ねえ
すみちゃん、すみちゃん。澄花を呼ぶ声がする。応えなきゃいけないのに、澄花の身体は重く、瞼が開かない。
すみちゃん。これは、希花の声。恐怖を押し殺した必死な声。
すみちゃん。これは、花月の声。涙交じりの舌足らずな声。
そういえば、前に誰かに言われた気がする。澄花の姉弟はどうして名前で呼び合うの、と。
どうしてだったかな。澄花はぼんやりと記憶の中を探す。特に理由はないよ。ただ、名前は、その人にしかない大切なものだから。
だけど、そういえば。あれはおばあちゃんだったかな。誰かが言ってた気がする。
名前はいちばん短いおまじない。だから大切なんだよ、と――
「すみちゃん、すみちゃん!」
何度も名前を呼ばれ、身体を揺さぶられる感覚で澄花ははっと意識を取り戻した。
長い長い夢を見ていた気がする。悪夢みたいな世界の中で、夢を見るだなんて。何だかおかしいけれど。
「かづくん、きはなちゃん……?」
ぼやけた視界が焦点を結ぶと、澄花を覗き込む希花と花月の顔があった。眉が、心細げに歪んでいる。瞳が、悲しげに曇っている。
ああ、と澄花は嘆息した。
「すみちゃああん」
「ごめんね。私もしっかりするから、すみちゃんばっかり頑張らなくてもいいんだよ」
私は、大切なふたりを置いて、どこへ行ってしまうところだったのだろう。
「……ありがとう、もう大丈夫。私も、ごめんね」
もっと強くなりたい。そう思った。大切な人を守れるくらいに。心が折れてしまわないくらいに。
自分自身を、見失わないくらいに。澄花は強く心に刻み付け、天に誓うようにきっと顔を上に向けた。
その時、気付いた。
「ここは?」
空が見える。暗く濁った夜空が、澄花たちの頭上に広がっていた。月明りも星の瞬きもない、密度の濃い闇。けれどもそれは、ちゃんと空だった。
ついに……外に出られたのか。元の場所に、戻ってくることができたのか。
「覚えてないの? 赤ちゃんの声から逃げて、部屋に飛び込んだでしょ。そしたら、入った部屋がここにつながってたんだよ」
けれども澄花の期待は、あっけなく打ち砕かれた。膨らみかけていた希望は萎み、そして、澄花の心に新たな戸惑いが生まれた。
「そうじゃないよ。ほら、部屋の中に赤ちゃんがいたでしょう? それできはなちゃんが助けてくれて……」
澄花が覚えている限りの記憶を伝えても、そんなの知らない、と希花と花月は首を横に振った。
三人の記憶のすれ違いは、どうして起きてしまったのか。澄花は考えたが、すぐに諦めた。こんなわけのわからない場所にいるのだ。わけのわからないことは、考えていても仕方がない、と。
風がそよそよと吹きすぎた。澄花は辺りを見回す。地面は打ちっぱなしのコンクリート。三人の周囲にはなにもなくて、だだっ広い。遠くの方にはコンクリートの端が見えた。そこにはぐるりと柵が巡らせてある。これは、まるで……
「屋上?」
澄花は柵の方へ行ってみることにした。コンクリートはところどこと痛み、剥がれ、ボロボロだ。なんとなく足を忍ばせて柵へと歩いてゆき、そっと身を乗り出して下を見る。
下に広がっていたのは、黒々とした森。暗くてよく見えなかったが、あの道と同じ森だろうか。わからない……けれど、ようやく外に出てこれたのだ。行ってみる価値はありそうだ。
「下に降りよう。外に出るよ」
外に出よう。家に、帰ろう。お日様は眠りに就く時間。子供たちも、それぞれの家に帰る時間。
暗闇でよく見えなかったが、少し歩いたところに小屋のようなものが見えた。屋上から下へ降りる入口だ。エレベーターと階段がある。電気が通っているのか、エレベーターは動いているようだ。そして、階段は黄色と黒のテープで封鎖されていた。
「どうする?」
澄花はふたりに尋ねたが、訊いたところで無意味だった。使えるのは、エレベーターしかないのだから。
ただ、何となくエレベーターに乗りたくはなかった。せっかく外に出られたのに、エレベーターは閉鎖空間。下に着くまで、じっとしているしかできないのだから。
「……行こうか」
ボタンを押す時、澄花は心の中で祈った。何も来ませんように。怖いものが来ませんように。
そして、少しも経たないうちに、エレベーターは来てしまった。ゆっくりと開く扉が飢えた獣の口みたいに見えて、澄花はぞっとした。けれど、すぐに唇を引き結んだ。これに乗らなければ、下に降りなければ、外には出られないのだと。
三人はぴったりとくっついて、エレベーターの中に入った。三人を容れるとエレベーターは、ゆっくりゆっくり扉を閉めた。
そして、ごうんごうんと大きな音を響かせて、エレベーターは下へと向かった。ちゃんと作動したことに、とりあえずはほっと胸を撫で下ろす。
「ねえねえすみちゃん、きはなちゃん」
そう口を開いたのは、花月だった。なあに、とふたりは返事をする。
「これ、なんてかいてあるの?」
花月の指さす場所へ、澄花と希花は目線を下げる。花月の目線の高さを。ふたりの腰の高さを。
そこにあったのは、チラシの裏みたいなつるつるとした白い紙。そこに黒いマジックで、たどたどしい字が綴られている。
