まいごのきょうだい
嵐の翌日は、打って変わって青々と澄んだ空が顔を覗かせた。昨夜あれほど怖がっていた希花も花月もけろりとしており、どうやらもう怖い声は聞こえなくなったらしい。ほらね、よかったよかった。怖かったのは、夜のせい。怖かったのは、風の音のせいだったんだ。
いつもどおり、澄花と希花は学校に、花月は幼稚園に向かった。
いつもどおり、少し遠回りな方の道を通って。
いつもどおりの一日を終えて帰宅した、その日の夕方。三人姉弟は母親からお使いを頼まれた。
「お願いしてもいい? お母さんうっかりしててカレールーを買い忘れちゃったの」
このままじゃ肉じゃがになっちゃう、と母親は狼狽える。肉じゃがも好きだけどな、と澄花は思った。しかし、母親は好きなものをひとつずつ買ってもいいから、と付け加えた。そんなことを言われてしまっては、行かないわけにはいかない。三人は二つ返事でお使いを引き受けた。
気をつけて行ってきてね、と母親が送り出す。陽はだいぶ傾いていた。けれど、近くのスーパーまでは往復して三十分もかからない。大丈夫、陽が落ちるまでには帰れるね。
澄花たちの家は小高い岡の上にある。街に行くには長い坂道を下りていかなければならない。その坂道の途中が二股に分かれていて、当たり前のように遠回りの道を行く。手を繋いで、歌を歌って。仲睦まじい三人姉弟。
そしてスーパーに着いた姉弟は、いつものカレールーをカゴに入れた。それから三人の好きなお菓子も。澄花はドーナッツ。希花はカラフルなチョコレート。そして花月は金平糖。それらを無事に買った後に、姉弟はいそいそと帰路につく。
歩行者用の信号機が、青に変わってメロディーを奏でる。単調なそのメロディーに合わせて、舌足らずな声で花月が歌う。
――とーおりゃんせーとおりゃんせー
歌うと、何故だか足取りが軽くなる。澄花と希花も一緒になって歌いだす。
――こーこはどーこのほそみちじゃー
帰ろう、帰ろう。長い登り坂だって何のその。沈みかけのお日様と競走しようか。どちらが早く、家に帰れるか。
そうして街中を抜け、坂道のふもとにやって来た時だった。
「あー、かづくん。もうお菓子開けちゃったの?」
花月が繋いでいた手を離して、拙い手つきでごそごそと袋を開けた。金平糖を幾つかつまみ、口の中に放り込む。大好物を舐めながら、花月は満足そうに満面の笑みを浮かべている。
「……晩ごはんがあるんだから、あんまり食べすぎちゃだめだよ」
澄花はやれやれとため息を吐いて、優しい声音で注意した。花月ははぁい、と口をもぐもぐさせて返事をする。まあ、かづくんはまだ小さいから。坂道、歩いて登るの大変だもんね。ご褒美くらいならいいや。澄花は再び花月の手を握り、気を取り直して歌の続きを歌い始めた。
長いとは言っても、小学生の足で登って十分程度の坂道だ。歌っていればすぐに着く。花月はこの歌が気に入ったのか、何度も何度も繰り返す。
――いきはよいよい、かえりはこわいー
そのうち登り坂の先に、ぐるりとうねるカーブが見えてきた。このカーブを曲がった先にあるのが、例の分かれ道。ここまで来れば、家まではあと少し。どうやらお日様との競走には勝てそうだ。
――こわいながらもとーおーりゃんーせとおりゃんせー
歌い終えると、ちょうど分かれ道の前に辿り着いた。そして、姉弟の足がぱったりと止まった。
「あれ……?」
澄花は首を傾げる。希花は小さく声を上げた。
「木、倒れてたっけ……?」
いつもの回り道の前に、注意喚起の立て看板。
『この先、倒木に注意』――おかしいな。ついさっき、ここを通った時には何もなかったのに。
「ほんとだ。すみちゃん、あそこで道が塞がっちゃってるよ!」
希花がそう言って指をさす。見ると、曲がりくねる道の奥で、太い木が横倒しになっていた。
「昨日の嵐で木が倒れちゃったのかな」
それなら、危ないところだった。登下校でも、ついさっきも、こちらの道を通っていたのだ。あと少し通るのが遅かったら……と考えて、澄花は小さく身震いした。
「仕方ないね。大丈夫な方の道を通ろっか」
