浮気の代償5
女は鏡の前で、ため息をついた。
つけまつ毛をつけ、赤いルージュを塗ってもまだ、迷っている。
週に一~二度あるかないかの至福の時間。
いつもなら、何のためらいもなく支度をして、ウキウキな気分で出かけられるのに、まさか蜂谷広人があんなことをしでかすなんて……。
ちょっと懲らしめてくれるだけでよかった。
あんな風に逃げるように出て行くなんて、自分がどれだけ傷ついたのかその何分の一でも思い知らせてくれるだけでよかった。
意識不明の重体だなんて、望んでいたわけではない。
女は立ち上がり、部屋着であるジャージを脱いでベッドの上に放り投げた。
すでにお出かけ用の下着は装着済み。
ワインレッド色でレースの部分にバラがデザインされているのがかわいい。ネットで見つけて即購入したお気に入りだ。
クローゼットの前まで歩いて、扉を開ける。
シックな冬物がまだ中を占領しているのを見て、つぶやく。
「そろそろ衣替えしなきゃな」
そんなにそろえられていない春物の中から、ピンクのブラウスを手に取って鏡の前であててみる。
下着の色と合わないなと気付いてクローゼットに戻した。
「やっぱり……やめよう」
女はクローゼットの扉を閉めた。
心がざわつく。
楽しい気分で出かける準備ができない。
ジャージの上だけとって羽織り、窓のカーテンを開けた。
外はもうすっかり暗くなっている。
二階のこの窓からだと、隣の家の庭先にあるアジサイの花がよく見えた。そんなことすっかり忘れていたなと気付く。
窓を開けた。
湿り気を帯びた生温かい風が女のほほをなでる。
栗色の長い髪が踊るように舞った。
見上げると、灰色の空に黒い雲。深夜には雨になると予報で言っていたのを思い出す。
「雨になりそうだし……やっぱり……」
その言葉を発した途端、目に涙がでできて熱くなるのがわかった。
山石徹の顔が浮かぶ。
女は窓を閉め、カーテンを引き、ベッドの上に飛び込んだ。
枕を引き寄せ、顔をうずめると涙があふれてきた。
母子家庭で育ったためか、小さい頃から好きになる男性は、すごく年上の人ばかりだった。
山石徹に惹かれたのも、父親への憧れなのだと理解できている。
でも、本気だった。
「素敵なネクタイですね」
バーのカウンターで、女は二つ席の空いた中年の男性に声を掛けた。
ブルーの波型の模様にイルカのイラストの入ったネクタイをしている。
「ちょっと派手じゃないですか? 会社の子たちのオーストラリア旅行土産なんですよ」
男は恥ずかしそうに笑った。
女は山石徹との出会いを思い返した。
あの笑顔がこの恋のはじまり、寒い冬の月曜日のことだった。
それから、連絡を取るようになり、バーで待ち合わせる。
お金も出してくれるようになった。
「私のパパになっていただけませんか」
女は駅へと向かう帰り道、山石徹に打ち明けた。
お金が欲しい。お金がないとおしゃれも出来ない。
でもそれだけじゃない。
既婚者である山石徹と特別な関係であるという証が欲しい。
女は正直に打ち明けたのだった。
山石はびっくりした顔を見せた。
「僕なんかでいいの?」と言う。
「あなたがいい」と女は山石のスーツの裾を掴んだ。
うまくいくはずだった。
二人の間には確かに愛があった。
なのに、あれを見られてしまった。
油断していた。
この嘘は絶対に気付かれてはいけなかった。
ばれない自信もあった。
あんなものいつもなら持って出かけたりしないのに、あの日はうっかりカバンに入れてしまった。
しかし……と女は思う。
あれを知ったとはいえ、山石のあのうろたえかたは……。
玄関のチャイムの音で、女は我に返った。
一緒に暮らす母親は仕事で出ている。家の中は一人だ。
枕から顔を上げたが、面倒になって再び顔をうずめて目を閉じた。
もう一度、チャイムの音が鳴る。
女は仕方ないとばかりに起き上がり、ジャージの下を履いた。
階段を降り玄関を開けると、よれよれのダークブラウンのスーツを着た中年の男と、紺のパンツスーツで髪を後ろでまとめた女性が立っていた。
「愛知県警安田署の古川と神崎です。長谷部美由貴さんですね」
警察章を見た長谷部美由貴は、玄関の土間に力なくしゃがみ込んでしまったのだった。




