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明日を食む

作者: 村崎羯諦

 ふと空を見上げる。怪物が覆いかぶさるようにしてこちらを見下ろしている。舌をちらちらと出し入れしながらこちらを見下ろしている。僕が微笑みかけると、怪物は眠そうな目でしばたき、そのまま目を閉じてしまった。怪物の身体は透明なガラスでできていて、後ろには青空が透けて見える。両手で丸めた綿のような雲が非等間隔に置かれ、東の空にはエメラルドグリーンの太陽が描かれていた。だから今日は木曜日だ。木曜日でなければ、太陽はそのような綺麗なエメラルドグリーンにはならない。東から西へと吹き抜ける風を捕まえてみる。尻尾の方には小麦色のタグがついていた。小麦色は水曜日の色だ。だからこの風は水曜日の風だ。きっと一日分周りの仲間から遅れてしまっているんだろう。僕が少しだけ手の力を緩めると、捕まえた風は僕の手を振り解き、西の空へと飛んでいった。


 ここはどこか。少なくとも怪物が僕の真上にいるのだから、あの怪物のお腹の中ではない。でも、それは本当? 誰かに確認してみないと不安でしょうがないけれど、きっと誰かに君の言う通りだと言ってもらったとしても、僕の不安は滓として残るだろう。ボトルの底に溜まったキウイジュースの粕みたいに。ごめん、それは違う。合ってるかもしれないけど、やっぱり違う。目をつぶって、もう一度考えてみたけれど、今まで自分が違っていたことの方が多かった。だから今回もきっとそうだ。


 ところで、あの怪物はいつまで僕に覆いかぶさっているのか。それとも単に怪物の下に僕がいるだけで、怪物が僕に覆いかぶさるようにしてこちらを見ているというのは僕の勘違いなのかもしれない。試しに僕は前へ10フィートほど忍び足で移動し、後ろを振り返ってみた。怪物は目をつぶったままで、僕が動いたことに気が付いていない。


 ふいに僕はあの怪物のことがかわいそうになった。もし、目覚めた後、真下に僕がいないことに気が付いた彼は一体どんな気持ちになるだろう。僕のことをひどいやつだと思うだろうか。それとも、裏切られたような気がしてひどく傷つくだろうか。それとも別に何も思わないだろうか。怪物にも心はある。彼女はそう言っていた。滅多に喋らない彼女が、繰り返し僕に話してくれた数少ないお話の一つだった。残りのお話は忘れてしまった。確か、甘蔗でできたオルガンの音色がさかりのついた猫の鳴き声に似ているというお話もあった気がする。でもそれが本当かわからない。甘蔗でできたオルガンの音色も、さかりのついた猫の鳴き声も聞いたことがないから。


「もし、あなたが怪物に会ったとしても、あまり彼らをいじめないで欲しいの。彼らはあなたを食べようとするかもしれないし、ひどく痛めつけようとするかもしれないけど、それでも、あなたは彼らにできる限りやさしくして欲しいの。こんなに世界は広いのに、彼らに優しくしてくれる存在が一人もいないのはとても悲しいことだと思わない?」


 僕はもう一度10フィートだけ前へ歩き、もといた場所に戻った。怪物があえて僕の上に覆いかぶさっているかを調べるのは、彼が目覚めた後でもいい気がした。僕は立ちっぱなしが辛いので、その場にしゃがみこむ。怪物が目を開けるのは当分先になりそうな予感がした。急にやることがなくなったし、何か考え事でもして気を紛らわそうか。いつものように明日のことについて考えてみようか。僕は明日のことを考えるのがとても好きだ。昨日のことを考えるよりも生産的だし、今日のことを考えるよりも夢がある。しかし、明日までにこの怪物が目を開けなかったらどうしようか。一二時間なら僕も待っていられるが、それ以上僕は待ち続けることができるだろうか。優しさを証明することは誰にもできないけれど、僕が待ってあげられる時間で僕の優しさを測ることができるかもしれない。


