母と娘
「ところであなたはどうなの?」と怪訝な声で母は切り出した。
優子は電話を取りながら、眉間にしわを寄せてテレビのチャンネルを変えた。昼の番組はどれも退屈で、気の滅入るものばかりだと彼女は思う。優子はふとソファから立ち上がると、カーテンのそばまで寄って光に満ちた庭を見渡し、さっと後ろを振り返った。
「ねえ、聞いてるんでしょう?」と母はせっついた。
「聞いてる」と娘は落ち着いた声で返した。「でもなによ、それ。お母さんらしくない」
電話の先で母がため息をつき、わざとらしく言葉を誇張した。
「お母さんはね、心配なのよ」
母の気持ちは嬉しかったが、いくらか恩着せがましくもある。優子は考えるように、指の先を頬に押し当てた。
「別に私は困ってないわよ」と彼女は気分を損ねたように突っぱねる。けれど母の気づかいに感謝する気持ちも忘れず、優しい口調で続けた。「パパの入院費は会社のお手当てと保険でなんとかまかなえてるし、美咲を幼稚園にあずけてるあいだはこうして時間もあるもの。お金? そりゃ苦しいけど、食べるには十分」
「なら、うちに帰ってくる気はないのね?」と念を押すように母は言った。
「どうして?」娘は思わず笑い出した。「どうして私が帰らなくっちゃいけないの? もしかして私が結婚してること忘れちゃった?」
きっと、そろそろあの台詞が出てくるはずね、と彼女は思う。そしてそのとおりになった。
「あなたが順一さんと別れても、お母さんは責めたりしないわよ」
「またそれ? だから私は──」
「いいのよ、別に。苦しいのはあなたなんだから。でもね、美咲がもう少し大きくなってごらんなさいな。色々と買い与えてやらなくちゃならないでしょう? それに学費だってかかるんだから」
「家のローンもあるわ」
娘の声に反抗するような響きを感じ取り、母はうなった。
「……ねえ、少しでいいから真面目に考えてほしいのよ。順一さんとそういう話にはならないのかしら?」
「病の床についてる夫の前で別れ話を切り出す妻がいると思う?」
「そう怒らないで。胸が苦しくなるのよ」母は電話の先で小さく咳き込んだ。「少し二人で話してみたら? なにも直接切り出さなくていいから。向こうがどう思っているかくらい、私たちにも教えてほしいのよ」
「わかった」と優子は根負けするようにため息をついた。「少し二人で……うん、話してみるわ。どうせ午後には彼のところへ顔を出すから」
それまで同じ園児たちとフラフープで遊んでいた美咲は、母親の姿を視界の端に認めると、それらを投げ出してわっと駆け出した。しがみつくように母の胸にもぐると、頬を擦り付けながら愛らしい笑みをのぞかせた。
「ねえ、ママのお洋服が汚れちゃう」
娘はぱっと顔を離して、母親の顔を見上げた。
「ねえ、今日はなにをしたと思う?」
「お遊戯の練習でしょう」
「うん、そう。あずさちゃんが赤ずきんだから、あーしはお婆さんの役をやったの」
「楽しかった?」
娘は溌剌とした顔で頷いて見せた。
「よかったわね」と優子はその丸くひんやりとした頬を撫でた。「さ、荷物を持って来て。先生にもさよならをね」
二人は車に乗り込んだ。チャイルド・シートに座りながら、美咲は母に手を伸ばそうと躍起になった。
「だめよ。もう少しの我慢だから」
「あと何日したら?」とむずがるような顔で娘は訊いた。
「あと……一年半くらいかしらね」
「一年半ってどのくらい?」
「五〇〇日くらい」
娘が叫びながら全身を使って不平を訴えると、チャイルド・シートは激しい軋みを上げた。ぴんと張ったベルトを手で掴み、体からもぎ離そうと暴れた。
「やめなさい。怪我するから」と厳しい声で母は言った。「大人しくしていて。今日はこれからパパのところに行くんだから」
「もう行かない!」
「じゃあここで降りなさい」
うるさい音が止むと、少しのあいだを置いて、美咲はわっと泣き出し始めた。優子が車を発進させると、娘は子供とは思えぬ罵詈を母に向かって浴びせかけ始めた。
「まったく、どこで覚えてくるんだか」と彼女はあきれて思った。
病院の駐車場に車を停めると、優子は後部ドアを開けて、娘と目を合わせた。日焼けした顔には涙のあとがまだ残っていた。
「ごめんなさい」と娘は頭を垂れた。
