兄と妹と密室 2
桜町の現場マンションでは数台のパトカーと警察官、野次馬たちで大賑わいだった。
かなりの手前でミニパトを止めてもらい、神崎奈美は車を降りる。
「県警本部の捜査官も来てるみたいね……あれ? 加代じゃない?」
となりに立つ鹿島玲子が言う。
「誰? 知り合いがいるの?」
「同じ高校だった松山加代だよ。ほら、制服警官と並んであのパトカーのところにいる」
玲子の指さす方向を見ると、確かに同じ歳くらいの女性の姿がある。
松山加代……思い出した。
少し地味で静かな感じの生徒だったが、あることがきっかけで有名人になった子だ。
「じゃあ、私たち行くね。奈美、がんばって」
「ありがとう。今度、飲みに行こうよ。桂里奈ちゃんもいっしょに」
単なる社交辞令で桂里奈も誘ったのだが、なぜかうれしそうな表情。
「弟さんもいっしょでお願いします」
「……」
あまり親しくなりたくないタイプの後輩だ。
玲子が呆れ顔で、ミニパトへと促す。
出来の悪そうな後輩の面倒をみる羽目になった友人に、心でエールを送りながら手を振る。
大きく深呼吸をした。
人が死んでいる事件、場合によっては凶悪事件ともなり得る。気を引き締めて事に当たらなければならない。
野次馬たちをすり抜け、腕に警察官の証である腕章を取り付け、加代のもとに。
「加代?」
加代は涙で真っ赤になった目で奈美を見たが、久しぶりに会った友達に気づいていない様子だった。
「高校でいっしょだった岡本奈美。ダンス部の……」
虚ろだった目に感情が宿ったのを感じた。顔の表情が崩れていく。目に涙が溜まっていった。
「ああ、奈美……覚えてる……奈美も警察の人なの?」
知り合いに会った安心からか、加代は奈美にすがるようにして抱きつき、声を出して泣き出してしまった。
「落ち着いて加代……何があったの?」
「田所先輩が……」
加代はそれ以上、何も言わなかった。
その背中をさすりながら奈美は考えていた。これは人が死んだ事件だと聞いている。
松山加代の関係者が、被害にあったということか?
田所先輩……彼が被害者だというのか?
「所轄かね?」
グレーのスーツ姿の若い男が、加代を奈美から引きはがした。おそらく、本部の新米刑事だろう。
本部の刑事である自分の方が、所轄の刑事より立場が上とでも思っている態度だ。
「彼女は第一発見者だ。これから署で詳しい話を聞かせてもらうことにする。話はあとにしてくれ」
そう言うと加代の二の腕を掴み、パトカーに連れ込もうとする。
「ちょっと待ってください。そんな乱暴に……」
駆け寄ろうとする奈美だったが、今度は自分の腕が強い力で掴まれ振り向く。
「本部の連中は、松山加代が犯人だと考えているようだ」
「古川警部……」
亡くなった夫、守と県警本部の捜査課でいっしょだったこともある古川警部だった。
今は安田署の刑事課に所属している。これから奈美の直属の上司となる人だ。
「お久しぶりです」
「神崎の葬式以来だな」
古川は長年の刑事生活が生み出した鋭い眼光と、その苦労が伺える額の深いしわを持つ、まさにいぶし銀の貫禄をもつ刑事。
「もう一年です……。それより、どんな事件なんですか? 今来たばかりで状況がよくわからないんですが……」
古川警部は眉間の皺を一層深めたが「まあ、いいだろう……現場にいくぞ」と言い奈美を促した。
パトカーに乗り込む加代のことが気になるが、今の奈美では助けたくても助けられない。
今はとにかく、事件の把握に努めるほうが先だ。
緊張した面持ちで、古川警部の後を追う。
現場のドアの前に制服警官が一人、中には数人の鑑識課員。
県警本部による捜査は、おおかた終わったようだ。
玄関を抜けると、左側にトイレ付きユニットバス、右側に洗濯室のある細い廊下が続き、正面に二つのドアがある。
左側がキッチンのあるリビング、右側が寝室になっていた。
二つの部屋は中でつながっている。
遺体はすでに運び出されていたが、寝室のベッドの上で腹部に包丁が刺さった状態だったらしい。
真っ赤に染まったシーツが、大量の出血だったことをうかがわせる。
「被害者は田所勇太、二十八歳。名古屋の観光会社の社員だ」
古川警部の言葉に、奈美はショックを受けていた。
加代の関係者だから、もしやとは思っていた。
特に親しかったわけではないが、友人の兄で高校の人気者だった男。
「松山加代の腹違いの兄です。田所勇太は一つ上の先輩でサッカー部のエースで部長、女子生徒の憧れの存在でした」
自分は全く興味がなかったが、田所の顔は思い出せる。爽やかなスポーツマンという感じの男だ。
「先輩の卒業式の後なんか、別れを惜しむ下級生が列を作っていたほどです。その先輩が卒業した後なんですが、松山加代の父親が亡くなり、その葬式で二人が同じ父親だとわかったんです」
当時は、すごいニュースだった。
大人のディープな関係が多感な頃の高校生には刺激的だったし、よくわからないやっかみで、加代が軽いイジメにあったりもした。
奈美はそんなくだらないことから、何度か守ってやったりもした。
「なるほど……腹違いの兄妹だとそれまで知らなかったということか……」
「私たちもびっくりで、当時の同級生はみんな知っていることです。それで、どういう理由で加代が容疑者に?」
奈美が説明を促す。
古川は「まあ、待て」と言うように、両手の平を奈美に向ける。
「妹の松山加代は看護師で夜勤明けの帰宅途中、田所勇太からのメール『今から来てくれ』を受け取る。こんな風に呼び出されることなどなかったため、病気を心配したらしい」
加代が看護師だと聞いて、記憶がよみがえる。そういえば、看護学校へ進学したはずだ。
「夜勤明けで、兄からの呼び出し。加代はどうしたんです? そのまま、田所のマンションへ?」
帰宅途中なら、方向転換して田所のマンションへ行ったのか?
