7月21日
「先生、この日は貸切ですか?」
アイスパレス横浜には、専属のコーチングスタッフのための事務室があります。事務室の壁には大きめのマス目がカレンダーが貼られていて、そこにコーチ陣各々の予定をボールペンで書き入れていくことになっています。
私はデスクで、アイスリンクの年間スケジュールのチェックと、ザンボニーのリース契約の見直しをしていました。ザンボニーの動きがどうも悪いようです。契約はそのままにしてザンボニーを修理に出すのと、新しいザンボニーをリースし直すのはどっちがいいかを検討していた時です。哲也くんが事務室に入ってきたのは。
事務室にいるのは私と、私の馬鹿弟子だけでした。私の馬鹿弟子はリクライニング付きのオフィスチェアの上でごろごろ寝そべっていました。目玉が描かれたアイマスクをつけて寝ている姿は、トッププロスケーターでも優秀な指導者でもなく、どこからどう見ても立派な馬鹿弟子です。入ってきた哲也くんはまずそのだらしない姿に絶句……するでもなく、慣れたように話しかけました。どうやらこれが、この師弟の平常のようです。
カレンダーを見ながら、哲也くんが「この日」と指したのは、7月20日。その日は私の馬鹿弟子が、大変生意気なことに夜の11時から翌日の深夜にかけて貸切の予約を取っていました。
貸切。要するに、一人で広いリンクで存分に練習できる貴重な時間ということです。
ふざけたデザインのアイマスクを取りながら、昌親が起き上がりました。
「まーね。ユーリに出演を頼まれているし。そうそう、8月の半ばはユーリのショー関係の出張でいないからよろしくね」
「わかりました」
トリノ五輪金メダリストのユーリ・ヴォドレゾフが、私の馬鹿弟子にアイスショーの出演を依頼してきたのは5月。トリノ五輪10周年記念のアイスショーをサンクトペテルブルクで開催するらしいのです。あの五輪から10年経ったということに静かに驚き、あの馬鹿弟子が引退してから10年経ったのかと瞠目しました。
ユーリ・ヴォドレゾフは、馬鹿弟子の10年来のライバルーー私と馬鹿弟子はついぞ彼に勝つことはなかったーーであり、10年来の親友の一人です。
昌親はずっとユーリを追いかけていた。それは間違いがありません。
ですがどうも、逆のように思える時があります。本当はユーリの方が、ずっと昌親を追いかけてきたのではないか。ユーリはたまに、早熟した滑りに反して、氷の上で純粋培養された子供のように無防備な時がありましたから。……私の考えすぎかもしれません。
一つ言えるのは、彼が昌親を信頼していて、昌親もユーリのことを友人として大切にしている。その時代を戦ってきた人間同士の、特殊な友情があるということなのでしょう。
「で、今日はもう練習終わりでしょ? どうしたの」
「いや、ちょっとエキシビションの振り付けを見て欲しくて」
了解して、昌親はオフィスチェアから立ち上がりました。
7月の下旬に、私の娘と、堤昌親と相川哲也師弟は、関西圏のアイスショーに招致されています。昌親はデトロイトで作ってきた新しいプログラムを、哲也くんは今シーズンのエキシビションを披露するようです。
しばらくして、書類に目を通す私の元に、清澄な箏の音が流れてきました。
清らかな水の上に、澄み切った花が咲いている。
私の知っている箏の音とは似ていて違う。全てを浄める音でした。
*
7月20日の夜11時45分。私は雅と涼子が寝ているのを確認して、家を出ます。フォレスターのエンジンをかけて向かった先は勤め先。駐車をしてアイスパレス横浜の裏口から入りました。
リンクには必要最低限の照明しかついていません。貸切で、後片付けが大変だから余計な照明はいらないということなのか。あるいは。
喪に服したいから暗くしているのか。
「昌親」
私はかつての弟子に声をかけました。
リンクサイドで水を飲む昌親は、一時間かけて丁寧にウォームアップをしたようです。汗だくのシャツが、フェンスに掛けられていました。
弟子にした昌親に最初に私が言ったのは「コンパルソリーを毎日二時間やりなさい。最後に私に見せて、合格が出ないとジャンプ練習は禁止」ということでした。私のところにやってきた昌親の滑りは、ジャンプだけが素晴らしくその他はてんでダメ、という、ハードジャンパーが抱えがちな欠点を持っていました。
私は氷に残ったトレースを見てみます。悪くはない。
「なんだ、星崎先生でしたか」
「こんな夜中にご熱心ですね。腕が鈍っていないようで安心しました」
「褒めても何も出ませんよ。……忘れ物ですか?」
忘れ物かなんて聞くのはわざとでしょう。私が理解しているからこそ、茶化して言ってくる。
なので私は、ストレートに言うことにしました。
「いいえ。僕はあなたに会いにきました。あなたが何やら、こそこそ夜中に練習するようなので不審に思ってしまいまして」
「心外ですね。俺はユーリのためのショーの練習をしているだけですよ。自分のための練習なんて、昼間はあまり取れませんしね」
