消えた同居人 1
夏、それは一部の人にとっては恋の季節。
素敵な異性との出会いを求め、燃え上がる。
女性なら、男受けしそうな可愛らしくそれでいて少しセクシーな衣服を選択し、ナチュラルでありながら目元ぱっちり、唇ぷっくりな化粧と清潔感漂うほんのりとした香りの香水を身にまとい、戦場に向かう兵士のごとき気合と覚悟を内に秘めながらも、純情でいて少し天然キャラが混ざる明るいかわいらしさを演じる。
愛知県警安田署の女子トイレの化粧台の前で、神崎奈美はそんな一部の女性を見つけた。
「お疲れ様です、神崎先輩。今日はもう終わりですか?」
交通課の佐伯桂里奈だった。
鏡越しに奈美に気付いた彼女のほうから、新人らしく先に言葉をかけてきた。
私服姿で身なりを整えているところをみると、彼女も仕事を終えたようだ。
奈美はというと、今日一日書類整理という彼女にとっての地獄の仕事をこなし、精神的な疲労をかかえての終業時間となっていた。
「お疲れ、佐伯さん……髪切ったのね」
もともと新人警察官らしい短めの髪だったが、さらにさっぱりとベリーショートな髪型になっている。
「そうなんですよ。似合います?」
「ええ、よく似合ってると思うよ。思い切ったね」
奈美は手を洗い、ハンカチを濡らして顔と首筋を拭きながら答えた。
その姿はまるで、喫茶店のおしぼりで顔を拭くおじさんのごときものでもあるが、ここは女子トイレであって喫茶店ではないし、奈美は二十代の女子である。
経費削減と省エネ対策で、署内のエアコンは控えめな温度設定になっている。
ただ、机にかじりついていただけなのに、汗がひどい。
「私って、顔小っちゃくてかわいい系じゃないですか。だから、髪短くても似合っちゃうと思ったんですよね。やっぱりいい感じ。ロリコン顔の女性警察官って男からの受けがいいんです」
「……ああ、そう」
自分でかわいいって言うんだと奈美は思った。
だが、確かにかわいいかもしれない。
若さゆえの自信が彼女を輝かせているのだ。
「でも、おじさんは駄目ですね。髪型に気付くまではいいんですけど、『失恋でもしたの?』って時代錯誤かセクハラかって話ですよ」
「……そ、そうなのね。今どき、そんなこと言う人いるんだね」
とは言ったものの、奈美はドキリとした。
口には流石に出さなかったが、失恋でもしたのかと頭によぎったからだった。
私っておじさん? と一人ダメージを受ける。
「そうだ。先輩、これから時間あります?」
「まあ、帰るだけだけど……なに?」
「これから合食なんですよ」
「ゴウショク?」
「合同食事会です。まあ、合コンなんですけど、安い居酒屋じゃなくて、フレンチとかイタリアンとかのおいしい食事を楽しみながら出会いを見つけるみたいな感じです。一人女子メンバー足らないんですよ。神崎先輩……二十七歳でしたっけ……まあ、若く見えるからギリオッケーです」
それでいつもより私服がおしゃれなのかと合点がいった。
しかし、ギリオッケーとは失礼な。
その気になれば、大人の魅力でこんな小娘になど負けるわけが……と思ったところで奈美は自分を取り戻した。
夏だからって浮かれる一部の人間の中に、自分は含まれていない。
夏といえば、幼稚園の親子遠足。もう、次の非番の日だ。
このまま大きな事件がなければ、あかねと出かけられる。
ハイキングコースを親子で回りながら、ガイドの案内で自然を体験するのだ。
あまりコミュニケーションをとっていない、ママ友やパパ友との交流も重要になる。
「無理無理。そういうのは無理。恋だの愛だのって、今はそういう気分になれない。娘だっているし」
「何言ってるんですか? 若さは永遠に続かないんですよ。うかうかしてたら、あっという間におばさんです。先輩は一応独身なんだし、恋愛を求めてなにが悪いって話ですよ」
佐伯の熱量に、奈美は少したじろいだ。
言っていることは分からないでもないが、夫の守が死んでまだ一年と少ししか経っていない。
やはり、恋愛を求める気にはなれないのだ。
