浮気の代償2
六月の雨が降る週末の深夜二時、都会なら賑わいをみせるこの時間帯でもここ安田市駅前は閑散としているのが普通である。
だが、今夜だけは違った。
飲み屋街のすぐ近くにあるマンション周辺では、パトカーが数台停車し、警察関係者や野次馬で人だかりができている。
神崎奈美はタクシーを降りると、ビニール傘を広げた。
「古川警部、遅くなりました」
奈美はよれよれのダークベージュのスーツを見つけ、声を掛ける。
「おう、来たのか……明日は非番なのに悪いな。あかねちゃんと遊びにいく予定があっただろう」
「いえ、大丈夫です。私は刑事ですから」
と答えたものの、日曜日で非番の明日は、あかねと健一と三人で水族館に行く予定であった。
内心は「こんな日に事件起こした奴、死刑」と言いたくなるくらいだ。
あかねは聞き分けがいいから、ぐずったりしないだろうが、きっとがっかりするだろう。
「それより警部、なんでも死体移動トリックをつかった大事件なんでしょ?」
古川警部はびっくりしたように目を見開いたあと、ため息を大きくついて目を伏せた。
「どこでどういう風に聞いたら、そういう話になるんだ。
被害者を勝手に殺すんじゃない。
さきほど病院から連絡があって、意識不明の重体ではあるが命は助かったらしい……こっちだ」
連絡をしてきた警察官の話とは違うようで、ほっとした。
意識不明でも大変な事件ではあるが、殺人よりは救いようがある。
奈美は古川警部の後に続いて、マンションの庭に来た。
雨除けのブルーシートをわずかにめくった。
「ここに被害者が落ちてきた」
確かに血痕が広がっていた。
古川警部は今度は頭上の樹木を指さしながら言う。
「この木の枝がクッションになったようだ」
見ると、枝が折れ、幹の皮がはがれて白っぽくなっている。雨に濡れて無残な姿になっていた。
「被害者は山石徹、四十五歳。このマンションの五階に事務所を持つ山石建設の社長だ。鑑識によれば、その事務所のベランダから落ちたらしい」
五階から落ちて、死んでない?
なんと幸運なことだ。
いや、自殺なら本人的には不幸だったかもしれないが。
「自殺でしょうか?」
「山石徹はここから落ちる前、何者かに暴行を受けていた。ただの自殺志願者とは思えない。殺人未遂事件の可能性もある」
「殺人未遂? 暴行を受けていたというのは?」
「若い男たちに暴行を受け、路上に倒れていたそうだ。財布や時計は無事だったから強盗ではないらしいが……」
暴行された男が、そのすぐ後、ベランダから落ちる。
今の段階ではなんとも言えないが、確かにただの自殺ではないように思える。
その暴行犯が自殺に見せかけるように、マンションからつき落とした。そう考えるのが普通だ。
「他殺の可能性がある……ということですね」
「そうかもしれんが、まったく無関係かもしれん。たまたま自殺しようと思っていた直前に、なんらかのトラブルに巻き込まれただけの可能性もある。とにかく、第一発見者に話を聞いてみよう」
古川警部はそう言うとマンションの敷地の外へ向かう。奈美も続いて立入禁止のテープをくぐって、野次馬の中を進んでいった。
事件現場から駅の飲み屋街の方向に数十メートル歩いて路地に入ると、警察の黄色いテープが再び現れた。
その先は住宅らしき建物があり、袋小路になっている。
ここにも少しばかりの野次馬が遠巻きに見つめている中で、制服警官が警備にあたっていた。
「古川警部、ごくろうさまです」
敬礼する制服警官は、その後ろにいる奈美の姿に気付くと
「か、神崎さん、ご、ごくろうさまです」
突然、慌てふためいた様子。
奈美は息を吐いて目を伏せた。
ひと月ほど前の事件を解決して以来、奈美は有名人になってしまった。
安田署の恥を全国区のニュースにし、署長の首を飛ばした女刑事。
または仲間を売って手柄を立てた、非情な女刑事とでも思われているのかもしれない。
信念をもってやったことだし後悔はないが、こんな反応をしてくる同僚たちに少々うんざりしていた。
「第一発見者の佐藤幸司さんです。駅前で飲んだ後、歩いて自宅に帰る途中で逃げ去る若者三人を目撃したそうです」
