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ふわふわと、宙に浮かんでいるような感覚。ふわふわ、ぽかぽかしてとても気持ちいい。
あれ、今の今まで何かしていたような……。ふとそんなことが脳裏を掠めるが、この気持ち良さの前ではどうでも良かった。
心地良さに身を任せていると、どこかで見たことのある金髪碧眼の女の子が浮かび上がってきた。
一目で美少女と分かる女の子は、こちらを見つめて微笑んでいた。あまり女性慣れしていない僕にとっては赤面もので、目を逸らしたくなる衝動に駆られる。
不意に、彼女の小さな唇が微かに動いた。
『にげて』
目の前の彼女が真っ赤に染まった。
耳元で聞こえる獣の息遣い。真っ赤に染まった口内からはとめどなく鮮血が滴り落ちている。何かを咀嚼する水っぽい音と、硬質な何かが砕かれる音。
気付けば目の前の彼女は消えていた。一際大きくばきん、と音が鳴る。
『にげて』
頭部だけになった彼女が、微笑みながらそう呟く。獣の牙に肉を貫かれ、強靭な顎に噛み砕かれようとしている今その瞬間でさえも―――だ。
「―――うわあああああああああッ⁉」
がばっと飛び起きたと同時に、潰れたトマトみたいにひしゃげていく彼女の頭部が消え去った。
肩で息を吐き、ここが森の中ではなく、何度も運び込まれた治療院の一室であることが遅れて分かった。
夢……か。荒い呼吸を整えながら、深く息を吐き出して胸を撫で下ろす。一息吐いて、冷静さが戻ってきたところではっと気が付く。
彼女は、鋼殻熊は一体どうなったのか。鋼殻熊の喉にショートソードをぶち込んだまでははっきりと覚えている。
それから記憶が曖昧で、鋼殻熊が倒れたところから記憶がない。
「寝てる場合じゃ……っ、ぐぅ……!」
思い出したことで、重傷を負っていた体が遅れて痛みを蘇らせた。あまりの激痛に顔を顰めて呻き声を上げてしまう。
じわじわと熱を帯びて、まるで自分の体じゃないと錯覚するほどに熱い。まるで溶岩を抱いているかのような錯覚すら覚える。
これしきのことで寝ている訳にはいかない。彼女はどうなったのか。鋼殻熊は倒せたのか。それを知るまではのうのうと寝てなんかいられない。
「……んっ……」
と、そこですぐ傍で声がした。それと同時に、右手が柔らかく、温かいものに包まれていることにも気付いた。
「あ……」
それを目にした瞬間、瞼の裏がかぁっと熱くなった。良かった。本当に良かった。間に合った。間に合ったんだ、僕は。
ベッドに凭れ掛かるようにして眠る彼女の姿を見つけた時から、安堵で胸が震えた。
ふ、と小さな息が零れ、喉の奥が震える。ぼろぼろと大粒の涙がとめどなく流れ落ちた。
僕は、木綿 英雄は、一人の女の子を守れたんだ。それだけで僕の涙腺はあっさり崩壊した。
右手をしっかり掴んで離さない彼女の柔らかな手をぎゅっと強く握りしめる。暖かな温もりが、彼女が生きていることを実感させてくれた。それが嬉しくてまた泣いた。
「あー……ゴホン、そろそろいいか?」
「くぁwせdrftgyふじこlp」
「なんて? 今なんつった?」
びっくりして心臓が口から飛び出すかと思った。始めからそこにいたのであろう人物は僕が口走った奇声に苦笑しながら口元に人差し指を当てた。
すやすやと寝息を立てるこの女の子に気を遣ったのだろう。その意図が分かった僕はふうう……と大きく深呼吸して自分を落ち着かせた。
「いるならいるって言ってくださいよ。クレイヴさん」
「お前さんの悲鳴が聞こえたから飛んできたんだっつーの。泡食って来て見りゃその子のほう見て兜から汁どっばどば垂れ流しやがるしよぉ。ホレ拭け。それと、見られてねえから安心しなっせ」
ちょいちょい、と指で自分の顔を示すクレイヴさん。僕の顔は見られてないと言ってくれてるようだ。
僕のコンプレックスを気遣って、兜は絶対に取らないようにと治療院の人にも言い含めてくれたのだ。
なんでも魔物との傷で怪物みたいな顔になってしまっているからだとかなんとか。もうちょっとなにかなかったのかなと少し不満だが、あながち間違ってないので素直にお礼を言った。
「ありがとうございました。ここに運んでくれたのも、クレイヴさんでしょう?」
「いや……まあ……そうっちゃそうだが……」
妙に歯切れが悪い。僕が首を傾げていると、それ以上は聞くな、とばかりにクレイヴさんが首を横に振った。
釈然としないけど、クレイヴさんじゃないとなるとテレシアさんくらいしか思い浮かばないので何かあるのかな、程度に流しておいた。
「しかしまあ、まだ正式な冒険者でもないのに良くもまあ鋼殻熊を討伐したよ、お前さん。お嬢が相当喜んでたぞ、私の目に狂いはなかっただとかな。あと騎士団に入れられないのを本気で悔しがってたな」
「……実は、どうやって倒したかとか必死過ぎて覚えてないんですよね……。鋼殻熊って討伐レベルどれくらいなんです?」
「んー? まあ初心者レベルっつっても一応はあの森の主だからなあ。十ツ星 じゃまず無理。九ツ星でギリギリってとこじゃねえか?」
そんな魔物を相手にしていたのか、と改めて実感し、ぶるりと身を震わせた。そんな格上の魔物と対峙して生きているだけでも儲けものだ。