「もう、おばさんかも……この間も健一にね……」
奈美は少し前の出来事を思い返していた。
「奈美……もう少しおしゃれな下着に変えたら? まだ二十代なんだし……」
一日の激務を終え、仕事着のままソファに倒れこんだ奈美に、カーペットの上で洗濯ものを畳んでいた弟の健一が言った。
見ると、自分のパンツを両手に持って掲げている。
動きやすさとお腹の冷えにも安心な綿素材の愛用パンツである。
「こらこら、姉のパンツをしげしげと見るんじゃない」
奈美は立ち上がり、健一の持っているパンツを奪い取る。
「むしろ、若いでしょうよ。十代のころからこれなんだから」
と反論する。
「奈美は十代のころからおばさんなんだよ。今どきの高校生でも、もうちょっと小さくてかわいいおしゃれな下着にしてると思うよ。奈美のは地味だし大きいし、おばさんくさいよ」
「……いいのよ。誰に見られるわけでもないし……」
「わからないだろ。奈美だって独身なんだし、いつそういうことになるかなんて……同僚とかで誘ってきたりする男とかいないの?」
奈美は職場の男たちを思い浮かべた……考えてみると安田署はおじさん率がかなり高い。少し若めの男でも妻帯者だったりする。
「ないない。まったくない」
健一は呆れたとばかりに小さく息を吐いた。
「誰かに見られるとか見られないとかは別にしても、もう少し女性らしいもの身につけたほうがいいんじゃないの?」
「……はい……ん?」
あぶないあぶない。思わず反省するところだった。
「なんで健一が上から目線なのよ。二十五年間女性と付き合ったこともないくせに。健一の方こそ、いい加減に女の人と話ぐらいできるようになりなさいよ。いつまでも一人ってわけにはいかないでしょ」
奈美は仮にも結婚していた。恋愛のアドバイスをするなら、むしろ自分のほうだ。
「僕はいいんだよ。必要ないから。結婚だってしないし、無駄な努力はしない」
「……あんたねえ……」
奈美は健一の差し出した手に自分のパンツを渡しながら、眉を寄せたのだった。
「なんてことがあったのよ。だから……どうしたの? 佐伯さん?」
佐伯の顔が奇妙に歪んでいた。かわいい顔が台無しだ。
「先輩……パンツがかわいい、かわいくないとか以前に、弟に下着も洗濯させているんですか?」
「ええ……駄目なの?」
「駄目に決まってるでしょ!」
佐伯の顔が鬼のごとく変わり、奈美に詰め寄った。思わず、身を引く。
「怖いよ、佐伯さん。そりゃあ少しは抵抗あったけど、家事は全部健一がやってくれるから、もうまかせちゃえって思って……下着だけ別に洗うのも面倒だし……」
佐伯は頭を抱え、よろけるような仕草で化粧台にもたれかかった。
「先輩……もうそれ、女として終わってますよ……」
「……」
女として終わっている……奈美は金縛りにあったように固まっていた。
そんな大変なことだとは思わなかった。
やっぱり、弟に下着を洗わせる姉というのは、ダメなのか?
たかがパンツ……されどパンツなのか?
女として終わっている……それほどなのか?
佐伯の言葉に大きなダメージを受け、うなだれる奈美の耳に、古川警部の自分を呼ぶ声が届く。
「神崎、いるか?」
奈美は我に返った。
心に大きな傷を負ったものの、自分を奮い立たせて、女子トイレを出る。佐伯もいっしょに付いてきた。
「はい、います。どうしました?」
古川警部が小走りに近づいてきた。
少し慌てているようだと感じる。事件だろうか。
「よかった、まだいたか……梅河町のマンションで殺しだ。現場に行くぞ」
「はい、わかりました」
奈美は姿勢を正し、仕事モードに切り替える。
女として終わっているかどうかは置いといて、今は事件に集中しなくてはならない。
佐伯に別れを告げ、古川とともに駐車場へと向かう。
「佐伯は失恋でもしたのか? 髪が短くなっていたが」
急ぎ足をしながら、古川が言った。
「……警部……」
奈美は自分のことは棚に上げて、呆れたとばかりに額に手をやるのであった。




