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長々と書いてきましたが、「純文学とは何か」という話に戻りましょう。二十世紀の文学には偉大なものはたくさんありますが、僕はそれらは近代の遺産でやっている気がします。特に二十世紀の中盤くらいまででしょうか。ジッドやヴァレリー、プルースト、カフカ、色々あるわけですが、近代の残り火というか、近代が減衰する過程で出てきた美しいものに見える。それが第二次大戦、戦争というだけではなく、平和ー経済も含めた大衆社会と物質的なものの優位によって文学というのはほぼ死に絶えた、という風に自分は見ています。シオランなんかは、大好きですが、そういう死に絶えた後の世界を徘徊している賢者に見える。
やっとタイトルに戻りますが、ではそもそも「純文学」とは何でしょうか。うーむ。答えは、「既に死に絶えたものの上で踊っている何か」という事になるのでしょうか。実際、「文学」とはそもそも何かよくわかっていないのに、芥川賞がどうだ、新人が出れば「文学が蘇る」とか、色々言っているが中身はわからないという状態がそれを示しているのではないのでしょうか。『純文学なんてない! 純文学はもう終わったんだ。あるのは純文学の埋葬、文学というものの埋葬、死滅。勝利した故に傲慢に流れる人間達、そのエピローグを描くのが唯一残った文学なんだ!』と吠えてみてもいいかな。
そんな悲観的な事ばっかり言っていてもしょうがないので、もう少し考えましょう。サンプルは存在します。フランスのミシェル・ウエルベックは、現在の優れた「純文学作家」だと思います。彼のやっているのはニヒリズムです。映画監督ですが、ミヒャエル・ハネケも同じです。ニヒリズム・ペシミズムで何かと戦おうとしている。それは一体何かと言えば、既に消えてしまった理想、神、人間、それらのあるべき存在を、希望というものを、「すべてがなくなってしまった現在」を描く事によって逆説的に示そうとしている。そんな感じじゃないでしょうか。
「純文学」というものを考えると、大体そういう風になるんじゃないでしょうか。現在は文学というのはもうどうでもいいものになりつつあって、だからこそ、誰でもいいからタレントが小説を書いて、後は文体をひねくって「純文学」として売ったりする。それは普通の光景で、これは色々なものが死に絶えた空間に現れる現象としては普通だと思っています。ただ、ニヒリズムによって現在に抵抗する作家もいるにはいるので、そのあたりから次代に繋がる何かが出てくるのかもしれません。
かつては、神から引き剥がされ、自分達で生きていかなければならないという悲しみが文学を支えていましたが、今はその悲しみも存在しない。悲しみを失われた悲しみを嘆き、苦しみを失われた苦しみを苦しむ。人間の存在を描くのではなくて、もはや人間として生きる事ができなくなった人間を描いていく。そんな風にしか文学はできないのか。…しかし、このあたりもベケットなんかが既に描いていたかもしれません。
まあ、そんな風に、理想を求めていく事が個人の内部に苦痛を生み、その苦痛が「優れた純文学」に繋がっていく。現在はそう考えるしかない気がします。「純文学」というジャンルに位置すると信じ込み、大衆的・商業的なものと接着している葛藤のない文学もどきには未来はありません。僕達は現在から振り返って、中世のキリスト教神学に埋没してしまったもの、葛藤がまったくない、世界の価値観をなぞっているだけのものは真剣には読みません。少なくとも文学としては読まない。
それらは一つの価値観で構成されていて、既存のものを念入りに上書きするだけものなので、資料としては価値がありますが、全体の価値観を歴史的に把握すればその細部は読む必要がない。今、氾濫しているほとんどのものも時間が経てば読む必要もないものになる。それは言い換えれば、現在の価値観と完全に同化しているがゆえに未来においては価値がないものとなるという事です。しかし同時代においては、全く同じ理由で共同体に価値があると認められるというのは、どの時代でも起こってきた事かと思います。