ましてや討伐するとなると奇跡に近い。良く生きていたな、と体の震えが止まらなくなる。
「まあ、お前さんならそこそこやれるだろうなとは思ってたよ。なんせ、俺から一本奪う実力持ってんだからな」
にやりと意地悪く笑うクレイヴさん。またそれか、と僕は苦笑することしかできない。
体重を絞ったからというもの、ちょくちょく様子を見に来てくれていたクレイヴさんが僕の朝の素振りを目撃したことから始まる。
手合わせでもするか、と何気なく言ったクレイヴさんは僕の返答も聞かずに城に戻り、戻ったかと思ったら木刀二本と革の鎧を引っ提げてきた。
僕に木刀と革の鎧を放り投げ、それつけろと言って待ちの体勢に入る。手合わせは願ってもない申し出だが、僕は兜、鎧をつけて対するクレイヴさんは何もつけていない。
せめて何か防具を、と言った瞬間、どうしてそんなことが言えたのかと、浅はかな自分を恥じた。
『たかだが数年チャンバラごっこしてた青二才が、剣を語るなよ?』
―――凄まじい気迫だった。いつもの気怠そうでいて、飄々としていた壮年の男はどこにもいなかった。
そこに立つ者は数多の修羅場を潜り抜けてきたであろう歴戦の猛者。
お前の剣など届くはずもない。かの狩人の双眸がそう物語っていた。
勝てるはずがない。そんなことは剣を交える前から分かりきっていた。だけど僕はたった一度だけ一本を勝ち取った。
僕がクレイヴさんの剣を知らないように、クレイヴさんも僕の剣を知らない。
袈裟斬りをいなしての抜き銅。たった一回だけ決まった僕の必殺技。
片膝を突いたクレイヴはしばらく茫然としていたけど、すぐに立ち上がってもう一度だ、と手合せの続行を宣言した。
それから僕はボッコボコにされたけど。打ち込む隙が全くないし、普通に手と足も使ってきた。汚い、さすが大人は汚い。
勝負に汚いもクソもあるかと馬鹿にされたけど、全くもってその通りなのでぐうの音も出ない。それからからかうようにことあるたびに言ってくるのだ。
ちなみにテレシアさんにそう言うと、お前が? クレイヴに? 嘘も顔だけにしておけと真顔で罵倒された。悲しい世界だ。世界は……残酷なんだ……!
「それにしてもお前さん、やるじゃねえか。いつの間にこんな別嬪さんを引っ掛けたんだ?」
ん? ん? とにやけ顔で肘を入れてくるクレイヴさんにちょっとイラっとした。あと左腕のギプスを小突かないで。割と痛いんですけど。
「引っ掛けるって人聞きの悪いことを言わないでください。そもそも僕は、この人の名前も知らないんですからね」
「は?」
ため息を吐きながらそういうと、何故かクレイヴさんが真顔で固まった。
僕、そして女の子、そして握ったままの手と順に視線を流して、じっと握ったままの手を見つめた。
しまったまだ握ったままだったなにこれすんごい柔らかいし気持ちいいんですけどうわあうわあと慌てて手を外そうとすると、決して離すまいとぎゅっと力が入り、外そうにも外せない。
ふおおおおと声なき声を上げて悶え苦しむ僕。僕が生き地獄を味わっていると、突然クレイヴさんがぷっ、と小さく吹き出した。
「あっはっはっはっはっは! こりゃいい! 見ず知らずの女を助けるために命を懸けたってか! はっはっはっはっはっは!」
「ちょ、声がでかいですって!」
「……ん……」
突然腹を抱えて笑い出したクレイヴさんに、僕は声を落とせと慌てた。
思っていた通り、ベッドに凭れ掛かって眠っていた女の子が小さな声を上げてもぞりと動き始めた。
相当長くそこにいたのだろうか、綺麗な金髪に癖がついてしまっており、流れるような長い髪のところどころで跳ね返りまくっていて思わず笑ってしまう。
女の子はまだ覚醒しきってないのか、半開きの瞳を擦ってぱちぱち、と目を瞬かせた。
大きな空色の瞳の中に、兜を被った、包帯でぐるぐる巻きにされたミイラみたいな男の姿が映った。我ながらなんてシュールな姿だと思いつつ、改めて見た女の子はすごく可愛かった。
すっと流れるような鼻の形。ぷるんと瑞々しい桜色の唇。そして何より―――情の深さを表しているかのような、少し目尻の垂れ下がった空色の瞳が、僕の視線を釘付けにした。
「おはようございます。良く眠れました?」
「……ぁ……」
自分でも驚くくらいにするっと言葉が出た。僕の声を聞いた女の子は呻き声にも似た声を漏らし、大きな空色の瞳を目一杯見開いて、ふるふると小刻みに震え始めた。
怪我はない? と聞こうとしたところで、ふっと彼女の姿が見えなくなる。とん、と軽い衝撃と一緒に、ふわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
抱き着かれたと気付いたのは、柔らかな温もりに包まれたと同時に悲鳴を上げた体の痛みからだった。
「良かった……ほんとうに、良かった……」
彼女は僕の状態に気付いておらず、存在を確かめるかのようにぎゅっと腕に力を込めた。
お腹辺りにすっごい柔らかいものが押し当てられてむにむに形を変えてるっぽいけど、今の僕はそれどころじゃなかった。
離して、と告げることすら出来ず、僕はまたしても気を失うのだった―――。