オレンジ
0.記憶の残滓
夕暮れ時。橙に染まる世界の中に、二人の人間が立っていた。
一人は齢三十前後に見える女性。もう一人は、年端も行かないような少女。
その情景が、私の頭に残る最古の記憶だった。
記憶の中で、女性は少女に語りかける。
『愛、あなたには才能があるわ』
『才能?』
『ええ。運動も勉強も、人並み以上にこなせる才能。あなたはきっと何にでもなれるわ』
『そうなの? じゃああたし、————みたいなかっこいい————になりたい!』
『ふふ。あなたならきっと、————よりもステキな————になれるわ』
そこで会話は終了し、記憶は終着点へと辿り着く。
ただ、虫喰いのように穴が空いたその部分に、どんな単語が入っていたのかは、今でも思い出せない。
そもそも私は、ほとんど何も思い出すことは叶わないのだ。
===
1.喪失と出会い
「おはよー」
「あ、おはようございます、玲さん」
「——また、聴いてたの?」
「はい。まだ思い出せませんが、それでも、どこか懐かしい気がするので」
CDの再生を停止して、朝食のために玲の座るダイニングテーブルへと向かう。
食卓には私と玲さんの二人しかいないが、地面を打ち鳴らす五月雨の演奏のおかげか、寂しさはあまり感じない。
ただ、もの寂しさとはまた違った、えもいわれぬ寂寥感だけは、常に私の心に巣食っていた。
「別に、無理に思い出そうとする必要は無いんだからね?」
「…………はい」
私は、記憶喪失だった。
病院で目を覚ました私は、私を覚えていなかったのだ。
『何があったのか、わかりますか?』
白衣のおじいさんに聞かれても、病室で横たわる私は首を振ることしかできない。
自分がなぜそんな場所にいるのかが、さっぱりわからなかったから。
『じゃあ、これが何かはわかりますか?』
『……りんご』
『日本の首都は?』
『東京』
それから様々なことを聞かれて、一般常識は喪われていないことはわかった。けれども、私自身にまつわることは、結局一つだけ——名前だけしか、答えることは叶わなかったのである。
『自分の名前は、わかりますか?』
『……アイ。結城、愛』
それから私は、病室を訪ねてきた、私の叔母であるという結城玲に引きられた。
『ここが今日から愛の住む家だよ』
『…………はい』
右半身に大きな火傷を負いながらも、無事退院することができた私は、それ以来玲さんの家で二人で暮らしている。
どうやら、私が元いた家は火事で全焼してしまったらしい。私以外の、家族全員を巻き込んで。——ただ、その話を聞かされても、不思議と哀しくはなかった。哀しみを抱けるだけの情を、想い出を、私は既に喪っていたから。
『これ、聴いてみて』
『………………なんだか、すごく懐かしい気がします』
ただ、玲さんが取り出した、一枚のCDから流れるピアノの旋律だけは、私の涙腺を震わせてくれたのだった。
「はい、トースト。……と、ジャムね」
「ありがとうございます」
「……愛は、さ。腕の火傷が治ったら、またピアノを弾く気はある?」
「そう、ですね。あのCDみたいに上手く弾くことは無理でも、挑戦はしてみたいです」
「そっか。じゃあ、早く治して、リハビリも頑張らないとね」
「はい!」
===
2.練習と懊悩
結城愛は、有名人だったらしい。
実感は全く無いが、音楽関係者の中では天才中学生だとか、神童とまで言われて持て囃されていたそうだ。
しかし火傷した右腕は私の想像以上に不機嫌なようで、リハビリをほとんど終えた今でも、思った通りに動かすことは叶わなかった。
「あっ」
「んー、やっぱり右手は動かしづらい?」
「そう、ですね……思った通りの位置にいない感じです」
「逆に左手は凄く上手くなってるんだけどねえ。こればっかりは練習しかないかなぁ」
白鍵を叩こうと思えば、その横の鍵盤まで巻き込んでしまい、黒鍵を叩こうと思えば、今度は指がかすりもしない。そして、仮にミスをしなくとも、録音したものを聴き返せば音が硬く、『結城愛』の奏でる旋律とは程遠いものであった。
「そうだなあ……ショパンの練習曲の黒鍵とか弾いてみよっか?」
「はい。頑張ります」
玲さんに提案された曲は、ショパンによる、ピアノのための練習曲第五番、変ト長調【黒鍵】。
黒鍵はその名の通り、右手で奏でる主旋律のほとんどが黒鍵だけで構成されている練習曲であり、黒鍵を叩き損ねるミスの矯正には高い適性があった。
だが——
「あっ……」
右手のフレーズを数小節進めたところで、黒鍵と黒鍵の間へとすり抜けた指が不協和音を響かせる。
脳から記憶が喪われても、身体の記憶は残っているなんて話もされたけれど、どうやら私は、右腕の記憶だけはどこかに落としてきてしまったらしい。
「んー、やっぱりまだ、右手は動かしにくそうだね。——今日はこの辺にしといて、また明日がんばろう?」
「……はい」
「まあまあ、ショパンの練習曲なんてコンクールでも高難度扱いのものだしさ。気にしなくていいって」
「…………はい」
「それじゃあ、がんばったご褒美に、愛にはプリンを進呈しようじゃないか」
「……ありがとう、ございます」
玲さんの言葉から、見限られたような印象を受け取った私の心は、大好きだったはずのプリンを食べても、軽くはならなかった。
===
4.提案と追従
「コンクール、ですか?」
「うん、コンクール。出てみる気は、ある?」
ピアノの練習を始めて一月が経ち、事故以来休学していた中学も正式に夏休みに入った七月の下旬。夕食の席で玲さんが、唐突にそんな話を切り出した。
「でも私、まだ全然上手く弾けませんし……」