「あなたが横浜に来てから、ずっと今日の日は夜貸切で滑っているのに、僕が気が付かないとでもお思いですか?」
壁にかけられた時計が音を上げました。知る人は少ないのですが、深夜0時になるとこの時計は鳩が飛び出るのです。7月21日に日付が切り替わります。
昌親は口の端だけで笑いました。観念と言わんばかりに両手を上げます。
「やーっぱ気がついていましたか。先生は誤魔化せませんね」
「当たり前でしょう。それに誤魔化す気もなかったでしょうに。今日は彼の命日ですからね」
椅子の上に置いたラジカセとCD。CDのラベルには「矤上由紀夫 百花譜」と書いてあります。
箏曲家の矤上由紀夫。生きていれば、私と同い年になるはずです。
命日は7月21日。
昌親の現役時代。プログラムの選曲は、ソルトレイクの後からはほとんど本人に任せていました。ドルトムントでクラシックは一つ到達したと思ったのか、次に選んだのはフィギュアスケートでほとんど馴染みのない純邦楽でした。
私はこの選曲に懐疑的でした。考え直しを提案したこともあります。ジャッジや関係者のほとんどが欧米人のフィギュアスケート界で、邦楽という純正日本文化が通用するのか。そもそもこの曲を振り付けを了承するコレオグラファーはいるのか。
昌親は私の反対に緩やかに首を振りました。
「ユーリに勝つために必要な音です。だから、今季はこれで行きます」
昔のことを思い出しました。思い出さざるを得ない案件ではあります。このプログラムは我々のキャリアにおいて、輝かしいばかりではなく、ざらついた苦いものを残してもいるからです。
「由紀夫さんが亡くなったのが、未だに信じられませんか?」
突然友人を失うという、空洞も。
若い天才箏曲家を襲った悲劇。それはセンセーショナルな事件としてマスコミに報道されました。その時のことを、昌親は詳しくは知らないはずです。この事件があったとき、昌親は日本に居なかったのですから。
彼の死を昌親に伝えたのは他ならぬ私でした。事件のことは話しませんでした。ただ、事実を伝えるにとどめました。世の中には知らなくても、知らない方がいいことだってあるのです。
その時の昌親の顔を、忘れることはできません。その年の三月に、昌親は祖母を亡くしたばかりでした。立て続けに彼は、大事な人間を二人失ったことになります。
「まさか。違いますよ」
昌親は、こういう湿っぽい感傷は得意ではない、と言わんばかりに小さく笑いました。
「この百花譜は、由紀夫さんが俺のためだけに用意してくれたものだから大事にしたい。それだけです」
今の昌親の言葉を、由紀夫さんが聞いたらどう思うでしょうか。昌親はどこまでも自然体に答えました。
「まぁ、ぼちぼち滑りましょうかね。ユーリにみっともない滑りを見せられませんし。これを見たいと言ってきたのはあいつですしね」
堤昌親と矤上由紀夫。この二人が直接顔を合わせたのが、何回あったのかはわかりません。師弟とはいえ、何から何まで知る必要なんて微塵もありません。いくつかの空白があるぐらいがちょうどいいのです。
ユーリと昌親の間も、昌親と由紀夫さんの間も、私は何も介入してはならないのです。
私ができることは一つだけです。
「見て差し上げましょうか」
「……はい?」
私の言葉に振り向いた昌親は、わずかに目を見開きました。
この弟子を驚かせるのはなかなかに難しいのです。私は口の端を釣り上げて不敵に笑いました。
「見て差し上げると言いました。これを滑るのも久しぶりでしょう。あなたの動きが鈍っていないか。ちゃんと覚えているかどうか。音にふさわしい滑りをしているかどうか。きちんと見て差し上げます」
「星崎先生は覚えているんですか」
「当たり前でしょう。あなたのプログラムは全部覚えていますよ」
私は現役時代の昌親のプログラムを思い返しました。ソルトレイクで5位入賞を果たした「幻想即興曲」に「シェルブールの雨傘」。ドルトムントでユーリ・ヴォドレゾフに次ぐ銀メダルを獲った「ジゼル」と「バラード一番」。涼子が昌親に作った最後のプログラムの「アヴェ・マリア」。私の妻は振付師でもあります。妻の処女作を滑ったのも昌親でした。
……現役最後の全日本の「百花譜」。
「この音にそぐわない動きをしたら、即刻パイプ椅子でも投げ入れるので、そのつもりで」
「おっかないなぁ。……でも、こういうのも久しぶりですね」
確かに。私がこの馬鹿弟子の練習を見るのも、10年ぶりです。昌親が誰かに練習を見てもらうのも、10年ぶりなのでしょう。
昌親がリンクの中央に向かい、私はCDをラジカセにセットしました。
作曲は沢井忠夫。弾き手は矤上由紀夫の「百花譜」。
力強く華やか。生命力を謳いながら、枯れる時の悲しみも表現する。春は桜の花嵐を散らし。夏はうだるような暑さの中、満開のひまわりが陽炎のように揺れる。秋には枯葉や真っ赤な紅葉が落ちて、冬はその痛むような激しい寒さに耐えながら、ふきのとうが雪の下で芽吹く日を待つ。