「一旦、帰宅したらしい。その後、兄のところに向かった。呼び鈴を鳴らしても、声を掛けても出て来ないので、合鍵を使って中に入り、遺体を発見した」
兄の遺体を見た時の加代の気持ちはどんなだったんだろうか……奈美は胸が苦しくなった。
「それで、加代が犯人だと疑われた理由は?」
今までの話の中で、加代に疑いの目が向けられる要素はない。
「現場が密室だったからだ」
「密室?」
ミステリードラマに出てきそうな単語だ。
奈美は息を呑んだ。
「加代が来る少し前、部屋から大きな音楽が鳴り響き、隣の住人が訪ねている」
朝から迷惑な音……目覚まし替わりにしていたのか?
「呼び鈴を鳴らしても出て来ないので、ドアノブに手をかけた。その時、鍵はかかっていた。どうしようかと思っていたところ、まもなく音楽は消えたのでそのまま放置した」
「加代の、鍵はかかっていたという証言と一致します」
目覚まし変わりに使っていた音楽が、何らかの理由でボリュームが大きくなっていたのだろうか?
犯人は、わざわざ鍵をかけて出て行った? なぜ?
「この部屋の鍵は先月変えたばかりの特殊な鍵で、鍵は三つしかない。
一つはマンションの管理会社。
二つ目は住人の田所勇太。部屋から見つかっている。
最期の一つは妹の松山加代。加代はその鍵で部屋に入っている」
「……」
奈美は言葉が出なかった。
これでは加代が疑われても仕方がない。
加代は仕事が終わった足で、田所を訪ね、殺害。
田所の携帯を使って、自分宛のメールを送信。
鍵をかけて逃亡。
時間を置いて田所のマンションを訪れ、遺体を発見したように装う。
疑問が残るところはあっても、物理的に加代以外の人物が真犯人だとは思えない。
「松山加代の証言が事実だとすると、田所勇太の死は事故か自殺ということになる。だが、この死に方は他殺にしか見えない」
「そうでしょうね。自殺するのに自分のお腹を刺すなんて考えにくいことです」
奈美は包丁で自殺する様を想像して身震いした。
自分ならもっと苦しくない方法を選択する。
「ただ、ベランダの鍵が開いていたから、完全な密室というわけではないんだが……」
奈美は混乱した。今さっき密室だと言っておきながら、開いていたとはどういうことだ?
「それなら、加代でなくても犯行は可能です」
「ところがそうじゃない。窓の外を見てみろ。ここは三階だ。しかも通りに面している。検視の結果、死亡推定時刻は午前七時前後。その時刻にロープで下に降りる人間がいたら、通勤通学の誰かに発見される。しかも、なんらかの痕跡が残るはずだ」
奈美はベランダに出て確認する。手すりになんの異常も見当たらない。
外を見ると、確かに道路がある。
通勤通学の時間帯に、どのくらいの人通りがあるかわからないが、そのあたりはもう調べているのだろう。
飛び移れそうな木や建物もない。
怪我を覚悟で飛び降りたり、隣のベランダへと飛び移るなんてことも可能かもしれない。
だが、そんなことをする意味がない。
普通に玄関から出て行った方が、怪しまれずに済む。目撃される危険と大怪我する危険を冒してまで、密室にする理由がない。
「住人がベランダの鍵を開けたままにしておいたのだろうというのが、おおかたの見かただ」
なんと短絡的な考えだ。だが、そうとでも考えなければ説明つかないことも事実。
高校時代の松山加代はお人好しで気の優しい生徒だった。奈美には加代が人殺しをするような人間には思えない。
奈美は眉間にしわを寄せ、人差し指でなぞってみた。
「……」
そんなことをしたところで、どういうことかさっぱりわからない。
古川はそんな様子を見ながら、首を傾げた。
「おほん! 加代が疑われている点がもう一つある。動機だ」
男性の一人暮らしの部屋にしては、良く片付いている。
ガラスの小さなテーブルに二人用のソファとクッション。
テレビは壁際の床に直に置いてある。
棚の上には写真立てが並べられている。どれも、松山加代と田所勇太のツーショットでまるで恋人同士のデートや旅行のようなものばかり。
「一人暮らしの独身男性が、一つしかない合鍵を妹に渡す……普通そんなことしないだろ。渡すなら、恋仲の相手だ」
奈美には古川警部の言っている意味がわからなかったが、楽しそうな兄妹の写真を見るうちに気付いてしまった。恋人同士のようなではなく、恋人同士。
「まさか……そんな」
「血が繋がっているとはいえ、他人としてこれまで過ごしてきた。許されない恋愛に発展してもおかしくない。しかし、二人に未来はない。この関係を清算するために……」
「やめてください。想像が飛躍しすぎです」
奈美は古川警部をにらむような眼で見た。
初動捜査で思い込みや決めつけをするのは客観性を損ない、間違った結果を生む。警察学校で習った捜査の初歩だ。
古川警部は奈美の気迫にびっくりしたような顔をしたが、すぐに冷静な顔を取り戻す。
「俺の考えじゃない。本部の連中の考えだ。とにかく、一度署に戻って松山加代の事情聴取の内容と今後の捜査方針を待とうじゃないか」