「いやいや、もうほとんどミスもしなくなったし、コンクールでもいいところまで行けるんじゃないかなって私は思うよ」
玲さんの言う通り、私の力量はこの一月で格段に上がってはいた。それこそ、ショパンの練習曲クラスならミス無く弾き切ることもできる程度には。
だがそれでも、あの音は——『昔の私』の音は遥か彼方にあって、今の私の薄っぺらい旋律に、私自身納得できてはいなかった。
「まあ、無理強いはしないけどね。やるかやらないかは、愛が決めることだよ」
「玲さんは——」
「ん?」
「玲さんは、コンクールに出た方がいいと思いますか?」
「私? んー、そうだなぁ。私はやっぱり、出て欲しいかな。ずっと家に引きこもってピアノ弾いてても、自分の立ち位置って見えてこないものだからさ。同年代の子の演奏を聴いて、自分の演奏がどの程度のレベルなのかを知ったり、他の子の良いところを学んだりするのは、大切なことだと思うよ」
「そう、ですか。そうですよね。じゃあ、出てみたいです、かね?」
そうして私は、夏のピアノコンクール、中学生の部に出場することになった。
地区予選と地区本戦、そして全国決勝大会の三段階で構成されているこのコンクールは、全国的に見ても多くの学生が参加するものであり、実のところ私が火事に巻き込まれるよりも前に、既に参加登録を済ませていたものであったらしい。
「それじゃあ、当面の目標は地区予選突破ってことで、今日も練習がんばろー!」
「がんばりますっ」
そして私は、今日も薄っぺらい旋律を響かせる。
===
4.コンクールと後輩
コンクール地区予選当日。うだるような暑さの中で、騒がしい蝉の混成三部合唱を聞くという拷問を受けながらも、私は無事に会場に辿り着いた。
朝の時点でこの暑さなら、地区予選中学生の部が終わる正午過ぎには一体どうなっているのだろうとは、正直考えたくもない。
「本当に、あとは一人で大丈夫? 一応控室までは入る許可貰ってるけど」
「大丈夫です、玲さん。初めて来たような感覚ですけど、不思議と何をすればいいのかはわかるので」
「じゃあ、がんばってね。応援してる」
「ありがとうございます」
行ってきます、と控室へと続く通路の前で玲さんに別れを告げ、そのままの足で控室へと入り込む。
控室の中では、既に他の参加者らしき中学生がひしめいており、私は少しばかりの居心地の悪さを感じながら壁際の小さな空間に身を寄せた。
「あれ、愛先輩……ですか?」
「——? 私、ですか?」
気付けば、目を丸くしてこちらの顔を伺う少女が立っていた。
「いや、先輩は先輩しかいないじゃないですか——って、あぁ、そっか。ごめんなさい。あたしのこと、覚えてないですよね」
「はい。ごめんなさい……」
「いえいえ、先輩が謝ることじゃないですよ。——それじゃあ、改めて自己紹介からですね。あたしは一年の天ヶ瀬静香です。愛先輩達には、いつもお世話になってたんですよ」
そう言って、ぺこりと頭を下げる少女に倣い、私も慌てて礼を返す。
「あ、ご丁寧にどうも。結城愛です」
「知ってます」
「あっ、そうだよね。ごめん」
そうだ。私は天ヶ瀬さんを知らなくても、天ヶ瀬さんは私を知っているのだった。
初対面としか思えない相手が、現実には既に私のことを知っているというチグハグさに、私は脳を指でかき回されるような気持ち悪さを感じた。
「それで、先輩。ここにいるってことは、ピアノ、また弾いてるんですね」
「え? ああ、うん。昔の私が弾いてたって聞いて——弾いてたのを聴いてね。また弾けば、何か思い出せるかなって思って」
「じゃあ、怪我の方はもう大丈夫なんですか?」
「うん、痛みはもうないかな。普通に歩けるし、生活もできるよ。……ただ、ピアノを弾く時とかは、右手がちょっと動かしづらく感じるかな」
「そう、ですか。……あの、愛先輩」
「ん? 何かな?」
「…………いえ、なんでもないです。コンクール、お互いがんばりましょうね!」
「うん。がんばろう」
天ヶ瀬さんと話し込んでいる間に、どうやらコンクールの開始時間は過ぎていたようで、気付けば最初の奏者が舞台へと呼ばれて向かって行くところであった。
「二番目と三番目の人も、袖で待機してもらうので来てください」
スタッフらしき人物の、そんなアナウンスで、私と天ヶ瀬さんの会話は演奏順の話へと移る。
「先輩は何番目なんですか? ちなみに私は五番目なんですけど」
「そういえば、順番確認してなかったや。えっと……あ、三番目だった」
「え、三番目だったら今呼ばれてたんじゃ……?」
「あはは……じゃあ、行ってくるね」
「はい。舞台袖から目一杯応援してますね!」
天ヶ瀬さんの見送りを受けて舞台袖へと向かうと、そこにはもうピアノの旋律が響いていた。
緊張しているのか、節々に硬さが目立つ旋律ではあったが、そのメロディが、みんなも緊張していることを教えてくれているようで、逆に私をリラックスさせてくれた。
「コンクールって言っても、やっぱり、発表会みたいなものだよね」
そんな適当なことを舞台袖で一人呟いて、心を落ち着かせたりもした。
しかし、いざ最初の奏者が演奏を終えて舞台袖に戻って来ると、私の心はたちまち平静さを失ってしまった。
戻ってきた少年が、泣いていたのだ。
心底悔しそうに、自身の非力さを嘆くように、音も立てずに涙を滴らせるその姿を見て、私は気付いてしまった。気付かされてしまった。
自分みたいな、ピアノになんの思い入れもない人間が、なんの思い出も引き出せない人間が、ひどく場違いな存在であると。
「結城さん。結城さん! 次、お願いします」
