33
「して、君はどこから流れ着いたのかな?」
自作したであろう趣のある湯呑を人数分用意したヘクトールさんが、簡素な造りの部屋の中央にどっかりと腰を下ろす。
流れ着いたとはどういうことだろうか。まるでここに何かが流れ着くのが当り前のように聞こえる。
質問の意味が分からず、答えを出しあぐねていると、ヘクトールさんがああ、と何かに気付いたように声を上げ、苦笑した。
「すまない、外から来た君がわかる訳がなかったな。ここはちょっと特殊な島でね、船で来ることは不可能に等しいのだよ。潮の墓場を知っているか?」
またも知らない単語が出てきたので首を横に振る。完全なる無知である僕に対して、ヘクトールさんは嫌な顔ひとつせずふむ、と一度だけ頷いて話を続けた。
「雷雲に覆われ、人魚ですら溺れると言われる渦潮が常に発生している魔の海域のことだ。その他にも水蛇竜を筆頭に、強力な魔物が生息する危険地帯。まず普通の人間なら近付きもしないだろうさ」
「あの、ちょっといいですか? 水蛇竜って、潮の墓場から他の海域に出現するってことはあるんです?」
「あり得ないな。水蛇竜は魔素の強い場所を好み、なにより縄張り意識が他の魔物より非常に高い。あの場所以外で目撃された例など私は知らないな。……なぜ、そのような事を?」
表情こそ穏やかなものだが、ヘクトールさんの持つ、縦に割れた赤銅の瞳がすうっと細められた。
それだけで得も言われぬ緊張感が漂い、思わずごくりと生唾を飲んだ。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、体がぴくりとも動かなくなった。
永遠とも思える時間の中、沈黙を破ったのは呑気にお茶を啜っていたラムダだった。
「フサオ、イジメル、ヨクナイ。ヘクトール、オトナ、カッコワルイ」
「……いじめてはないのだが……かっこ悪いとまで来たか。やれやれ、ラムダが初対面でここまで心を許している相手なら心配は不要か。すまない、楽にしてくれ」
そう言った途端、今まで場を支配していた緊張感が嘘のように消え去り、僕は安堵からぶはぁ、と盛大に息を吐き出した。
流石は里随一の戦士と言ったところか。見つめるだけでここまでの重圧を与えて来るなんて洒落にならない。
胸を軽く押さえて何度も深呼吸する僕を見つめ、落ち着いたところを見計らってヘクトールさんが口を開いた。
「さっきの口ぶりから察するに、君は潮の墓場以外で水蛇竜を見たことがあるのか?」
「あ、はい。と言うより、襲われました。フォレオフィッツからメルマリッジに行く途中、突然海中から姿を現して……直接船に被害を及ぼした訳じゃないんですけど、高波のせいで僕と仲間が海に投げ出されてしまい、咄嗟に海に飛び込んで、仲間に仮面をつけたまでは覚えてるんですが……それ以上は覚えてません」
「ふむ、仮面? 海中で仮面をつけたところで、どうにもなるわけでもあるまい」
「いえ、なんというか、その……その仮面はちょっと変わってまして。水の中でも呼吸ができるんですよ」
何と説明したものかと特徴を伝えようと身振り手振り、四苦八苦しながら説明していると、唐突にヘクトールさんの赤銅の瞳がまたもすっと細まり、僕から視線を外して斜め下に視線を投げた。
今度は身も凍るような重圧はなく、なにやら深く思考の海に潜っているようだった。
ごくりと喉を鳴らし、反応を待つこと数秒、ヘクトールさんがふむ、と一つ頷いて顔を上げる。
「……それはひょっとして、三つの目がある仮面のことかね?」
「え、はい。知ってるんですか?」
ヘクトールさんの言葉に驚く僕だったが、僕が返した言葉に何故かヘクトールさんも驚き、僅かに目を見開いていた。
「知っているも何も、それはかつて魔王が所持していたものだよ」
「―――え?」
思考が一瞬にして停止した。
―――今、なんと言った?
魔王が所持していた?
あり得ない。そんなことがあり得るはずがない。魔王が所持していたのであれば、ただの人間である僕の身に何も起きていないのか。
災厄の王として伝説に残る存在が持っていたものが、曰くつき、呪われたものでないはずがないのだ。
僕はそれを知らずに今まで使って―――ナナリーに?
