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兄と妹と密室 1

「うわぁぁ!」


 刑事課の扉を勢いよく開けて飛び出した神崎奈美は、突然の黒い壁にぶつかり、尻餅をついた。

 腰に激痛が走る。

 この日のために新調した紺のパンツスーツが、軽く悲鳴を上げるようにきしんだ。


「……げ?」


 黒い壁と思われた物は、警察官の制服を着ていた。

 恰幅のよい体型に、優しい笑顔。写真で見た通りの穏やかさだ。

 この安田署の富永署長である。


「大丈夫かね?」


 六十歳を目前にしやっとこの地方都市の署長にまでたどり着いた苦労人だと聞いていた。穏やかで優しいその性格から、ついたあだ名は『仏の富永』。

 そのあだ名のとおり、いきなりぶつかってきた無礼な署員である奈美に、笑顔で手を差し伸べてくる。

 その手にすがろうとした奈美だったが、すんでのところで思いとどまる。

 いくらなんでも自分の不注意でぶつかっておいて、若い自分が年配の男性に助けてもらうわけにはいかない。

 しかも相手は署長だ。


「失礼しました。富永署長」


 奈美は慌てて立ち上がり、敬礼の姿勢をとった。伸ばした腰がじんじんと響く。


「明日、五月一日付けで、守山署生活安全課より安田署刑事課に配属されます神崎奈美です。階級は巡査であります。市民の安全と正義のために早く一人前の刑事になりたいので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」


 昨日から練習していたこの台詞は刑事課の課長の前でするはずだったが、「そういうのいいから」と途中で遮られしまったので消化不良をおこしていた。


「そうか、よろしく頼む神崎巡査。だが、警察官はいかなる時も冷静な行動が求められる。慌てて飛び出したりしないようにお願いしますよ」


 奈美は顔が熱くなるのを感じた。初出勤の前に、署長とぶつかって注意されるとは……。


「すみませんでした。以後、気を付けます」


 笑顔を深めて頷いた富永署長は、「明日から頼むね」と言い置き、去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、優しいだけでなく一署員である自分に対しても気さくに接するいい人だと感じていた。


「いけない。事件現場に行くんだった」



 

 安田市は愛知県西三河地方の都市で、あまり大きな街ではない。

 今まで勤務していた名古屋市に比べれば人口も少なく、よって刑事課が活躍するような大きな事件も少ないとのことだが、奈美はずっと希望していた担当部署である刑事課に入れることに希望を燃やしていた。

 今日は新しい職場への挨拶だけのつもりだったが、朝から事件で出払っているという。

 桜町のマンションで、腹部を包丁で刺されている遺体の通報。

 県警本部からも捜査員が派遣され、ここ安田署では珍しく大忙しなのだ。

 課長に許可をとり、捜査に参加するべく現場へと急いでいた。


 廊下を走って行きたいところだが、署長に注意されたばかり、ぐっと堪えて早歩きで急ぐ。

 念願の刑事課への配属だ。さっそく殺人事件とはラッキー……もとい、たいへんだ。

 この署で手柄をたてて、ゆくゆくは県警本部の捜査課を目指す。


 奈美にとって、県警の捜査課は特別な部署だった。

 死んだ夫が勤めていたからだ。

 高校生の時の事件で知り合い、警察官を目指すきっかけになった人。

 娘を授けてくれた人。


「奈美、ひさしぶり」


 署の玄関を出たところで、鹿島玲子に声を掛けられた。

 玲子は高校時代のクラスメートだ。

 高校二年のときに九州へ転校していった。

 再会したのは愛知県の警察学校で、以来友人として連絡を取り合っている仲だった。今はこの安田署交通課に勤務している。


「今から桜町の現場にいくの? ミニパト乗ってく?」

「いいの? 助かる」


 急いで出たものの交通手段を考えていなかった。

 車は乗ってこなかったし、道でタクシーを拾えるほどの都会ではない。

 自腹のタクシー代もできれば節約したいところだ。

 相手の返事も待たず、ミニパトの助手席に乗り込む。

 遅れて玲子が後部座席に、新人っぽい女子警官が運転席に乗り込む。可愛らしく真面目そうな女子だ。


「先輩、いいんですか? 駐車違反の現場、桜町とは方向違いますよ」

「いいのいいの、こういうときは助け合わなくちゃ」


 しまったと奈美は気付いた。

 ずうずうしくも助手席に座ってしまった。

 それに玲子たちも警察官としての大事な勤務の最中なのに。


「ごめんね。この埋め合わせは今度するから……えっと?」

「佐伯です。佐伯桂里奈」

「桂里奈ちゃん、安全運転で急いでお願い」


 佐伯は不服そうに口を尖らせていたが、それでもミニパトを急発進してくれた。

 急ごうとしてくれているようだ。奈美は一瞬びくりとし、改めて佐伯の顔を見ると少し笑っているように見える。

 この子、運転すると人格が変わるタイプなのか?