「あ、はい」
いつのまにか、演奏順は私の番まで回ってきていた。
何はともあれ、ここに立っている以上は弾くしかないのだと気持ちを入れ直し、私はステージへと歩み出す。
ステージの中央で一度止まり、百人はくだらない観客に一礼。大丈夫だ。記憶は無いけれど、知識はある。
玲さんは——残念ながら、見つからなかった。
そのままピアノの席に着席し、少しだけ腰の位置を調節する。ペダルをしっかりと踏み込める程度の位置で止まり、準備完了。緊張は、やはりそれほど感じられない。
私は大きく息を吸い込み、鍵盤に指を沈めた。
バッハの平均律クラヴィーア曲集より、第五番嬰ハ短調【五声の遁走曲】
課題曲と自選曲、それぞれ一曲ずつの演奏を求められる今回の地区予選における、課題曲に相当する楽曲である。
平均律クラヴィーア曲集より一曲という指定の中から、私が選んだこの曲は、三重フーガと呼ばれる傑作。
人気が故に、他の奏者も弾くことが予想されたが、左手が得意な私は有利なはずだと玲さんにもお墨付きを貰っている。
右手の高音部で提示した主題を、左手の低音部でなぞる形が基本となるフーガにおいて、左手が得意であることは大きな利点だった。
あとは、全体を通して単調に聴こえないように、拍頭を気持ち強めに叩き、声部が重なるところは呼応する和音を意識。声が減る場所でもぶつ切りにせず指はゆったりと離して余韻を絡めるようにして、逆に終止形では音を明瞭にするために敢えて響きを減らす。
そうして私は、フーガらしい、立体的で重厚な音の『演出』をして、一曲目を終わらせた。
だがそこで、ふと考えてしまう。
ああ、昔の私の音は、こうじゃなかった。こんな、論理と計算で成り立った、機械仕掛けの音じゃあなかった、と。
無駄な考えが浮かぶのは集中できていない証だと思考を振り払い、私は続けて二曲目へと挑む。
ショパンによる、ピアノのための練習曲第七番、ハ長調【トッカータ】。
ショパンのエチュード程度の難易度を一曲という指定の自選曲に対して、私はわかりやすくショパンのエチュードを選曲した。
中でもトッカータを選んだ理由は、単純に速さを求めたからである。
速いテンポの曲は、細かなミスをしても許されると思われがちだが、実際にはそんなことはなく、ミスはやはりミスとして聴こえてしまう。だが、表現の観点から見れば、速いということにより、一律な叩き方をしても単調な旋律に聴こえにくいと考えることもできる。
故に私はとにかくミスをしないように、飛び跳ねる左手にはあまり意識を割かず、右手での六連符の連打に意識を集中させてトッカータを弾き切った。
少しの静寂の後、観客席から手を打ち鳴らす音が疎らに響き始める。首を捻って確認すると、玲さんの姿も見えた。
私は席を立ち、再度一礼してから舞台袖へと戻る。
「お疲れ様でした、結城先輩」
「あ、ありがとう、天ヶ瀬さん」
舞台袖には既に天ヶ瀬さんが待機していて、演奏を終えた私を労ってくれた。
「演奏、とてもお上手でした。目立ったミスもありませんでしたし、予選通過間違い無しですね!」
「そう、なのかな? 自分では、あまり納得できてないんだけど」
「コンクールは正確さが大きな採点基準になりますから。お手本みたいな先輩の演奏なら、余裕ですよ」
「ありがとう。…………でも、やっぱりちょっと、前に聞いた昔の私の音より薄っぺらな気がしてならなくてさ」
天ヶ瀬さんからの賞賛を素直に受け取れない私は、たぶん嫌な人間なのだろうとは思う。思うけれど、納得できないことは事実であって、偽れない。
そこで、天ヶ瀬さんは少し悩むそぶりを見せ、私に一つの提案をした。
「——先輩、あたしの演奏、ここで聴いてもらえませんか? 愛先輩のピアノに憧れて、愛先輩の真似から始まったあたしのピアノを、聴いてもらえませんか?」
「……うん、わかった。元々、天ヶ瀬さんの演奏は聴きたいと思ってたしね。他の人の演奏を聴くのはいいことだって、玲さんも言ってたし」
「ありがとうございます。あたし、がんばりますね」
「うん、がんばって」
話がまとまると、丁度四番目の奏者の女子が舞台から戻ってきたところだった。
「天ヶ瀬さん。次、お願いします」
「はい!」
元気良く返事をした天ヶ瀬さんが舞台へと向かい、一礼し、席に着き、腰を落ち着け、鍵盤に指を置き、そして、音が、響いた。
曲は、バッハの平均律クラヴィーア曲集より、前奏曲第十五番ト長調。
元々明るい曲調が特徴的な曲ではあるが、しかし、天ヶ瀬さんが奏でるそれは、明るいなんてそんな次元の言葉で片付けていいものではなかった。
本当に私が使ったものと同じピアノから出ている音なのかが疑わしいほどに、その旋律は眩しかった。
楽譜には書かれていない細やかな溜めや、本来ならばミスとしか思えないようなテンポの変化が、何故か相乗的に音を際立たせていて、曲を曲として成立させている。曲を、天ヶ瀬静香の曲として、昇華させている。
これはおかしいと叫ぶ理性を、強引に黙らせるような、そんな本能を揺さぶる旋律が、繰り返し聴いた昔の私の旋律に重なって、気付けば私の目は、涙を零していた。
そんな眩しすぎる演奏に呑み込まれている内に、気付けば天ヶ瀬さんの演奏は終わってしまっており、舞台袖まで戻って来るところであった。
「お疲れ様、天ヶ瀬さん」
「ありがとうございます。それで、どうでしたか? あたしの演奏」
「すごかったよ。昔の私よりも、すごいかもしれないくらい」
「あ、ありがとうございます。いえ、あたしなんて、全然まだまだなんですけど……いや、そうじゃなくてですね。先輩は、どう感じましたか? あたしの演奏」
