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僕の理解では、西欧の近代化は、神というものを頂点にした中世的、キリスト教的な社会構造から、人間を基準とする水平的な社会への移行を目指したと思います。キリスト教的な縦の構造から、近代的な市民を中心とした構造に移る、その過程でポリスに集って自由と自主性を謳歌した古代ギリシアにもう一度注目が集まったと考えます。
まあこういうのは大きい話で色々な見方ができるので、僕の言うのも一つの見方にすぎないと思ってもらえればいいです。で、西欧はそういう風に、神中心から人間中心の世界に移行した。これは現在では考えられないほどの、色々な葛藤や苦悩、破壊といったものによって成されたのですが、その歴史というのは現在の僕らからはわかりにくくなっている。
例えば、ニーチェという哲学者がいます。今はニーチェというと半分ネタになってしまっていて、通俗解説本にかかれば、ニーチェはただ「生きる事は素晴らしいよ」と言っているJPOPレベルのメッセージな奴のわけです。で、まずい事には、インテリみたいな見かけをした人が、そういう見方を後押しして大衆に迎合して、金をもらう代わりにニーチェを押し下げたりしている。もちろん、ニーチェはそういう人ではないわけです。
ニーチェは親が牧師でした。ニーチェという人は僕は長い間よくわからなかったのですが、キリスト教というのが感覚的に少しだけわかって、ようやくニーチェもわかった気がしました。ニーチェはキリスト教批判をしたのですが、彼は、徹底的にキリスト教的な人物でした。僕はそう思います。本来、あまりにも西欧的、あまりにもキリスト教的な人がキリスト教を批判しなければならない、ここに精神的激痛が走るわけですが、ニーチェはデカルト以来の近代化の仕上げとして、そういう激痛を一人で引き受けたのだと思います。そう考えていくと、ニーチェは彼にとってライバルだったキリストに似ていると言えなくもないかな、と思います。
ニーチェを始めとして、西欧が近代化していく過程で、神の代わりに人間が中心になっていた。「神は死んだ」という言葉は、そもそも神の切実性がわかっていなければただのファッションになる。ニーチェの放った言葉も、今の作家がそのまま模倣すれば、ただのかっこつけになってしまう。現在というのは、もう人間中心の世界というのは確定したわけです。神がいないというのは当然すぎる状態です。日本では、わかりやすい一神教的な世界観はなかったのですが、封建社会の倫理から、近代化して自由主義が中心になったというのは西欧と同系と思います(このあたりはまだ勉強中で足りないのですが)。
もう少し突っ込んで考えてみたいのですが、「神」という価値観は内面的なものを含むと思います。例えば、人の物を盗む時に「この行為は神様から見て良くない事だ」という風に自分で考える。「神」という考えは「良心」という考えと重なる部分がある。日本でもそれに近い考えがあって「世間に顔向けできない」とか、「恥」の概念というのは、内面的に、自分の行動を自分で見るという要素があると思います。
何が言いたいかと言うと、現代人というのは、法律に違反しさえしなければ、後は何をしてもいいというか、そのあたりは享楽的です。限界線を心の内ではなく、外側に引く事によって、内面的には緩いものになった。「我と汝」という哲学書がありますが、そこで著者が言いたいのは、「汝」という神からの呼びかけは内面に響いてくるという事です。倫理規範が、「神」とか「恥」とかいう内面的なものから、「法」という外面的なものに移されて、内面は緩くなり、同時に法律さえ守れば何をしてもいいという、たるんだ人間がメインになったというのは、現代の文学が駄目になった事とどこか通底しているのではないかと考えています。これは今、考え中なので、保留状態にしておきたいのですが。