うらやましいな
この世界は、夢の中なのか。うつらうつらと澄花は考えた。
夢であって欲しい。こんな怖いの、現実なはずがないもの。
早く消え去って欲しい。こんな夢、早く醒めて……
澄花が再び目を覚ますと、先ほどまでの和室とは打って変わって、見知らぬ洋室の中に三人はいた。身体を横たえていたのは、大きなベッドの上。スプリングがいかれているのか、寝心地はあまりよくなかった。お父さんとお母さんの部屋にあるベッドは、家族五人で並んで眠れるくらいに大きかったことを思い出す。記憶の中のそれよりも大きなベッドの上で、三人は手を繋いだまま眠っていたらしい。
すん、と空気を吸い込むと、部屋の中はカビくさいような、ホコリの臭いがした。思わず顔をしかめて、澄花は身体を起こす。
「何なの、これ……夢なら、早く醒めてよ」
一番最後の記憶が切れ切れに蘇る。穴だらけの廊下、ボロボロの障子。そこかしこにべったりとこびりついた赤黒い何かと、背後から迫りくる声――
だめだ、しっかりしなきゃ。私は……お姉ちゃんなんだから。
今ここで、ふたりを守ることができるのは、私しかいないんだから。
「きはなちゃん、かづくん。起きて」
お姉ちゃんなんだから。いちばん歳上なんだから。
澄花は何度も何度もそう繰り返し、自分自身を叱責する。
「ん……おはよぉ、すみちゃん……」
「ここ、どこ?」
ふたつの小さな手を握る、ほんの少しだけ大きな手。震えてしまいそうになる自分を必死に抑え、澄花は弟妹を抱き寄せた。
「おはよう。さっきは……怖かったね。ごめんね。私、もっとしっかりするから」
澄花はそう言って、ふたりの背中を優しく撫でた。まるで、母親のような優しい手つきで。希花は黙って、澄花にぎゅっと抱きついた。
「はやくかえりたい」
花月がぽつりとそうこぼす。そうだよね、怖いよね。澄花は最後にぎゅっとふたりを抱き締めて、身体を離した。ふたりに向き直って、にっこりと微笑む。
「わかった。早く帰り道を探そうね」
自分のことはいいのだ、と澄花はいい聞かせた。自分は、二の次。今大事なことは、怖がるふたりを少しでも安心させることなのだと。
さて、と気持ちを切り替え、改めて部屋の中を見回す。なんだか、ホテルみたいに豪華な部屋だった。大きなベッドはもちろんのこと、天井からぶら下がっているシャンデリア。ベッドの脇のテーブルも意匠が凝らしてある。お城の中みたいだね、と希花と花月は少し楽しそうだ。確かに、澄花も少しだけわくわくしてきた……埃をかぶって、クモの巣がかかってさえいなければ完璧だったのに。
さあ、部屋を出よう。三人はベッドから下りて、扉に向った。外に出るのだ、早くこんな所から出てしまおう。と、澄花がドアのノブに手をかけた、その時。
「ふええ……ふえええ……」
突然、三人の背後から泣き声が聞こえた。これは、赤ちゃんの泣き声か。部屋のどこにも、赤ちゃんなんていなかったのに。
「出るよ!」
振り向くこともなく、澄花たちは部屋の外へと駆けだした。とにかく離れよう。声から遠ざかろうと、一目散に。
廊下はやはりおかしくて、窓がひとつもない。それどころか、階段もない。あるのは、ずらりと並ぶ閉じたドアばかり。赤ちゃんの泣き声は弱々しくて、けれども全然小さくならない。これは……また、追いかけられているのだろうか。
「すみちゃん、あの部屋開いてるよ!」
その中のひとつだけ、ドアが開いた部屋があった。迷わずに中に飛び込んで、怖いものから隠れることにした。
「入って!」
三人ともその部屋に入ったことを確認して、澄花はドアを閉めた。その時。
「おぎゃあああああああ!」
部屋の中で、赤ちゃんの泣き声が響き渡った。火の付いたような泣き声に、三人は驚いて泣き声の根源の方を見た。何もない部屋の中央にぽつりと置かれた、ボロボロのベビーベッド。その中から、聞こえてくる!