そう聞かれ、もう一度すごかったと褒めようとしたところで、天ヶ瀬さんが求めている言葉はそういうものではないと気付き、言葉を変える。
「そう、だなぁ。私には、ちょっと理解できないかなぁ、って。譜面からは外れてるのに、どうしてこんなに綺麗なんだろうって考えても、全然わからないの」
「やっぱり、そう、ですよね」
「あ、いやいや、天ヶ瀬さんを否定したわけじゃないからね! そういうつもりじゃあ、全然ないから!」
「大丈夫です。そんなつもりで言ってないことくらい、わかってますから」
少しだけ残念そうな顔をした天ヶ瀬さんに、慌てて弁解するも、どうやら機嫌を悪くしたわけではなさそうだ。
しかし、何故そんな顔をしているのかはわからないまま、そのまま数秒の静寂が訪れる。
段々と気まずくなり、何か話そうと口を開いたところで、しかし先に声を発したのは天ヶ瀬さんの方だった。
「——先輩は、優先輩のことも、忘れちゃってるんですよね?」
「優、さん? ……ごめん、わからないや」
「そうですよね。すみません、忘れてください。——いつまでもここにいても仕方ないですし、そろそろ戻りましょうか?」
「あ、うん。そうだね」
優さんという新たな人物の話を聞くことができないまま、結局その場はそれで解散となった。
===
5.失望と残響
コンクール地区予選は、当日の午後に予選通過者の張り出しが行われるため、私は玲さんと適当に時間を潰してから、再度会場へと戻った。
結果は、ありがたいことに予選通過。天ヶ瀬さんもやはり通過していた。
だが、嬉しいことばかりが起きるほどに現実は優しくないようで、会場を後にしようとしたところで、ふと見知らぬ大人二人の会話が耳に届いた。
「昔の音は見る影も無かったな。事故で怪我をしたとは聞いたけど、神童って呼ばれたのも過去の栄光か」
「そうだなあ。結城愛に、コンクール向けの正確なだけの音なんて、求めてなかったんだがなぁ」
「ああ。昔の結城愛は良かったんだが……」
それは、私の演奏を残念がる声。
距離が開いていたため、聞こえていないだろうと思われたのかもしれないが、残念ながら私の耳はしっかりと会話を盗み出していた。
「そんなこと、言われなくてもわかってるのに……」
自分の音に、魅力が無くなっていることくらい、わかっているのだ。
誰かに何かを届ける『芸術表現』として見たときに、譜面をなぞるだけの陳腐な演奏が、果たしてどれほどの価値を持つと言うのだろうか。
「気にしなくていいよ。あいつらはわかってない。何も知らないのに、ただ偉そうなことだけ言って、批評できる自分って幻想に酔ってるだけだから」
「玲さんも、聞こえてたんですか」
「私も、耳は良い方だからね。ああ、イライラするなぁ。一発殴って来てもいいかな?」
「ダメですよ。私は大丈夫なんで、もう行きましょう」
本当は全然大丈夫なんかではなかったが、私のために怒ってくれる玲さんが犯罪に手を染めてはいけないので、私達は会場を後にした。
「あれ、なんか人が集まってるね」
「そうですね。あれは……大道芸ですか?」
会場を出てすぐの広場にできた人集りに近づいてみると、その中心には細長い棒のようなものを五本使ってジャグリングをする男性がいた。
「すごいですね。初めて見まし……初めてなんですかね?」
「ごめん、私にはわからないかな。でも、珍しいとは思うよ。私もこんな場所で見かけるのは初めてだし」
「でも、あれですね」
「ん?」
「もし昔に見たことがあっても、また初めて見るような気持ちで見れるのは、少しお得な感じがしますね」
「ポジティブだねぇ」
これからの予定も特には無かったため、私と玲さんはなし崩し的に大道芸に見入っていた。
そして、ジャグリングの品がどんどん変化して行く先に、それはあった。
スティックのジャグリングをしている最中に、ロウソクに火を付けた男は、ジャグリングをしながらスティックを火に近づけて——
「あ、あ、あああああ……だめ、やめて、だめ、燃やさないでっ!」
「愛っ!?」
そうして、スティックの先端に火が灯る。続けて二本、三本と細い火柱が次々と立ち昇り、最後には大きな揺らめく炎となって、私の網膜を焼き尽くし——
「嫌ぁああぁああ!」
「愛! 愛っ! 大丈夫! 大丈夫だからっ!」
私の身体を抱き締める玲さんの声が、段々と薄れて行き、私は気を失った。
===
???
『起きて! お姉ちゃん! 起きてっ!』
『ん、うんぅ……どうしたの、愛?』
『燃えてるっ! 家が燃えてるのっ! 逃げないと!』
二人の少女が起き上がると、既に壁が一面、炎に覆われていた。
『愛、なるべく屈んで、煙は吸わないようにして』
『わかってる! 早く逃げよう、お姉ちゃん!』
二人の少女は手を繋いで、部屋から逃げ出した。
しかし、私の視界は二人の行方を追ってはくれなかった。追いかけようにも、私に脚は付いていない。
そうしてそのまま、動くことを禁じられた私の視界は炎に包まれて行き——
===
6.姉と無情
「嫌ぁっ! ——え?」
気付けば私の身体は、ベッドの中にいた。
視界に入るのは、玲さんの家のものではない——それでいて、見覚えのある白い天井。
「愛っ!? 大丈夫?」
「玲、さん? ここは……病院、ですか?」
「うん。愛が広場で急に倒れちゃったからね。——大丈夫?」
「はい、もう落ち着きました。すみません」
玲さんと会話をしながらも、私の脳は夢で見た二人の少女のことを思い返していた。
あれは私と——お姉ちゃん?
私には、お姉ちゃんがいたの?