初めの一音が揺れる。それは桜の花びらなのかもしれません。
彼が死しんだあとも実感させられます。この音の純度の高さ、無駄のなさ、濁りのなさを。昌親がユーリに勝つため、と選んだ理由もわかります。
この音はどこまでも美しいのだと。
百の花と。彩る季節の煌めきも、痛みも表した四分半。全てを終えた昌親は、肩で息をしていました。顎の先から透明な汗が流れて、氷と同化しました。
「悪くはありませんでしたよ」
「そりゃ……。どうも……。いや、おっさんにはきつい、このプログラム」
新採点法の最初期に作ったプログラムです。八つのジャンプ。四つのスピンに、二つの種類の違うステップ。今思えば、この要素を全て四分半に入れなくてはならない時代は、相当に選手に負担を与えたことでしょう。ステップのレベル判定もだいぶシビアな時代でした。また、あの頃の昌親は23歳でしたが、今の彼は34歳。プロで、それなりの体力を保っているとはいえ、現役時代の体力と比べてはなりません。
それでも、現役時代には出せなかった色が出てきたと思えば、歳をとることも決して悪くはないのです。華やかなだけではない、散り際に募る一抹の悲しさは、かつての昌親にはない色でした。現役時代のプログラムを、プロになってから滑るのも悪くはないのだと。
昌親の呼吸が整ってから、私は口を開きました。
「気になったのは夏の部分ですね。もう少し不安定さがあってもいいです。夏を思い出してご覧なさい。光と影の間にあるのは、絶妙な揺れです。ストロークが華やかな春とあまり変わらなかったので、その辺りのメリハリが不十分でしたね。後気になったのが……」
悪くはなかったのは本当です。でもそれは、「久しぶりに滑ったにしては」という文頭の文言を消していての言葉です。突っ込みたいところはいくつかあります。一つ一つ伝えていくと、昌親は苦くも、楽しくてしょうがないという顔で頷きました。たまに氷の上で実際に動いて調整します。
「……以上ですね。まぁ、ユーリを失望させないよう、精進なさい」
「ありがとうございました」
昌親は私に一礼します。
時計を見るとちょうど二時になったところでした。練習の終わりの時間です。これ以上は流石に、朝の練習に触ります。私は給湯室のソファで仮眠をとって、そのまま早朝練習に挑むことにします。妻にはメールを一本入れておきました。「深夜練習をする馬鹿弟子の様子を見てくる」と。昌親はどうするのかと聞いたら、一旦家に帰ると答えました。
エッジカバーをつけて帰り支度をする馬鹿弟子に、私は声をかけました。
「哲也くんの「水の変態」はいいですね。同じ箏曲でも、あなたとアプローチが違う」
「先生にしては、嬉しいこと言ってくれますね」
「あなたの振り付けを褒めたんじゃありません。滑り手と、曲の弾き手を褒めたのです。いい音を持ってきましたね。哲也くんに似合います」
「……それは厳しいお言葉でして」
*
昌親が帰った後、私は給湯室のソファに座ってiPhoneを起動させました。由紀夫さんを思い出したのは私も同じです。昌親を通して知り合いましたが、彼は私にとっても、得難い友人でした。演奏家の彼と元はスケーターだった私は、何かと話があいました。妻に頭が上がらない話を私がすると、それが羨ましいと彼は返しました。自分は妻を早くに亡くし、妻の忘れ形見をずっと大事にしているのだ、とも。
久しぶりに、正面から聞きたくなったのです。動画サイトに彼の演奏がいくつか残っているのを知っています。
YouTubeを開き、矤上由紀夫と検索をかけました。
「……ん?」
矤上は矤上でも、別の弾き手がトップに出てきました。
ーーその演奏家は、二十歳ぐらいの若い女性でした。白を基調に、桜の透かし模様が入った上品な着物を着て、箏に向かっています。どことなく、由紀夫さんに顔立ちが似ています。
その箏曲家には、左の小指がありませんでした。
私は反射的に動画をタップさせました。私は生前の彼に何度か会ったことがあります。シングルファーザーの彼が可愛がっていた、彼の娘にも。名前は……。
動画が再生され、すぐに曲が始まります。
ほんの数日前に聞いた音が溢れてきます。数日前、そう。
鮎川哲也の滑る「水の変態」と同じ音。
弾き手の名前は、矤上澄花。
眉間に皺が寄ります。私は彼が死んだ事件を、あの馬鹿弟子にした覚えはありません。ですが、ネットをはじめとして、世の中には情報を知る手段なんてごまんとあります。賢しい昌親のことだから、サクッとiPhoneで調べたかもしれません。
知っているのだとしたら、あのバカは何を考えているのか。
……私は頭を軽く振りました。深読みはするべきではないのです。この音と哲也くんの滑りが合っている。それだけで十分でしょう。
深く息を吐きます。そんな私の耳に、演奏家の名前の通りの澄み切った花のような音が、水を描いていきました。