いかないでよ
いつだったか、聞いた気がする。お地蔵さんは子供の味方。苦しむ子供はみんなみんな、お地蔵さんが救ってくれるのだと。
じゃあ、どうして。
お地蔵さん。どうして希花のことだけ、助けてくれなかったの――
おまじない。何があっても大丈夫な、世界で最強のおまじない。
少し低くて懐かしい声が、澄花の名前を何度も呼ぶ。
迷ってしまっても、ちゃんと、元の場所に戻ってこれるように。
「……お父さん、お母さん?」
ありったけの気力を絞って、澄花は目をあけた。目に飛び込んできたのは、真っ白。久しぶりに見たせいか、目にしみて痛かった。
「澄花……よかった。目を覚ましたのね」
澄花の真上に、見下ろすふたつの大きな影。端っこが震えたこの声は、お母さんの声だ。澄花は声の方へと手を伸ばす。
「覚えてる? お使いに行ってくれてたでしょう? その帰り道でね、木が倒れてきて……」
澄花の手を強く握って、母親は言った。
直撃はしなかったけれど、衝撃で吹き飛ばされてしまったのよ、と。
「……ゆめ、だったんだ」
ああ、よかった。お父さんとお母さんが言うなら間違いない。あれは、ただの怖い夢。うっかり迷い込んでしまっただけの、ちゃんと終わりのある夢だったのだと。
じゃあ、と澄花は周りを見回す。一緒にいた花月と希花は、どこだろう。一緒に帰ってきたんだよね。
「きはなちゃんとかづくんは?」
すると、母親の顔が歪んだ。口を真一文字に引き結んで、顔を逸らしてしまう。肩が、大きく震えていた。
そんな母親の代わりに、父親が重々しく口を開く。
「花月はね、起きたんだ。でも、希花は……」
その先を、父親は教えてくれなかった。言葉で教える代わりに、隣のベッドを覆うカーテンを開いた。
声をかけてあげて、と父親は言った。名前を呼んであげて欲しい、と。
何度も何度も呼び続ければ、奇跡が起きるかもしれないから、と。
それだけ言うと、父親は言葉を詰まらせた。何かを隠すように、澄花に背を向ける。そのまま、部屋を出て行ってしまった。
澄花は隣のベッドを見た。そこには、安らかな寝息を立てて眠る希花の姿。酸素マスクをつけられて、包帯がぐるぐるに巻かれた頭が痛々しい。
けれど、希花は確かにそこにいた。手で触れられる。柔らかい頬も、温かい肌も、こんなに近くにあるというのに。
どうして、お父さん。どうしてそんなことを言うの。
希花ちゃんは、ちゃんとここにいるじゃない。
あの夢の中から、一緒に、帰ってこれたじゃない。
「きはなちゃん……よかった。私たち、帰ってこれたよ」
澄花は希花の額を撫でた。温かい、けれど、傷だらけの額。
さっき、吹き飛ばされたって言ってたっけ。私は何ともないみたいだけど、希花はこんな重傷を負ってしまったのか。
「待ってるからね。ちゃんと、目を覚ましてね」
ごめんね。私お姉ちゃんなのに、きはなちゃんのことを守ってあげられなかった。
でも、こうしてちゃんと帰ってきた。だから、もう大丈夫。傷が治るまで、ずっと一緒にいるからね。
ふと、澄花は花月のことも気になった。起きていたのなら、姿が見たい。きっと両親のところにいるだろうから、そちらへも行ってみようと。
立ち上がって、希花に背を向けた。その時だった。
『すみかちゃん、かづきくん』
はっとして澄花は振り返る。希花に呼ばれたと思ったからだ。寝起きの後みたいな、舌足らずの甘ったるい声で。
希花は、ぱっちりと目を開いて澄花を見ていた。見つめて、見つめて、見つめて……射すくめられた澄花がごくりと唾を飲み込むと、希花は再び口を開いた。
一語一語はっきりと、澄花に刻みつけるように。
『ほんとのおなまえ、きいちゃった』
希花はぞっとするような微笑を浮かべて、そして、再び目を閉じた。
そして、それっきり。希花が再び目を開くことは、二度となかった。