浮かぶ疑問に、しかし私の脳は答えを持ち合わせていない。
「愛?」
「あ、ごめんなさい。ぼーっとしてて」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です。——あの、玲さん。私に、お姉ちゃんって、いたんですか?」
「……何か、思い出したの?」
「いえ……夢、みたいな感じだったんですけど——私と、もう一人女の子がいて、私はその子をお姉ちゃんって、そう呼んでたんです」
自分の中に無い回答を求め、私は玲さんに聞いてみる。
「——いたよ。愛には、双子のお姉ちゃんがいた」
「……『いた』ってことは、つまり——」
「うん。火事に巻き込まれて、ね」
「そう、でしたか」
哀しそうな顔で語る玲さんとは対照的に、私の心はさしてショックを受けてはいなかった。
『お姉ちゃん』という存在は、私の中には既にいなかったから。遠い国で誰かが亡くなったと聞いた程度の感慨しか得られないから。
自分でも、薄情な人間だとは思うし、哀しむそぶりくらいは見せるべきだとも思うが、私にはどうしても、そうすることはできなかった。情がそもそも失われているのだから、当然かもしれないが。
「ごめんなさい、玲さん。教えてもらっても、やっぱり、全然思い出せなくて……」
「無理に思い出そうとしなくて、いいんだよ。忘れちゃってるってことは、愛の頭が忘れた方がいいと思ってるってことなんだって、お医者さんも言ってたから」
「はい……」
その話は、私も聞いていた。
検査したところ、特に脳に異常があるわけではないため、脳自身が記憶を制限しているだけという状態なのだそうだ。
そして、いつか何かの拍子で思い出すこともあるだろうという話もあった。
ただ、正直私は玲さんに言われるまでもなく、思い出したくないような内容なら思い出さないままでも構わないと考えていた。その方がたぶん、幸福なんだという自覚はあったから。
「さて、それじゃあ私は一回、家に色々取りに戻るよ」
「あ、じゃあ私も……」
「いやいや、愛は大事をとって入院ってことになってるから、大人しく寝てて欲しいかな。うなされてて眠りも浅かったみたいだし、もう一回ちゃんと寝たほうがいいよ」
「……はい、わかりました」
「よしよし、いい子だね。後でプリン持ってきてあげるから」
玲さんの言う通り、倦怠感に包まれた私の身体は眠気を訴えていた。
結局私は、玲さんが部屋を出るのを確認してすぐにまた夢の世界へと旅立った。
===
???
『嘘……』
少女の手を引いて部屋を飛び出た私は、目の前の光景に愕然とする。
視界いっぱいに広がる、揺らめくオレンジ。行く手を遮る、炎、炎、炎。
外へと通じる廊下は、炎の壁で塞がっていた。
『ど、どうするのお姉ちゃん!?』
『ここを通るしか、無い……布を被って、走り抜けよう!』
私は一度部屋に戻ると、すぐに箪笥を開け、シャツを何枚か取り出した。
『けほっ、けほっ——愛! これを被って、走り抜けるよ!』
『うん!』
熱された空気と黒い煙に喉を刺激されながらも、私は愛にシャツの半分を押し付けて、再度廊下の炎壁に対峙する。
『髪が燃えないように、しっかり押さえて、手足が熱くても我慢するんだよ!』
『わかってる!』
そして、私達は走った。無限に続くような六メートルの廊下を、今まで出したことのないような全力で。
『はぁっ、はぁっ、愛、大丈夫!?』
『げほっ、はぁ、うん。服が燃えて、髪がちょっと焦げたけど、平気!』
炎の壁を突き抜けることに成功した私は、後ろに付いて走ってきた少女の無事を確認して安堵する。
『それじゃあ、早く外に——』
『お姉ちゃん、危ないっ!』
『えっ!?』
不意に、背中に衝撃が加わる。
私はなされるがままに前方に倒れ、そして——背後で響く轟音を聞いた。
『愛っ!?』
慌てて振り返ると、そこには燃え盛る瓦礫の山が。上を見ると、壊れた天井。そして少女は、下にいた。
二階部分の崩落に巻き込まれた少女の右手が、かろうじて瓦礫の外側に伸びていたのだ。
『愛っ!』
すぐに瓦礫をどかそうと近寄るも、しかし——
『熱っ!?』
燃えている瓦礫は、素手で触るにはあまりにも熱く、手でどかすという選択はできそうになかった。
それでも、この下には少女が——愛がいる!
『うわあああああ!』
叫びながら、私は燃える瓦礫の山に右半身で体当たりをした。
右腕の皮膚が焼ける感覚を無視して、身体全体で押し出すように力を込める。動かない。右足も添えて、再び押す。それでようやく、山が倒れるように崩れた。
『愛っ!』
『おねえ、ちゃん……』
薄くなった山の下から愛が顔を覗かせる。
頭から血を流してはいたが、返事をしてくれた。大丈夫。きっと助かる。
私は薄くなった山を払うようにどかし、愛が出て来られるだけのスペースを作ろうと動く。
しかし、上半身の瓦礫を一通りどかしたところで、愛の足がひときわ大きな瓦礫の底に嵌っていることに気付く。気付いてしまう。
『お姉ちゃん、もういいから、逃げて』
『逃げない! 私は、愛と一緒じゃないと逃げないからっ!』
愛の右手を強く握り、固く決意する。
その瞬間、背後から太い男性の声が響いた。
『おい、大丈夫か!?』
奇跡が起きたと思った。
振り返った先の玄関口に、銀色のスーパーマンがいたのだ。
『愛をっ! 愛を助けてください!』
『わかった! 君は一人で逃げられるか?』
『はい。——あっ』
立ち上がろうとしたところで、先程焼かれた右腿の肉が悲鳴をあげ、脳の命令を拒絶してしまう。
『私は大丈夫なので、愛をっ! 愛を先に助けてください!』
『わかった。少し待っててく——』
『おい! 崩れるぞ! 出ろ!』
愛を助けようと動く消防士の言葉が終わる前に、またもや背後から声がかかる。
崩れる?
何が?
状況の理解が追い付かない私を置いて、消防士は一瞬だけ逡巡する様子を見せて、すぐに動いた。
『え?』
『すまない!』
消防士は、私を抱え上げると、玄関に向かって走り出す。
『待って! 愛は!? 愛がっ!』
喉を煙で焼かれながらも必死に叫ぶ。しかし消防士は止まってくれない。
そして、そのまま玄関にまで辿り着いてしまった私が、抱えられた状態で最後に見た愛は、笑っていた。
『生きて、お姉ちゃん』
瞬間、家は崩落した。
===
7.オレンジ色の虚
病室で上体だけを起こし、窓の外を見る。西向きの窓からは、丁度沈んで行く夕陽が見えた。
そんな中思い出すのは、橙に染まる世界の記憶。
母親と妹の会話を、背後から覗き見る『私』の記憶。
『愛、あなたには才能があるわ』
『才能?』
『ええ。運動も勉強も、人並み以上にこなせる才能。あなたはきっと何にでもなれるわ』
『そうなの? じゃああたし、お姉ちゃんみたいなかっこいいピアニストになりたい!』
『ふふ。あなたならきっと、優よりもステキなピアニストになれるわ』
そこにはもう、虫食い跡なんてどこにもなくて、私は全て思い出していた。
崩壊する家に、最後まで残っていたのが愛で、生きているのは私。
それならば、私は一体誰なのか?