澄花は慌てて閉めたドアを開こうとした。が、開かない。ノブをガチャガチャと強く回しても、足で蹴ってみても、ドアはびくともしないのだ。
恐怖からか、花月がすすり泣きを始めた。希花がしー、と指を口に当てても効果はなく、花月が泣き止むことはなかった。
「かづくん。私の後ろに隠れてて。ぎゅってしててね」
澄花がそう言うと、花月はすぐに澄花に抱きついた。よしよし、と希花が花月の頭を撫でる。
さて、どうしようか。途方に暮れた澄花は、ベビーベッドの方を見た。ひっきりなしに泣く赤ちゃんの声を聞き続けていると、澄花は何だか懐かしい気持ちになった。
赤ちゃんの泣き声を、澄花は何度も聞いたことがある。それは、花月が赤ちゃんだった頃のことを覚えているからだ。花月と澄花は六つも歳が離れているので、澄花は進んで花月の世話をしていたのだ。だから、赤ちゃんの泣き声が澄花にはわかる。これは、寂しい時の声……
不思議と、怖くはなかった。希花の制止を無視して澄花はふらふらとベビーベッドの方へと向う。もしかしたら、寂しいだけなのかもしれない。構って欲しいだけなのかもしれない――
「これは……?」
澄花がベビーベッドを覗くと同時に、泣き声が止んだ。中には赤ちゃんの姿はなく、代わりにあったのはボロボロの画用紙が一枚だけ。
「……」
澄花は黙って、画用紙を取った。裏返してみると絵が描いてあった。クレヨンで描かれた、拙い絵。
それは三人家族を描いたものらしかった。両脇にはお父さんとお母さん。真ん中に、両親と手を繋いだ幼い子。
ただ、真ん中の子は泣いていた。大粒の涙がいくつも頬を伝っている。それなのに、お父さんとお母さんは晴れやかな笑顔に描かれていた。それだけでも不穏な空気が漂っているのに、極めつけに、子供の顔には大きく赤いバツ印がついていた。まるで、顔を切り裂かれたかのような。
澄花はその絵を見て、胸がいっぱいになった。この絵を描いた子に何があったのかはわからない。それでも、悲しい想像でいっぱいになる。気づけば澄花の目からは涙が零れていた。ぽろぽろと涙を流して、澄花はその絵に思いを馳せる。
『おかあさん、おかあさん……』
ふと、泣き出しそうな幼い子の声が聞こえた。はじめ澄花は、花月が甘えて『お母さん』と呼んだのかと思った。そろそろ花月も疲れてきた頃だろうから。
だがその声は、澄花の目の前から聞こえてくる。花月は、澄花の腰のあたりにぎゅっと抱きついたままなのに。
『おかあさん……すみ、ちゃん……』
澄花の名前を呼ぶ声がする。花月の声でも、希花の声でもない声。これは、この声は、絵の方から聞こえてくる――
『いっしょに、いてくれる……よね?』
ビリ、ビリ……と、画用紙がゆっくりと裂けてゆく。澄花は引っ張ってなどいないのに。
澄花はただ、破れてゆく画用紙を見つめていた。破れた端から、画用紙が黒ずんでゆく。画用紙の裂け目から、何かがゆっくりと顔を覗かせる。
ボサボサの髪の毛。目玉のない眼窩。灰色がかった肌をしたその子は、澄花の方を見上げていた。不思議なことに澄花は怖いと思わなかった。その子があまりにも傷だらけで、痛々しくて……可哀想だと、思った。
『いっしょ、ふふ……すみちゃん、いっしょ……』
その子はにたりと笑って、涙を流す。目玉のない空洞から、だらだらと黒みがかった血が流れていった。
澄花は手を伸ばした。流れる涙を拭おうと、その子に触れかけた、その時。
「すみちゃん、ダメ!!!」
はっとした澄花が見たものは、怖い顔をした希花。肩で荒い息をして、澄花の両手を握っている。
それから、目の端でひらひらと舞う白い何か。よく見ると、それは細かく千切れた紙くずだった。澄花の手には画用紙がなかった。
「すみちゃん、しっかりして」
ほとんど掴みかかるようにして希花が言う。澄花はぼうっとして何も考えられなかった。私、何をしていたんだろう。
「私、一緒に……」
私は、お姉ちゃんなのだから。寂しい思いをさせてはダメ。一緒にいてあげなくちゃダメなのに。
「ねえすみちゃん、私たち一緒だよ。私もかづくんも、すみちゃんのそばにいるよ」
ちゃんと三人とも一緒にいるよ、大丈夫だよ。希花が何度も何度も澄花に訴える。
「ごめんね。すみちゃんにばっかり無理させちゃって……私もちゃんと、しっかりするから。すみちゃんの力になるから」
希花の言葉には次第に嗚咽が混ざってゆく。震える声を抑えて、必死にしゃんとしようとする希花は、いじらしかった。
「だからすみちゃん、どこにも行かないで」
ああ。希花の最後の言葉で、澄花はようやく気付いた。
自分がもう少しのところで、攫われてしまうところだったのだと。
「きはなちゃん、かづくん……」
どうしていたのだろう。私……私は、しっかりしていなくちゃいけなかったのに。今になって震えが澄花を襲った。両手で顔を覆う。そうしていないと、大切な何かが零れ落ちてしまいそうに思えたから。
『うらやま……しいなぁ……』
どこからかまた、小さな声が聞こえた。そして、それっきり聞こえなくなった。
「私……」
だって私は、お姉ちゃんなのだから。お姉ちゃんなのだから妹と弟を守らなくちゃ私がしっかりしなきゃふたりには私しかいないのに私はいいからふたりを安心させてあげなくちゃ私がしっかりするんだ私が私が私が――抱えていたものが、ぷつり。音を立てて切れてしまった。
マジナイ……フジュウブン…………アト、ヒトリ……
意味深な余韻を残す、低い囁き声。それを聞いたのを最後に、澄花は意識を手放した。