 風がそよぐ。エメラルドグリーン色のタグが僕の頬にあたった。遠くで木の葉が擦れ合う音がする。僕はこの音が嫌いだ。誰とも触れることもできず、たった一人で風に揺らされる木の葉のことを想うと胸が締め付けられるからだ。表面に傷がつき、散ってしまう時が早く訪れることになろうとも、誰とも触れ合えないことはとても寂しいことだ。季節が廻り、仲間たちが吸い込まれるように地面へと落ちていく中で、孤独な木の葉はきっと、誰よりも長く枝にくっついていられることを嬉しく思うだろう。だからなおさら悲しいし、僕はこの音がする度にどうしようもなく耳をふさぎたくなる。


 時々僕は明日を食べることができたらと思うことがある。彼女が一緒にいた時はそれほどでもなかったのに、最近またそのように思うことが多くなった。もし僕が明日を食べ、いつものようにブランケットに包まって眠ったとしたら、やってくるのは明日ではなく、明後日なのだろうか。だけど、今日の次の日だから、明後日ではなく明日と呼ぶべきなのかもしれない。だけど、そしたら僕が食べたものは一体なんなのだろう。仮に僕が気持ち悪くなって、ブランケットの上に昨日食べた明日をもどしてしまったとしたら、それを一体なんと呼べばいいのだろう。胃液で半分溶かされ、黄色く変色したその何かの中に、僕は存在しているのだろうか。考えれば考えるほど思考はプロペラのようにぐるぐると回り、西の方に見える緑緑しい山麓の向こう側へと飛んで行ってしまう。僕は何かがわかるかもしれないと思って、飛んで行ってしまった方角へと手を伸ばしてみる。だけど、もちろん、僕の右腕がその山の向こう側まで届くはずがない。悲しいことに、どんなに懸命に伸ばしたところで、僕の右腕は弓なりになった猫の背中ほどの長さしかないからだ。


 僕の名前を呼ぶ声が聞こえたので、声のする方へと振り返ってみた。しかし、そこには誰もおらず、代わりに真珠貝色のタグが地面にぽつりと落ちているだけだった。声は確かに聞こえた。それは人間の声でもなければ、近くに住んでいる鳥の鳴き声でもなかった。もっと低く、くぐもった声。すとんと何かが自分の中で落ちて、それが僕に覆いかぶさっている怪物の声だということに気が付く。僕は真珠貝路のタグを拾い上げる。そのタグは表面がざらざらとしていて、端っこが鼠にかじられたように欠けていた。


 真珠貝色は何曜日の色だっけ。いくら考えても思い出せなかった。僕は時々、度忘れをしてしまう。このことでよく同級生からからかわれたし、彼女からも呆れられていた。しかし、真珠貝色が一昨日の色ではないことだけは断言できた。すると、このタグをつけた風は明日か明後日、あるいはそれより先の未来からやってきたのだろう。その日にはもう怪物は目覚めていて、僕がどこかへ行ってしまわないようにお願いするために、その低く重みのある声をこの風に託したのかもしれない。あるいはそうでないのかもしれない。


 真珠貝色が何曜日の色か忘れてしまったけれど、とりあえず、その日まで待ってみようかと僕は思った。それで結局自分の思い過ごしだったとしても、きっと納得できるはずだ。


 僕はしゃがみこんだまま、目をつぶった。そして、じっと待ち続けるために深い眠りに落ちてみた。どれだけ眠り続けたかわからない。途方もない時間かもしれないし、それほどでもなかったかもしれない。エメラルドグリーンの太陽はとっくに沈んだだろう。だけど、それ以上のことはどうしてもわからない。夢の中では、一体今何時なのだろうと考えること自体が意味をなさないからだ。もういいだろう。僕は恐る恐る目を開け、東の空を見上げた。真珠貝色の太陽が優しい光で地上を照らしていた。そして、僕は真上を見た。怪物はまだそこにいて、目をつぶっていた。僕はじっとその怪物を見つめ続けた。そして、しばらくしてからようやく、その怪物はゆっくりとその目を開けた。

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