私以外のみんななら、すぐにわかるような簡単な問題の答えが、ようやくわかった。
「私は、優。結城優。愛よりも先にピアノを始めて、後から始めた愛にすぐに追い越されちゃって、みじめになって、不貞腐れて、全部投げ出そうとした、かっこ悪い愛の双子のお姉ちゃん」
それが、愛の名を騙って、今までのことを全部忘れて、のうのうと生きていたのだ。
そう。橙の炎に造られた、代替の虚。それが私。
「私、最低だ……」
たぶん、玲さんと天ヶ瀬さん——しーちゃんは気付いていたんだろう。私が偽者であることに。
そしてそう考えた時に、きっと赦してもらえないのだろうと自己保身を案じる自分が、心底嫌になる。
結局心のどこかでは、自分が一番大切だと思っていて、だからこそ、愛を見捨てる選択を私は全力で拒絶することができなかったのだろう。結城優は、そういう人間だ。
「ごめん……ごめんね、愛」
今だって、謝って、涙を流して、自己満足に浸っているだけでしかない。この罪悪感は、私が私の心を護るために創り出した殻にしかなり得ない。
だから、そう、結局、答えは一つだ。
「ああ、私が死ねば良かったんだ。死んだのが私で、生きているのが本物の愛なら——」
「それは、聞き捨てならないね」
「え?」
気付けば、病室の扉を開ける玲さんが立っていた。
「——全部、思い出した?」
「はい。まだ曖昧なところもありますけど、私が愛じゃないことは、はっきりと」
「そっか。……それじゃあ、話を戻すけど、優が死んだ方が良かったなんてことは、ありえない。少なくとも私は優が生きていてくれて、本気で嬉しかった」
「でも、玲さんも、生き残ったのが愛だったら、もっと良かったと思うでしょう?」
最低な私から飛び出す最低な質問に、それでも玲さんは暖かく笑って応える。
「関係無いよ。あなたが愛でも、優でも、関係無い。私、世界中を飛び回ってたせいか、誰とも結婚しないでさ、ずっと一人だったの。正直、寂しかったんだ。そんな時にね、姉さんの家族と関わりを持つようになってさ、優とも、愛とも、仲良くしてもらってさ、楽しかった。寂しくなくなったんだよ。全部、あなた達のおかげ。——だから、さ。ありがとう、優。私を一人にしないでくれて、ありがとう」
生きていてくれて、ありがとう。
私を抱き締めながら告げたその感謝の言葉は、玲さんが私にくれた、『赦し』だった。
「私が生きてても、いいんですかね」
「私は、優に生きていてほしいよ」
私の涙を受け止める玲さんの胸は、陽だまりのように温かかった。
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8.墓と告白
翌日、念のための簡易検査を受けてすぐに退院した私は、そのままの足で墓地へと向かった。
「ここだよ」
玲さんが立ち止まったのは、一つのお墓——結城家のお墓の前。
そこには、お父さんとお母さんと、そして愛の名前が刻まれていた。
「最初から、わかってたんですね」
「まあ、ね。コンクールの主催には特例措置で許可を貰ってたの」
「色々と、ありがとうございました」
「ううん。結局、それが正しかったのかどうかもわからないから」
墓石に水をかけながら言う玲さんに倣い、私も柄杓を使って墓石を洗う。
そして、数珠を絡めた両の手を合わせ目を伏せた。
「お父さん、お母さん、今まで、ありがとうございました。愛も……ありがとう」
合掌を終え、目を開いた私は、なんともなしに、溢れる本心を吐露する。
「——実は私、あまり好きじゃなかったんですよね。愛のこと」
「え?」
「愛は何をやっても私より上で、双子なのにどうしてこんなに違うんだろうって、悔しくて、惨めになって、妬んで、いなくなっちゃえばいいのになって、いつも思ってたんです」
「…………」
「でも今更になって、やっとわかりました。私は、愛の才能に嫉妬してただけで、愛のことは嫌いじゃなかったんです。いなくなって欲しくなんて、無かった。……なのになんで、どうして愛は、もう帰ってこないんですか?」
話したいことは沢山あるのに、謝りたいことは沢山あるのに、聞いてくれる愛だけが足りていない。
だから私は、墓石に懺悔して、また自己満足に浸るのだった。
「ごめんね、愛。優しくしてあげられなくてごめん。素直に褒めてあげられなくてごめん。お姉ちゃんらしいこと、全然してあげられなくて、ごめん。——ごめんね。大好きだよ、愛」
泣きながら謝る私の耳に、『あたしも、大好きだよ』という愛の声が聞こえたのは、きっと私の願望が産み出した幻想だったのだろう。
===
???
