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ホームルームを終え、家に帰ると、玄関の前に黒いリムジンが停まっていた。何だこれは。邪魔だし、それに怖い。
「高城浩司様ですね?」
「ひゃっ!」
背後から唐突に声をかけられて、思わず情けない声を上げてしまった。
振り返るとそこには明らかに高級なタキシードを着た初老の男が立っていた。
「お嬢様がお呼びです。邸宅までお越しいただけませんでしょうか」
「……嫌です。てかお嬢様って、誰っすか」
「小鳥遊操お嬢様です」
名前を聞いた瞬間、あの激烈な自己紹介が脳裏に蘇る。
「ますます嫌です」
「お頼み申し上げます。心ばかりの料理もご用意しておりますので」
「料理?」
「フランス料理のフルコースになります」
俺はニ、三度瞬きをした。
予想通り、豪邸だった。
いや、予想を超えて豪邸だった。
まず敷地が広い。広すぎる。端が見渡せないくらいだ。
そしてもちろん家も馬鹿でかい。うちの十倍はあるんじゃないか、これ。
俺は早くも来たことを後悔していた。俺には似つかわしくない場所すぎる。
荘厳な玄関に待っていたのは、クラシックな姿のメイドだった。
「ご案内いたします」
彼女に言われるまま、俺は足を踏み入れた。
家の中がどれだけ豪華だとかは、言わなくてもいいだろう。大体ご想像の通りだ。
「こちらが操お嬢様の部屋となります」
そう言ってメイドは黙った。
「……ここに、入れと?」
「その通りでございます。お嬢様の許可は得ておりますので」
「はあ」
まさかいきなり自室に招かれるとは思わなかった。
俺は首をぶんぶん振って、そして諦めたようにドアをノックした。
「どうぞ」
甲高いその声に導かれるようにノブをひねり、ドアを押す。ふっと中から風が吹いたような気がした。
そこは十畳ほどの、この家にしては狭い部屋だった。壁紙は淡いピンク色。普通の蛍光灯が照らす室内は一見、きちんと女性らしいものだった。どことなく良い香りもする。
小鳥遊はベッドにちょこんと腰掛けていた。ガーリーな私服に着替えている。
改めて見ても、とんでもない美人だ。
「ようこそ、高城さん」
「……何の用だ、初対面の俺に」
「初対面ではありませんわ」
意外な発言が飛び出した。
「つまらない冗談だな」
「あんなに一緒に遊びましたのに」
「はあ?」
「あれは五歳のときでしたか。あなた、公園の砂場でいじめられていた女の子を助けましたよね?」
「……あったっけかな、そんなこと」
「あのときの女の子の風貌、覚えていませんの?」
砂場、いじめ、女子……。
その瞬間、脳裏にフラッシュバックする記憶。公園でいつも俺の後ろをちょこちょこ付いてきた女子。おかっぱ頭で、身なりの良い服を着ていて、たしか名前が……
「みさお!」
「思い出しましたか」
「言われてみれば面影あるわ。なるほどなあ、なるほど」
俺の様子を見て、彼女は満足そうに頷いている。
「で、用事はそれだけか?」
「はい?」
「俺とあんたは幼なじみだった。それを伝えたかったと、そういうことだろ」
「それももちろんあります。ですが本題ではありません」
「本題?」
「ええ。これをご覧ください」
そう言うと彼女は立ち上がり、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
小鳥遊家直伝 官能演習 初級編
その一:異性と二人で半日出歩く
その二:官能小説の読書感想文を書き、それを異性に読んでもらう
その三:異性と性癖について語り合う
その四:異性と大事な部分の肌を触れ合う
その五:異性と一夜を共にする
「……何だ、これ」
「官能演習の項目ですわ」
「だからそれが何なんだって話だよ」
「お祖父様が定められたのですわ。タカナシ社を背負って立つ者はエロを実感する必要がある、そのために実施しなければならないのが官能演習です」
「頭が、おかしい」
「真面目な話なのですよ!」
「だからこそだよ」
「あなたには官能演習を手伝っていただきたいのです」
「話を進めようとするな」
どうやら俺はわけのわからない世界に迷い込んでしまったらしい。さっさと脱出するに限る。
「帰らせてもらうぜ。フランス料理は惜しいけど、しかたねえ」
「待ってください」
「それじゃあな」
「こんなこと頼めるのはあなたしかいませんの!」
彼女の口調には焦りが感じられた。真剣であることも伝わってきた。
「あなた以上に仲の良い男性なんていないのです!」
「……」
仲が良い、か。
そういや昔はいつも一緒だったな。「お嫁さんにしてください」とか言われたこともあったっけ。
懐かしい記憶だ。
「頼みます! この限り!」
小鳥遊は深く頭を下げる。
「……はあ、頭上げろよ」
俺はため息を吐いて頭を掻いた。
「しかたねえなあ」
「では……!」
「付き合ってやるよ、官能演習とやらに」
「本当ですか!」
彼女の表情がぱあっと明るくなる。
「ありがとう!」
そして初めて笑顔を見せた。
……いきなり丁寧語じゃなくなるの、反則だろ。
こうして俺は彼女の酔狂に巻き込まれることとなった。
こういうとき、最終的に「しかたねえ」で納得してしまうところが、俺の悪いところであり、良いところでもあるのだと思う。
あ、フランス料理はめちゃめちゃ美味かったです。