年配の制服警官に紹介された人物は、三十代の普通のサラリーマンという感じの男だった。こけたほほが気弱な印象をうける。
古川警部に促され、事件発見の詳細を語り始めた。
「十代後半か二十代前半くらいの男たち三人が、なにか慌てた様子でこの路地から向こうの方に走っていったんです。それでなにがあるんだろうと興味本位でこの路地に入ったら、そこの建物の間に男の死体が……」
「なるほど……まあ、死体ではなく生きていたんだがな。それで、その男はどんな様子だった?」
「口から血を流して、ピクリとも動かないもんだから死んでるって思って急いで交番に」
「なぜ、110番ではなく、交番に? 携帯電話もってますよね?」
「それは……気が動転してて……」
古川警部の質問に口ごもる佐藤を見ながら、奈美は思った。
もし、佐藤がこの現場を離れずに警察か救急に連絡をいれていたら、こんな惨事にはならなかったかもしれない。
だが、それも仕方のないことだ。
いきなり人が倒れているのを発見して、冷静でいられるほうが難しい。
奈美は少し考えてみた。
状況から考えて、逃げた若者三人が、山石に暴行をしたことになる。
暴行された山石は、落ちたマンションから離れたところに、気絶した状態で倒れていた。
逃げた暴行犯が何らかの理由、例えば、被害者に証言されるのを恐れて、引き返し、自殺に偽装したのだろうか?
考えられなくもないが、随分と面倒なことをした事になる。
大柄な被害者を運ぶのは数人がかりだろうし、誰かに目撃される危険性もある。
そこまでして、自殺に偽装する理由がわからない。
また、山石が暴行される理由も不明だ。
親父狩りだとして、気絶するほどの暴行をするとは思えない。ましてや、殺人までするなんて。
「それでは質問を変えます。その若者たちの顔は見ましたか?」
「暗かったのではっきりとは……でも、見ればわかると思います」
「それは助かります。で、その後、どうしました?」
「その後は自分たちといっしょに行動しました」
さきほど奈美にビビっていた、加藤と名乗る制服警官がしゃしゃり出て来る。
「こちらの現場に到着しましたが、死体らしきものが見つからず……」
「だから、死体じゃなくて生きていたんだってば」
少しイラっとして、強い口調になってしまった。
休みが吹き飛ぶことも、変な陰口を叩かれることも、彼のせいではない。
ただの八つ当たりで不機嫌になるのは違う。
加藤は「す、すいません」と恐縮した態度を示す。
「こちらこそ、すみません」
反省材料だ。
刑事課という花形? の部署にいるからと、調子にのっていると思われたら困る。
警察官同士、協力し合わなければならない。
これ以上、同僚に嫌われたくもない。
それに、前回の事件解決は、健一とメイのお陰なのであって、自分が優秀なわけではない。
もっとも、それを署員に知られるわけにはいかないので、自分の手柄ということになったのだが……。
「それで、どうしました?」
「私たち三人で周辺を探してみようということになり……」
今度は石井と名乗る年配の警察官が話を続ける。
マンションのほうから何か落ちたような音がして覗いてみると、男が木に引っかかっているのが見え、その後、落下したということだ。
自殺でも、他殺であったにしても、木に引っ掛かるとは、間抜けな話だ。
だが、警察としては幸運であったとも言える。
被害者が無事に回復すれば、事件の真相を語ってくれるかもしれない。
「佐藤さんにお聞きします。そこに倒れていた人物とマンションから落ちてきた人物は、同一人物で間違いないですか?」
古川警部の言葉に佐藤は頷いた。
「それは間違いないです。着ている服もはめている時計も同じものでした。あそこで死んでいた男が空から落ちてきたんです。そりゃ、たまげまし……」
「だから、死んでないってば」
「死んでませんよ」
奈美の言葉に被せるように、加藤が叫ぶ。
佐藤は「ヒー」と女の子のような悲鳴をあげて尻餅をついた。
奈美は、「しまった」という顔をしながら、佐藤に駆け寄る。
古川警部はおでこに手を当てて、首を振っていた。