「奈美、今日非番じゃなかった? 確か明日からの勤務よね」


 後ろから玲子が声を掛けてくる。佐伯の荒い運転は、気にならないようだ。


「え? ああ、そうなんだけど、挨拶だけのつもりが殺人事件だって言うからさあ。玲子、同じ職場だね。改めてよろしくね」


 奈美はおどけて見せたが、玲子はあきれたというような表情を浮かべている。


「なんで刑事課なんて大変なところ希望するかね……そういえば、あかねちゃんどうするの? まだ、五歳よね。実家に預けることにしたの?」

「嫌よ、離れ離れなんて。弟に来てもらうことにした」

「ああ、あの残念なイケメン君? 社会性がなくて会社を首になり、再就職先も探さないでプータローをしている……一つ年下だから二十五歳のオタク君にあけねちゃんの面倒みてもらうの?」

「ひどい言われようね。ちょっと人見知りなだけよ。家族とは普通にしゃべるし、優しい男だよ、健一……あっ、健一にメールしとかなきゃ」


 カバンからスマホを取り出そうとすると、こちらをちらちらと伺うような素振りを見せる佐伯に気づいた。


「なに? 桂里奈ちゃん?」

「奈美先輩の弟さんてイケメンなんですか?」




 ゴールデンウイークの浮かれた駅の人混みを抜けると、住宅街へと続く桜並木の坂道に出た。

 岡本健一は肩に担ぐボストンバックの位置を直し、ため息をつく。

 とりあえず必要なものだけを詰め込んだだけなのに、やけに重く感じる。これで桜の花でも咲いていれば気も紛れたかもしれないが、黒い枝に緑の若葉が申し訳なさそうについているだけだった。


「運動不足だな……」


 二十代の若者らしからぬ弱音を吐き、デニムパンツの後ろポケットからスマホを取り出すと、奈美からのメールを確認する。


『事件起きた。後は頼む』


 何度読み返しても、ただそれだけ。

 仕事モードに入った姉からは、メールの返事が返ってこないのを知っているから、聞き返したりしない。

 バッグの中からペットボトルを取り出し、飲みかけの緑茶を一口飲む。

 食道から胃に流れる、心地の良い冷たさだけが、夏になりきっていない季節を教えてくれた。


 奈美とは姉弟として過ごした時間があるから、一緒に暮らすことに抵抗はない。

 考えてみれば、血の繋がっていない姉だから、意識しないこともないのだが、奈美からはそういう素振りは全くなく、本当の姉のように接してくれるし、そうだからこその同居の提案だ。

 子育てを手伝って欲しいと言いながら、姉として社会不適合者の弟を心配してくれているのだろう。

 ありがたいことだ。

 額の汗をハンカチで拭い、また歩き出す。


 初めて奈美に会ったのは、小学一年生の時だった。

 突然、今の母に連れられて家に来た、一つ上の女の子。

 会った瞬間に、腕を引っ張られて外に連れ出され、怖くて泣いたという最悪な出会い。

 それでも、突然できた「お姉ちゃん」は、健一にとって頼もしい存在になっていった。

 気付けば、緊張せずに話せる数少ない女性となっていた。


「あ……そういえば、子供はどうしたんだ?」


 亡くなった旦那との間に出来た子供の顔を思い出していた。

 五歳の女の子で、名前は「あかね」だったか。まさか、一人で留守番とかさせてないだろうか。

 いや、鍵をもらってないから、留守番していてもらわなければ、家にも入れない。


「とにかく、急ぐか……」


 気持ちとは裏腹に、健一の足取りは重いものであった。

 

 

 重い足取りながらも歩き続ければ、目的地にたどり着く。あかねが生まれてすぐの頃、一度来ただけのマンションだ。

 エントランスを抜け、エレベーターを降り、305号室を確認してチャイムを押す。

 しばらく待っても扉が開かない。

 もう一度押す……やはり反応がない。

 中にいるはずの住人は五歳の子供ひとりだ。

 チャイムがなっても無視するように教育されているのかもしれない。


「参ったなあ……」


 奈美に電話をしようか迷っていると、ドアが静かに開いて小さな女の子が顔を覗かせた。

 一年ぶりで少し成長していたあかねが、怪しい人を見るような目を向けている。

 健一はその場にしゃがんで、あかねと視線を合わせた。

 子供と話をするときは目線を合わせるようにしゃがむのがいいと何かで聞いたことがある。確か、仲良くなれる方法だったはずだ。


「こ、こんにちは、あ、あかねさん……ママの弟の健一です。お、覚えているかな?」


 五歳の子供と話すのに緊張している。

 健一のコミュ障は、会社を辞めてから更に酷くなっているようだ。


「知らない」


 あかねは警戒の表情を解くことなく呟いた。


「……え?」


 思いがけない返答に、健一は戸惑った。


「去年会っているよ。君のパパの……」


 葬式の時という言葉を出そうとして飲み込んだ。

 守さんが亡くなって、まだ一年くらいだ。


「知らないおじさんとお話ししてはいけません」


 そう言ってあかねは扉を閉めた。

 ガチャという鍵を閉める音が響く。


「……」


 健一はしゃがんだ姿勢のまましばらく動けずにいた。

 今日は祝日のいい天気。

 名も知らない鳥のさえずり、遠くで遊ぶ子供たちの笑い声……。


「仕方がない、奈美が帰ってくるまで待つか」


 人間関係構築を断念する早さは、コミュ障ならではなのだ。無理をしない。



 健一は廊下の床に腰を下ろし、バッグの中からノートパソコンを取り出し、キーを叩く。


「えっと……安田市の今日の事件……これかな? なるほど、殺人事件か……」


 ニュース速報を確認し、胸のポケットからサングラスを取り出し、かける。


「メイ!」


 健一の声に反応するように、サングラス越しの何もない空間に、セーラー服姿の若い女性が浮かび上がる。

 

「こんにちは健一さん」


 メイと呼ばれた若い女性は空中に浮かんでいる状態で、無表情だった。だが、健一の次の言葉を待つように、見つめている。


「今日はこの事件を推理する。奈美が帰ってくるまで暇だから」

「了解しました」


 メイは無表情に言った。


「じゃ、始めよう」


 健一は膝の上においたパソコンのキーボードを素早く叩き始めた。


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