり得ない・疲れてる)
シャワーのザザザという水音以外にチャプチャプという微かな音。
何かが湯船で動いている気配に悪寒がする。
(やっぱり何かいる・双子の姉妹・廊下の突き当たり・ベッドの下から手が出る・湯船から何か出てくる・何かいる・やっぱりいる・湯船から出てくる・死体が出てくる・小さい子供が笑いながら・何か出てきた!・出た!)
私は思わずシャワーを切って、眼を開ける。
かすかに湯船に水紋が漂っているが、何も見えない。
私は自分の小心を自分で笑うが、それはこの違和感をごまかすためだったかもしれない。
無理矢理笑顔を作り「気のせい。馬鹿みたい」と声に出してみた。
一人暮らしの夜はこんな入浴が年に何回かあるものなのだ。きっと。
再び眼をつむりシャワーを浴び、シャンプーを髪の毛につける。
急いで洗い終わりたい気持ちが手の動きを速める。
背後で水音がかすかに聴こえた。
(水音?湯船に浮かぶ死体・爬虫類が・白い鰐がいる湯船・白くて小さなカエルがたくさん死んでいる・泳いでいる・浮かび上がるもの……)
トプントプン トプントプン
(音・水の音・何かいる・後ろで立ち上がる・巨人・一つ目の巨人・大きな老婆の死体・赤ん坊を抱いた老婆・赤ん坊の泣き声?・滴っている・髪の毛から水が・白い女性の長い髪から滴が・こちらをジッと見ている・湯船から出てきた・近づいてる・かがんで私を見ている)
『ハアアア』
同時に何かが私の耳元で息を吐く気配。
「!」
シャンプー塗れの髪の毛に構わず、私は眼を開けて湯船を振り返った。
ト・プ・ン!
『白い何か』が吸い込まれるように湯船に消えたような気がした。
シャンプーがしみて痛い眼をこする。
気のせいだ。絶対に気のせいだ。今日は忙しかったから、疲れているんだ。
自分で自分に言い聞かせる。
それでも体の向きを湯船の方向に変えて、残りの泡を急いで流した。眼を開けたまま。
(何もいない・何もいない・絶対何もいない・幼稚な私・風呂から出てビール・早く)
気のせいだとわかっていても、湯船に浸かる前に躊躇した。
白い湯の中に何かいるという幼稚な錯覚を恥じながら。
しかし寒い夜の入浴、最後に湯船で温まるのは自分なりのルーティンだ。
何もないことがわかりきっているのに、湯船に浸からないのはあまりに幼い。
そっと足からそろそろと入れた。
ガボン!
「あっ」
なかった。何もいなかった。何もいないけれど………
湯船の底もなかった。
ゴホッ ゴボッ
足がつかないほど深い、底のない白い湯。
「そんな馬鹿な」と思うよりも、ただただ原始的な恐怖が私を襲った。
「ガボッ、いや、ゴボッ」
声にならない悲鳴を湯の中であげる。
何かが私の足首をつかんだ。
「いやだあああっ」
白い湯の底に白い何かがいる!
(何か!何か!柔らかい・怖い・気持ち悪い・巻き付いてる・グニャグニャしてる・怖い)
あっという間に頭まで湯の中に引きずり込まれた。
呼吸が…できない。
慌てて手を伸ばし、風呂の縁にしがみつく。
もがく私に構わず、ぬるりとした感触の何かは足首から太もも、腰までからみついた。
上を向くと、湯船の四角いへりが白く光って見えた。
下半身にからみついた何かがグイッと強く私を引きずる。
息がもたず苦しくなった私の手が滑り、私は全身を湯船に引き込まれた。
(……いやっ!助けて!誰か!)
それはもちろん、湯の中で声にならない。
(怖い怖い怖い助けて助けて助けて怖い怖い怖い怖い怖い助けて助けて助けて怖い怖い)
もう息が続かない。
私はまるで排水溝に吸い込まれる小さな虫のようだ。
(怖い怖い怖い助けて助けて助けて怖い怖い怖い怖い怖い助けて助けて助けて怖い怖いやめて助けて怖い助けて助けて助けて誰かお母さん誰か助けてやめて怖い怖い怖いどこへ行くのどこへ怖い怖い怖い怖い怖い怖い助けて怖い怖い怖いどこへいくのどこへいくの怖い助けて助け)
白い光を遙か上に見る闇の中で私は意識を失った。
そのまま周囲は静かな暗闇になった。もうどこにも白はなかった。
読んでいただいてありがとうございます。
そんな気がする夜が年に何回かありませんか。