『やっほ、お姉ちゃん。来ちゃった』
気付けば目の前に、愛が立っていた。
『愛? ああ、夢?』
『すごっ! 一瞬でわかっちゃうんだね!』
『まあ、愛がいるし、愛しかいないし、ね』
辺りを見渡しても、何も無い空間が広がっているだけ。白とも黒とも判別がつかない、よくわからない虚無だけがあった。
『それにしても、夢にまで見るなんて、自分でも思ってなかったわ』
『ううん。これはお姉ちゃんがあたしに会いたいって思ったからできた夢じゃないよ。それだともっとふわふわになるもん』
『どういうこと?』
『あたしが! お姉ちゃんに会いたくて来たのです! えっへん!』
『……ごめん。よくわからない』
『丁度、お盆の季節だったからねー。玲さんの作ったキュウリの馬は速かったよー。別に乗って来たわけじゃないけど』
『はぁ、なるほど』
お盆だから、夢に出て来てくれたらしい。理屈はよくわからないけれど。
『お姉ちゃん、めんどくさくなった時にすぐ【なるほど】って言って会話を終わらせようとするの、悪い癖だと思うな』
『愛は、本当にあったことなのか判別しづらい冗談を会話に挟むのが、悪い癖だと思うわ』
『あやや、マジっすか。自分では結構面白いと思ってたんだけどな』
『……こんな会話をするのも、初めてかもしれないわね』
『お姉ちゃんは口下手さんだからねー』
『ううん。私が、愛を避けてただけ。——ごめんね、愛。私、お姉ちゃんらしいこと、何もしてあげられなかった』
『あはは、お姉ちゃんは、お姉ちゃんが思っているよりも、ずっとお姉ちゃんしてたよ? 勉強はいつも教えてもらってたし、ピアノ弾き終わった後とかは差し入れの飲み物くれたし……あ、あと毎回おやつを一口くれたし!』
『段々とレベルが下がっている気がするけれど……そう。私、ちゃんとお姉ちゃんできてたんだ』
私としてはお姉ちゃん失格と言われても仕方がないような振る舞いをしていたつもりだったけれど、愛からすれば、合格点とまでは行かずとも、及第点は出せる程度ではあったらしい。
そう言ってもらえると、素直に救われたような気分になる。
『あ、でも虫が苦手で、ゴキブリ見るたびに喚いてたのはむしろ子供っぽかったかなー』
『虫が得意な愛の方がお子様なのよ』
『なんとっ! その言葉聞き捨てならないなっ! 全国の虫愛好家さんに謝りたまえよ!』
『あー、全国の虫愛好家の皆様、うちの愚妹がお騒がせして申し訳ございません』
『いや悪いのあたしかいっ!』
『ふっ、ふふっ』
『あははっ』
適当な漫才をしてお互い笑い合う。
ああ、そういえば、愛はこんな笑い方をするんだったか。
そんなことを考えていると、ふと愛の身体が少しだけ薄くなっていることに気付いた。残り時間のようなものが、少なくなっているのかもしれない。
私は、伝えなければならないことを告げるために、口を開く。
『——ねえ、愛』
『なに? お姉ちゃん』
『大好きよ』
『あたしも、大好きだよ』
薄れ行く愛の身体を抱き締めながら耳元で囁くと、墓地で聞いたような言葉を返された。
だが、いよいよ薄くなる愛を見て、私は寂寥感に苛まれてしまう。
『……でも、いなくなってしまうんでしょう?』
『んー、どうだろうね? お姉ちゃんは、どっちがいい?』
『ばか。いなくなって欲しいわけ、無いじゃないの』
本当はずっと一緒にいてほしいに決まってる、と零した私の右手を愛の両の手が包み込み——
『じゃあ、あたしはここにいるよ。邪魔って言われても、帰ってあげないんだからね?』
『愛……? 愛っ!』
そのまま、愛の身体は虚空に溶けた。
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9.ただいまとおかえり
「やっぱり、最低だな。私」
玲さんの家の自室で目を覚ました私は、すぐに自己嫌悪の時間へと突入する。
「夢の中で、私の聞きたいこと、全部言わせちゃった……」
私のエゴイズムのために、死んでしまった愛を『使った』ことが、どうしても自分で赦せなかった。
「優! 朝ごはんできてるよ!」
「あ、はい……」
玲さんに呼ばれ、自己嫌悪は一旦中断。玲さんに心配をかけたくはないのだ。
しかし、ダイニングに到着したところで、事件は起こった。
「おはようございます、玲さん」
「んっ!? あ、ああ。おはよう、優」
「ん? どうしたんですか?」
「いや、私が聞きたいくらいなんだけど……手を振って挨拶なんて、優らしくないなって思ってさ」
「手を、振って? ——え?」
言われ、自分の手を見ると、右手が玲さんに向かってひらひらと振られていた。
振られていた? 私の手が?
「え? なにこれ? え?」
動きを止めようと、左手で右の手首を掴むと、今度はピースサインを作り始めた。なんだこれ。
「え、わざとやってるんじゃないの? 大丈夫?」
「大丈夫なんですかね、これ。動かしてるつもりはないんですけど、触る感覚は普通にあるんですよね」
「念のため、病院行く?」
「そう、ですねぇ」
いつのまにか左手の拘束をほどき、NOのジェスチャーをとる右手の意思を無視して、玲さんに同調する。
しかしここで、現状を面白がった玲さんが、突拍子も無いことを言い始める。
「なんか右手にも意思がありそうだし、ペンとか渡せば右手と筆談とかできるんじゃないの?」
「玲さんも一緒に病院行きます?」
「私は正常だよ……。いやでもさ、やってみるだけならタダでしょ?」
「まあ、そうですね。右手もなぜかノリノリですし」
気付けば右手も、親指と人差し指で輪っかを作って賛同していた。本当に文字くらい書けそうな勢いだ。
「よーしそれじゃあ、なんか書いてみてよ!」
「あ、本当になんか書き始めましたね……え?」
自然と動いた右手が、ペンを握り文字を書く。それだけでも十分にわけのわからない状況ではあったが、現実は『それだけ』では留まらなかった。
やっほーおねえちゃん
あたしあたし
書かれた文字は、誰かによく似た筆跡で、誰かによく似た口調で、誰かの姉に向けた軽い挨拶。
「これは……」
「嘘……」
信じられないものを見た感想が、なんの衒いも無く口から零れる。
右手が書き連ねる文字は、まだ続く。
あたしって言っても
あたしあたしサギじゃないよ!
あたしはちゃんと
おねえちゃんの妹のあたしだよ!
「だから、結局誰なのよ……」
ツッコミを入れる声が震える。これが誰かなんて、そんなことはもうわかっているのに。
そして、左利きの私では絶対に書けないような綺麗な字で、右手がついに名を明かす。
結城愛です
ただいま おねえちゃん
「……おかえり、愛」
それが、私の右手が愛として振る舞うようになった、始まりだった。
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10.連弾
「しーちゃん!」
「あ、先輩。こんにちは」
コンクール地区本戦の控室で、私はしーちゃん——天ヶ瀬静香を発見する。
「しーちゃんって呼んでくれるってことは、思い出してくれたんですか?」
「うん、全部ね。しーちゃんはわかってたと思うけど、私は愛じゃなくて、優の方だったみたい」
「そう、でしたか。——やっぱり」
「愛じゃなくて、ごめんね」
「いえいえ、全然! 優さんが悪いわけじゃないですし、優さんが謝ることでもないですから! ——ただ、愛先輩の演奏がもう聴けないと思うと、少し寂しくて……え? ど、どうしたんですか? 優さん」
「あ、あはは、撫でようとしただけなんだけど、失敗しちゃった」
伏し目がちにそう言ったしーちゃんの頭を撫でようと手を乗せたら、何故か右手も同じ動きをしていて、両手で頭を掴んでいるような状態になってしまった。こんなところで双子っぽさを発揮しなくてもいいのだが……
「結城さん! スタンバイお願いします!