「大人しくしていられる?」
美咲は頷いた。
「約束よ」優子はそう言って、シートのロックを外した。バッグからハンカチを取り出し、娘の顔に近づけた。「少しそのままでいて。ほっぺを拭いてあげる。変な顔で入っていって、お父さんに笑われたくないでしょう?」
「お父さんじゃなくてパパだよ?」なすがままに顔をハンカチで拭われながら、美咲は指摘した。
「そうだった。さ、行こう」
第二病棟へと繋がる、ガラス張りの渡り廊下を歩きながら、見慣れた医師や看護婦と挨拶を交わした。
「こんにちは!」美咲はひとりの医師に向かって、元気いっぱいに声をかけた。
「やあ、こんにちは」と彼は微笑み、子供と視点を合わせるためにその場にしゃがみこんだ。「うさぎさんはまだ元気?」
以前に幼稚園で飼っているうさぎについて美咲が話したことを、彼は覚えていた。
「うん、元気」
「そうか、長生きするといいね」医師は立ち上がり、不憫そうな笑みを湛えながら、今度は母親の顔を見た。「ドアは開いています。もしなにか入用でしたら、遠慮なく声をかけて下さい」
五〇平方メートルほどの病室にはベッドが四台置かれ、それぞれ二枚重ねのカーテン(内側がレースで、もう一方はアコーディオン調のもの)によって、やはり四つに区切られている。夫のベッドは存分に日の取れる広い掃きだし窓のそばにあった。比較的に涼しい今日のような日には、窓のカーテンが左右に引かれ、さわさわと揺れる川べりの夏草を眺望することもできる。
優子は開け放たれたドアをノックして、娘と手をつなぎながら部屋の奥に進んでいった。夫の横たわるベッドのカーテンは窓側だけ開かれていた。
「やあ、おはよう」二人の姿を目に留めると、夫は驚いたように上体を上げる素振りを見せ、ベッドの上であわただしく動き始めた。「ちょっと待って。今起きたところだったんだ。少し早いね」
「今日は土曜日だから」
服を整え、眼鏡をかけると夫はようやく息をついた。
「……ああ、そうか。ここにいるとあんまり曜日の感覚がないんだ」
「松井さん」
どこからともなく看護婦があらわれて、娘の分の丸椅子を置いていった。
「ほら、ありがとうは?」と優子は美咲の背中に手を置いた。
「ありがとう!」
母子は並んで座り、あらためて父の手を握った。
「少し手を貸して。起き上がろう」
優子は両手を差し出して、夫の体をベッドから引き上げた。それほどの重労働というわけでもない。元々ふくよかであった夫の体は、入退院を繰り返すうち、彼が中学生のころの体重にまで落ち込んでいた。今では妻である優子の体重ともほとんど差がない。特に頬のあたりは痛ましいまでに痩せこけていた。
「パパのお膝に来るかい?」と彼は娘に向かって誘いかけた。
「どうする? パパのお膝に乗るかって」と優子は娘に屈みこんで言った。
美咲ははにかみながら頷き、両親の手を借りて父親の膝元におさまった。娘のふわふわとした艶やかな髪を撫でながら、若い父親は幸せそうに目を閉じた。
「容態はどうなの?」
「いや、別にどうってこともないんだ」と夫はくつろいだ調子で答えた。「すぐに退院できる。問題はそのあとだな」
「あんまり無理しないで」
「うん、わかってる。ここでは考えることが多すぎて困るよ。どうも気がふさいで……」夫はそのあとの言葉をぐっと飲み込んだ。なにか明るい話をしよう。「そういえば、この子のエレクトーンは上達した?」
「気が早いわ」と優子は笑った。「美咲はまだ四歳なんだから」
「そんなことないさ。なあ?」
美咲は頷き、猫が甘えるような仕草で父親に身を投げた。
「危ないから気をつけて、美咲」と上ずった声で優子はたしなめた。
「大丈夫だよ」と夫は娘の体にしっかりと腕を回した。「退院したら三人で海に行きたいな。といってもこんな白い体じゃ、笑われちゃうかもしれないけど」
優子は思わず言葉に詰まり、あわてて別の話題を持ち出した。
「ねえ、パパにお遊戯会でなんの役を演じるか、教えてあげないの?」
美咲は身をよじって、父親に顔を近づけた。
「あずさちゃんに赤ずきんを取られちゃったからね、あーしはお婆さんの役をやるの」
「でもお婆さんの役だって、好きなんでしょう?」
「うん、楽しい」