何となく嫌な気持ちになりながら、近道の方へと足を向けた、その時。
「あれ?」
澄花の左手が、空を切った。花月と繋いでいた方の手だ。
「かづくん?」
いない。手を繋いでいたはずの花月は、そこにいなかった。澄花が慌てて周囲を見回すと、小さな背中が、暗い道へと消えていくのが見えた。
青いシャツ、ベージュの半ズボン。間違いない。あれは、花月の姿だ。
「かづくん、先に行っちゃダメ!!」
手を離したのに気づかなかった、と澄花は自分の不注意を悔やむ。花月はまだ小さいのに。自分はお姉ちゃんだから、ちゃんと見ていてあげなきゃいけなかったのに。
「行こう、すみちゃん」
嫌だとか、気味が悪いとか、そんなことを思っている場合ではない。繋いだ手を強く握って、澄花と希花は走りだした。
その道は、木が絡み合うほどに茂って影を投げかけている。陽が落ちかけているとはいっても、こんなに暗いものなのだろうか。ふたりは花月の名を呼びながら、急いでその道を駆け抜けようとした。
この道を怖いと思うのは、いつも暗いから、だけが理由ではない。道の半ばほどにひっそりと佇む、古びたお地蔵さん。ふたりはこれが怖かったのだ。色あせた赤い頭巾と、ほつれた赤いよだれかけが、おどろおどろしい雰囲気を一層増長させる。街中で見かけるお地蔵さんは可愛らしいと思うのに、どうしてこのお地蔵さんは、こんなにも可愛らしさからかけ離れているのだろう。
そして、お地蔵さんの脇には細いけもの道が続いている。けれど、その先に何があるのかは、澄花も希花も知らない。知りたくもない。
なるべくそれを目に入れないようにして、足早に通り過ぎた。そこから少し行った先でのこと。
「あっ」
そしてふたりは信じられないものを見た。この薄暗い道はもうすぐ終わる、そのはずだった。
ふたりの前に立ち塞がったのは、通り過ぎたはずのお地蔵さん。苔むして、まっぷたつに割れそうな笑みを浮かべて……記憶にあるものの何倍も大きく、そびえ立つような。
希花が澄花の背後に隠れた。澄花も自分の膝がガクガクと震えているのを感じた。怖い、怖いよ……こんな道を、ふたりは知らない。
「かづくん!」
澄花が叫んだ。裏返った調子外れの声は、虚しく山の木々に吸い込まれてゆく。応えるものは、いなかった。
「……」
澄花は腹をくくり、にらみつけるようにお地蔵さんを見た。赤いよだれかけに、いつのものかわからないお供え物。間違いない、これはあのお地蔵さんだ。
それなら、とお地蔵さんの横に目をやると、やはり、細い獣道が伸びている。その奥は、何も見えない真っ暗闇だ。
「すみちゃん、どうしよう」
澄花の背中で、希花がくぐもった声で言う。言葉尻は震えていた。澄花は大きく頭を振った。怖がる気持ちを追い払うように。
「あそこだよ……」
希花も察したようだった。うん、と小さく頷く。繋いだ手はしっとりと濡れていた。
「……大丈夫。きっと、かづくんは見つかるよ」
ふたりがもう少し大人だったならば、坂道を下って大人に助けを求める手段も浮かんでいただろう。だが、ふたりにそんな余裕はなかった。小さな弟がいなくなった。それは、帰り道が塞がっていたことよりも怖いことだったのだ。
一刻も早く、花月を見つけなければ。その思いだけが、ふたりを突き動かしている。目指すは恐ろしいもの、視界にも入れたくなかったもの。
「……行こう」
陽はすっかり落ちてしまった頃だろうか。暗い、暗い。密度の濃い闇が、ふたりの元へと忍び寄る。誘うように、ゆらゆらと揺れる。
お地蔵さんの横を、ふたりは進む。ずんずんと、奥へ。花月の小さい歩幅ならば、すぐに追いつくと思ったのに。あの道のどこにも花月の姿はなかった。ならば、花月はきっと、この道の先に。
ふたりは灯りを持っていなかった。だから進む道は本当に暗くて、何も見えない。ねばっこい闇がふたりにまとわりついて離れない。
けれど、ふたりは止まらなかった。意を決して、進む。進む。大事な弟を、探さなくちゃ。そのためならば、どこまでも……
そして、ふたりの姿は見えなくなった。闇の中に溶けてしまったかのように――