歌手
歌うことが大好きな河口彩香は今日も一人でカラオケに行き、満足するまで歌を歌っていた。だが好きなだけあってか、満足するに相当な時間を費やした。朝から夕方まで約5時間。休むことなく歌った。最後の曲までもが高得点を取り、最高で99.9点をたたき出していた。
「よし!今日も絶好調!」
帰る支度をし、カバンとギターケースを持ち、部屋から出ていく。そして、次に向かった場所は多くのパフォーマーが集う、街だった。
彼女はいつもの位置に着くと、ギターを取り出しチューニングを始める。七時には始められる様にだ。
午後七時。彼女が歌う。集まるのはいつもの人たち。こう見えても彼女は、巷では有名なシンガーソングライターとして名が通ってる。何曲か歌い終わり、終盤に差し抱えた時。
「河口…?」
急に聞こえてきた彩香の苗字。そこに立っていたのは彩香の通う、担任の教師だった。
「先生…」
一瞬止まってしまったが、再度歌う。先生のアイコンタクトで、後で話をすると分かった。
今日のライブを終え、近くの自販で飲み物を買い、先生の所に向かった。
「お待たせ。先生」
飲み物を渡すと、ありがとうと先生は受け取ってくれた。
「河口。お前こんな時間になにしてんだ?親はこのこと知っとてんのか?そしてなんだよその髪は?それに…」
「ストップ!ストップ!そんなにいっぺんに聞かないでよ先生。時間って言ってもまだ9時じゃん!この髪はウィッグだよ。ほら!ちゃんと学校の時の私でしょ?」
彩香はウィッグを外し、納得してもらえるように説明した。
「まさか河口が路上ライブだとはな…」
二人は黙って飲み物を飲む。
「私ね…先生…歌手になりたいんだ」
彩香はここで初めて夢を言った。
「そっか。なれるといいな。歌手に」
「ありがとう。明日もここで歌うから、明日見に来てよ」
「分かったよ。見にいく」
二人の約束は、酷く天気のいい空の下で交わされた。
「ただいま」
家に着くと、父親がご飯を食べながら彩香を見ていた。
「お前、こんな時間までなにしてたんだ?」
「友達と遊んでた」
「毎日遊んでないで勉強しろ」
父親は路上ライブをしてることを知らなかった。もちろん教えたら反対するに決まってる。そう思い、話してもいなかった。
彩香の母親は、彩香が五歳の頃に病気で亡くなった。シングルファザーとして彩香を今まで育ててきた。歌手を目指そうと思ったきっかけは、亡くなる前に母親が「彩の歌ってる姿を見たらみんな笑顔になれるね」という言葉からだった。天国からでも笑ってくれる様に、歌手になろうと思ったのである。現実ばかり見る父親と、たったその一言で夢を目指してる彩香じゃ分かりそうもなかった。
「明日どこにも出かけるなよ。ずっと家にいなさい」
「待って。明日用事あるから嫌だよ」
「用事?また遊びに行くのか?どこにも行くなよ」
明日は先生との約束があった。どうしてもあそこに立たなきゃいけない。彩香は迷いながら部屋に戻っていった。
次の日。二階から降りると父親は家に居なかった。時計の針が既に五時を指しており、彩香は急いでギターケースを手に取り、街に行った。
七時前だというのに、人が多かった。チューニングをしていないギターの音色が街の中で響く。先生が来たことに気づいた彩香は、先生の方を向き、笑顔を送った。
「えー。みんなありがとうございます。今日はいつもの曲と、昨日完成した新曲を披露したいなって思ってます。それではまずは一曲目。聞いてください」
前振りをし、歌い始める。歌うのはやっぱり好きだった。みんなが聞いてくれてる。
歌い終わろうとした時、突然彩香の腕が上に上がった。
「お前…こんな所でなにをしてるんだ?」
腕を掴んだのは、彩香の父親だった。
「やめて!ごめんなさい!」
「お前…毎晩この時間に家にいないと思ったらこんなことをしていたのか。後で話を聞く。帰るぞ」
「やめて…離して!」
「いい加減にしろ!彩香!」
父親が手をあげようとしたのがすぐに分かった。彩香は咄嗟に目をつぶった。
パチン!
大きく響いた音。だが、彩香にはなにも痛みは感じなかった。
目を開けると彩香の前に先生が立っていた。殴られたのは先生だったのだ。
「あなたは…」
「彼女は…あなたの娘さんは歌手になることが夢なんです…これはそのための一歩なんです…どうか黙って見ててください。お願いします」
私のために頭を下げてまで父親を説得してくれてる…
そう思った彩香はつい涙を流してしまった。
「先生であろう方が、父親の意見に反論する気か!これは俺と娘の問題だ。あなたには関係ない話だ」
それでも父親は反論する。
「ならあなたも!あなたも…彼女の夢を壊す権利なんてない」
「そうだそうだ!!おっさん黙ってよ!あやたんの夢を潰そうとすんなよ!」
彩香のファンたちが父親を責め始めた。
「彩香…帰ったら話しろ」
父親はこの空気にいられなくなったのか、それ以上なにも言わずに帰っていった。
「ごめんな。河口。俺のせいで大ごとにしちゃって」
「ううん。ありがとう。先生。よし!私頑張る。みんな!さっきはごめんね!でももう大丈夫だから。改めて、聴いてください。私の新曲です」
笑顔で応えると、彩香は先ほどの顔から最高の笑顔で歌い始めた。
歌い終わり、彩香はギターを閉まい始める。
「彩香」
突如聞こえた名前。振り向くとそこには父親が立っていた。
「パパ…」
まだいたの…?と顔をしながら先ほど起きたことを思い出し、少しこわばった顔をしてしまった。
「お前の歌う姿…よかったよ。すまなかったな。さっきは…」
父親が悲しげな顔をして言いだした。彩香は驚いてしまった。
「なんでいきなり?」
「実はな…さっきお前の担任が俺のことを探しに来て一緒に見ませんかって誘ってきたんだよ。それでお前が歌ってるのを見てる時にな…先生がお前を見ながら言ってきたんだ。子供は自分の夢を語れず人生を送る人が多い。そんな人生つまんないから楽しい人生を送るためには親が子供の背中を押すことが大事なんだと。だから俺はお前の夢を応援しようかと思う…」
照れ臭そうに言う父親の姿は紛れもない父であった。
帰り道。彩香が疑問に思ったことを口にした。
「そういえば、なんで私だって気づいたの?髪もウィッグだったのに」
「昔の母さんの声に似てたんだよ。歌ってる彩香の声と」
「そっか…」
彩香は嬉しい顔をし、帰り道も歌っていた。
数年後に高校の同級生が亡くなった訃報と、歌手としてデビューを果たした吉報がほぼ同時に聞かされるのは、もう少し先の話だ。