夫はうっとりした目つきで二人のやりとりを眺めると、娘の頬に口づけをした。それから妻に向かい、同じようにキスした。そのわずかなしじま、三人を幸せがぴったりと包み込み、何人もそこに足を踏み入れることはできないように思われた。しかし夫の目を、ある瞬間にさっと暗い光が横切った。まるでここが病院であることに、たった今気づかされたみたいに。
「早くうちに帰りたいな」と彼はつぶやいた。
二日後に母から電話が掛かってきた。優子は怒りと哀しみに声を震わせた。
「とてもじゃないけど、そんなの言い出せない! お母さんはわかってないのよ。お金なんて私にはどうだっていいの。本当に娘のためを思うなら、応援してくれるのが普通でしょう。それを──それを、相手が病気になったから別れろだなんて──」
そのあとの言葉は、彼女が下唇を噛みながら涙をこらえることによって中断を余儀なくされた。深く息を吐き、呼吸を整えてから優子は続けた。声はがらりと冷え切っていた。
「……お母さんはひどい。私たちのことを少しもわかってない」
「ちょっと待ちなさい、ね?」と母はゆっくり言った。とりなすように、あるいは諭すように。「なにも順一さんが病気になったから離婚しろだなんて、そんな言い方をしたつもりはないの」
「じゃあなんだっていうの?」
「この五年間で、順一さんがどのくらい入院してるか、わかるでしょう? 確かにあなたと結婚するまでは元気だった。元々は病気がちだったみたいだけど、少しずつ健康になってきていたのよ」
「私のせいだって、そう言いたいわけ?」と優子は詰め寄るように言った。
「違うの、違う。ただ家庭を持つにはまだ少し早すぎたんじゃないかって、そう言ってるの」母はそこでため息をつき、打ち明けるように言った。「ついこのあいだ、順一さんのご両親と少しお話ししたのよ」
なにかに全身を打たれたかのように、優子は息を呑んでリビングの一角に立ちすくんだ。一瞬遅れて動悸がし始めた。
「そうしたらね、向こうもしばらくのあいだは息子をあずかりたいって、そう仰るから──」
「どうして勝手にそういうことをするの?」と愕然とした声で彼女は叫んだ。
「心配だからよ!」抑えていた感情を放出するかのように、母も負けじと叫んだ。「少しはこっちの気持ちもわかってほしいの。お父さんだって、娘に今みたいな生活をさせるために嫁にやったんじゃないわ」
「私はもう子供じゃないのよ、お母さん」と優子はすがるような声で訴えた。
「それはわかってる。でもこのままの生活を続けていてどうなるの?」
「どうなるって、それは──」
娘が返答に窮するのを見かねて、母が娘の本心を代弁するように続けた。
「そりゃあなたと美咲がいたら、順一さんに無理するなって方が無理よ。本当に順一さんのためを思うんだったら、一旦長野の実家に返してやるべきじゃないの? そうでしょう?」
優子はなにも考えられなかった。今まで意識して遠ざけていた問題が、白日の下にさらされてしまったように感じた。もう無理なんだ、と彼女は思う。もうどうやってもごまかせないんだ。
「あなたと美咲は今までどおりの生活をすればいいの。ただ会う場所が変わるっていうだけの話よ。少しのあいだ我慢するのと、一生我慢するのとどっちがいい? 順一さんが一旦実家に戻って、また元気になれば一緒に暮らせるんだから」
優子は母親の言葉を耳に入れながら、途中であることにはっと気がついた。私が美咲と接するのとまるで変わらないんだわ、と。<あと何日したら?>、その切ない呼びかけとほとんど同じことを自分が口にしようとしていることに、彼女は思い当たった。
優子は言葉をまとめるように、電話越しに沈黙した。
「……わかった。お母さんがそうしたいなら、そうすればいい。でもこれだけは本当に忘れないでいてほしいの。彼は私のことを真剣に愛してるし、私も彼のことを心の底から愛してる。そして子供のことも、世界でいちばん愛してるのよ」
久しぶりの短編投稿です。
もう少し長い話にしようかと頭を悩ませたのですが、
タイトルから物語が離れてしまう予感を感じたので、短くインパクトが出るようなイメージで書き上げました。
……というか、要するにあとの文章を切り落としただけなのですが。