『かづくん』
『すみちゃん』
『きはなちゃん』
『あそぼう』
『きはなちゃん きはな きはな』
なぜだか希花の名前だけ、幾つも幾つも書いてあった。書きやすかったのか、気に入ったのか――何かを確かめたかったのか。
希花がごくりと唾を呑み込む音が聞こえた。無理もない。怖いだろう……まだ何かあるのかと、まだ赦されないのかと。
「きゃはははははははははははははは」
かと思えば、希花が甲高い笑い声を上げた。キンキンと耳に突き刺さる声。狭い空間を、頭の中を、何度も何度も反響する。
「あははははははははははははは、もう、無駄なんだから。なにもかも、全部ぜーんぶ。諦めてよ。ねえ、ねえ!!」
希花は立ち上がり、天井に向かって手を伸ばした。何もいない天井を見て、笑う。
何かが見えているというのか。何が、希花を突き動かしているのか。明らかに、希花の様子がおかしい。
「きはなちゃん、きはなちゃん? しっかりして!」
何度声をかけても、どれだけ揺さぶっても、希花は笑うのをやめない。
目を見開いて、瞬きすらせずに、じっとある一点を見つめたまま。
「きはなちゃん、きはなちゃん、きはなちゃん……」
自分もこんな風だったのかと、恐ろしい気持ちでいっぱいになりながら澄花は妹に声をかけ続けた。あと少し。あと少しで外なのだ。
こんなところで、何者かに邪魔されるわけにはいかないのに。
「きはなちゃん。ねえ、戻ってきて」
早く、早く、早く。早く地上に着いて。
そうしたら、あとは外へと出るだけなのだから。
花月は尻もちをついたまま、希花を凝視し続けている。何もできないまま、途方もなく長い時間が過ぎたような気がした。
永遠に、このまま。希花が正気を取り戻すこともなく。家に帰ることすら叶わずに。
そんな絶望の未来を何通りも描いてしまった頃のこと。
エレベーターがチン、と軽やかな音を鳴らした。ごうんごうんと、扉がゆっくりと開かれる。
扉が開き切るのを待つこともなく、澄花はエレベーターの外に出た。右手に花月、左手に希花。手を繋いで、後ろを振り返ることなく駆け出した。
外は真っ暗だ。一面に墨を流したかのような、艶を帯びた粘っこい漆黒。息をすると黒い煙を吸い込んだ時のように、苦しい。
けれど、踏みしめた足の下でカサカサと落ち葉の音がする。肌を刺す冷たい空気は、夜の森の匂いを運んできた。
間違いない。ここは、外だ。外に、出られたのだ。
「かづくん、希花ちゃん。あと少しだからね。もう、外だから――あと少しの辛抱だからね!」
花月はひいひい喘ぎながら、それでも懸命に足を運んでいる。希花は打って変わって黙々と、真剣に走り続けている。
よかった。やっぱり狭い場所にいたからダメだったんだと、澄花はほっと胸のつかえがとれた思いだった。
そのうちにだんだんと目が闇に慣れてきて、少しずつ、少しずつ、辺りの様子が明らかとなってゆく。
三人は間違いなく、森の中にいた。木々がトンネルのように頭上まで覆ってはいるが、折り重なった枝葉の隙間から夜空の切れ端が見えた気がする。道は真っ直ぐと前に伸びていて、遠く遠く先の方……針の先で突いたような、ほのかな光すら見えていたのだ。あそこだ。あそこが、出口だ。やっと、やっと……!!
澄花は足を速めた。肺が痛い。足が重い……このまま転んで突っ伏してしまいたい。地面に手足を投げ出して、何もかもを止めてしまいたい。
折れそうな心を、澄花は叱咤する。ダメだ。止まるな。くじけるな。希花だって必死に食らいついて走っているのに。自分より小さい花月なんか、もっともっと苦しいだろうに。
ほら、あの光がどんどん近づいてくる。光は円く空間を切り取り、あちらとこちらを隔てているようだ。
光の中に見えたのは、全ての始まりにいたあのお地蔵さんだった。あんなにも恐ろしかったお地蔵さんだったのに、今はとても優しく見えた。おぞましく見えた微笑さえ、澄花を励ましているようにも見える。
だが。光の輪は、どんどん径を狭めてゆく。もう少し、あと少しなのに。まるで、澄花をあざ笑うように。
ダメ。このままじゃ、間に合わない―
と、その瞬間。
澄花の左手が、空を掻いた。重さを失って、澄花の身体が前方へともんどり打つ。
近くにはちゃんと花月もいた。小さな体を抱きとめて、澄花は一緒に転がってゆく。
なのに、それなのに。
澄花の隣に、ひとり足りない。
「きはなちゃん!!!!」
澄花は叫んだ。世界がぐるぐると回って、希花の姿を見つけられない。
どうして手を離したの。早く、一緒に行くよ。
喉が引きちぎれるくらいの声で叫んだ。希花の名前を呼んだ。
けれど。
「ダメなの……呼ばれちゃったんだ……」
寂しげな希花の声がして、世界は光に包まれた。温かな光が、澄花を目隠しする。
もう帰りなさい、と。大きな手が二人を抱きとめた。泣き出しそうに温かな手だった。身体が、温もりに溶けてしまいそうで。
「どうして……」
澄花は呟いたはずだった。なのに、声は聞こえなかった。
澄花の声は消えてしまった。光の中に溶けていって、もうあの子には届かない――