「あ、はい! じゃあ、先に行くね」
「はい。行ってらっしゃいです」
「うん。行ってきます。私達の演奏、聴いててね」
「へ? わたし、たち?」
しーちゃんの疑問符には答えずに、左手を振って、右手でピースサインを向けて、私はそのまま舞台袖へと向かった。
「じゃあ、結城さんは一番なので、準備ができたらそのまま出てください」
「あ、はい。じゃあ行きます」
今更する準備なんて、心の準備くらいしか無いのだから、さして時間はかからないだろう。
慌てた様子でスカートの裾を掴み、もう少し時間をかけてほしいと騒ぐ右手のアピールは聞き入れない。この子は本番に強いことを、私はちゃんと知っている。
「行くよ、愛」
静かに告げると、右手もおとなしくなった。
そのまま舞台中央まで歩み出て、観客に向かって一礼。前回よりも人は多かったけど、玲さんはすぐに見つかった。心強い。
ピアノに腰掛け、位置を微調整。しっくりくる位置に決まればあとは弾くだけだ。
それじゃあよろしくね、愛。
そんな私の意思を受け取ったのか、右手が勢いよく走り出した。
リストの超絶技巧練習曲第五番、変ロ長調【鬼火】
地区本戦で演奏するのは、自選曲一曲だけ。そんな話を聞いた私は、すぐにこの曲を選曲した。
理由は簡単。小学生の頃、二人で身体を寄せ合って弾いた、思い出の曲だから。
昔は私が下手で、テンポが愛につられたり、手をぶつけてしまったこともあったけれど、今は違う。
右手が打ち鳴らす音を、私は丁寧に受け止めて、私の音を絡めて、より強く響かせる。
愛が少し走りすぎたら、間に入れる音でバランスを取り、制御をかける。愛が溜めを入れようとすれば、敢えて重音を正確に奏して揺らぎを表現する。
そうしていろいろなことを考えながら弾いていると、やはり昔のように、お姉ちゃんはいろいろと考えすぎなんだよ、なんて愛に呆れられてしまいそうだが、問題無い。
正確さにこだわったのも、考えながら演奏するようになったのも、元はと言えば、愛に対抗するためなんかじゃなかった。愛の自由な音を際立たせるためだった。
私は、お姉ちゃんだから。
自慢の妹が、もっと褒められて欲しいから。
その意志が、嫉妬で全部投げ出そうとした私を、ピアノに繋ぎ止めてくれていたんだった。
ねえ、愛。私は今、ちゃんとお姉ちゃんできてるかな?
ピアニストとして、愛と肩を並べられているかな?
愛の答えは、はしゃぐような三十二分のメロディで、私はまた、それを抑えるのに苦労する。まったくもって、自由な妹だ。
そうして最後まで曲を弾ききって、楽しさいっぱい、疲労困憊の演奏は幕を閉じる。
再度の一礼は、今まで聞いたことの無いくらいの拍手の爆発が付いてきた。少し耳が痛いのも、幸せな悩みだろう。
「お疲れ様です、先輩っ!」
舞台袖には、しーちゃんが既に待機しており、挨拶ついでにペットボトルの水を渡してくれた。良い後輩である。舞台袖は飲食禁止だけれど。
「ありがとう、しーちゃん。私の——私達の演奏、どうだったかな?」
いつか、しーちゃんに聞かれたことを、今度は私から聞いてみる。
「あんなの、ずっこいですよ!」
答えは満面の笑みと、少しの涙を添えて返ってきた。
===
fine. 愛と優
「優、またゲームやってるの?」
「愛との意思疎通のための共同作業と言ってくださいよ、玲さん」
「いや、それはいいんだけど、意思疎通できてるの、それ?」
「全然ですね! あ、ちょっと、なんでその形のまま置こうとするの! 回してよ! あーほらもう!」
「相変わらず、双子とは思えないほどの噛み合わなさっぷりだね……」
愛と身体を共有し始めて早数週間。マルチタスクが得意になった私ではあったが、反面、両手を使う作業はさっぱりできなくなっていた。主に自由すぎる右手のせいで。
いろいろなことを練習しようにも、愛が進んで協力してくれるのが電子ゲームの類しかなかったため、最近ではゲーム三昧の日々である。そろそろ夏休みが終わるというのに、宿題には手を付けずにだ。
「まあ、ゲームはほどほどにね。秋には全国のステージで弾くんだから、ちゃんとピアノの練習もやってよ?」
「当然ですよ!」
「あと夏休みの宿題も」
「と、当然ですよ。はい」
「他の子より量減らしてもらってるんだからね。ちゃんとやらないとダメだよ」
「はい……。あ、でも私と愛で二ページずつ同時に進められるんじゃないかな? ちょっとやってきます」
「うーん、いいのかなぁ、それ……」
夏休みの宿題を開き、重りで紙を固定し、愛に右のページを任せて私は左のページの問題を解いていく。
そして一通り解き終えたところで右のページを確認すると、案の定『ボイコット』の五文字だけが解答欄に綴られていた。
「やっぱりかぁ……」
『おねえちゃんの宿題はおねえちゃんがやるべき』
「正論だ……」
『まあまあ、ピアノとゲームは手伝ってあげるからさ』
「……うん。頼りにしてる」
ああ、こんな妹と一生一緒に過ごすと考えると——まあ、退屈だけはしなくて済みそうだ。
「——ねえ愛、おやつにプリン用意するから、ちょっと手伝ってくれない?」
『しかたないなぁ』