どくん、と心臓が高鳴る。確かにあの仮面の出自はあり得ないものだった。
深夜、スイセンの人気のない路地裏で見かけた怪しげな仮面の露店。
店主と思しき者はぼろきれを纏った骸骨。もしや、あの骸骨が―――。
『それがお客人の求めるもの。面とは鏡。内なる己を映すもう一つの貌。光と闇、どちらかに転ぶかは……お客人次第……』
ふと、骸骨が残した言葉が頭を過る。
意味がわからない。どうして魔王が。いや、ナナリーは大丈夫なのだろうか。でも僕はこうして正気を保っているし、不思議な機能があるくらいとしか考えた事もなかった。
ダメだ、頭がこんがらがってまともに考えられない。少なくとも今僕は無事だ。何の異常も見られない。
一体何のために骸骨はあれを渡したのか。それよりも、何故僕なのか。
僕はどこにでもいるようなごく普通の人間だ。その、はずだ。誰かに選ばれたり、それこそ勇者のような存在であるはずが―――。
「……ふむ。外の世界ではもう動き始めていると言う事か」
「うご……何がです?」
思考の海に沈んでいた意識が、ヘクトールさんの何気ない呟きによって急速に浮上する。
動き始める、と言う単語だけ聞き取れた僕は反射的に聞き返してしまった。
するとヘクトールさんは小さく首を横に振り、何でもないと示すように話を再開させた。
「いや、ただの独り言だ。さて、さっきも言ったが、ここは特殊な島だ。見える範囲では穏やかに見えるが、少し行けば潮の墓場に囲まれた絶海の孤島と言うことがわかる。そしてどういうわけか、この島は漂流したものしか辿り着けないようになっている。どういう原理かは私もわからないが、とにかくそういう島なのだと理解してもらえればいいかな」
まるでそれ以上追及するなとばかりに会話を続けるヘクトールさんに、僕は何も言えなかった。
けれど一つだけ確信したことがある。ヘクトールさんはあの仮面の秘密を知っている。
延いては、この里に魔王についての手掛かりが隠されていると判断してもいい。
災厄の王―――それの風貌について詳細に記された伝承は残されていない。
しかし、魔王と同じく今もなお生ける伝説として姿を残す竜。
竜と魔王。何か深い繋がりが隠されているに違いない。
でなければヘクトールさん……竜人がここまでひた隠しにしようとするわけがない。
余所者に話すわけがないと言う可能性も高いが、そうではないと僕の中の何かが訴えかけている。
思考を一旦置いといて、ヘクトールさんの話に耳を傾け―――またも思考が一時停止した。
「……えっ……と言う、ことは……」
「ああ、ここから外に出ることはまず不可能。大方冒険者なのだろうと見えるが、向こう側に戻れることはもう二度とないと思って欲しい」
それは死刑宣告に等しい言葉だった。
冗談、だろ。戻れないなんて、そんなの悪い冗談でしかない。
ナナリー、エメロッテ、クエル。
あの笑顔を。あの陽だまりのような居場所を。
僕はもう二度とあの場所に戻ることが出来ないと言うのか。
「そ、んな……」
突き付けられた現実を受け入れられず、僕は茫然と虚空を見つめた。
「向こう側に家族がいて、仲間がいたのだろう? 気持ちはわかる。どうにかして戻りたいと思うだろう。だが、現実は戻る術がないんだ」
ヘクトールさんが何かを言っているが、今の僕には何を言ってるか全くわからなかった。
脳裏に浮かび上がるのはナナリーと、エメロッテと、クエルの笑顔だけ。
―――どうして、どうしてこうなった。どうして僕がこんな目に遭わなければいけないんだ。
また、僕を独りにするのか。
心が暗く、冷たく、奈落の底へと落ちていくように、凍てついていく―――。
「……すぐには受け止めきれないだろう。少し、考えるといい。……ラムダ、お前の家に泊めてやってくれないか?」
「ウ。ワカッタ」
すぐ近くでがしゃがしゃ音がする。うるさいな。僕のことは放っておいてくれ。
どうせ僕なんかが……生きる価値のない、醜い生き物の僕が、英雄なんかになれるわけがなかったんだ。
どこまで行っても僕は僕のまま。だったらもう、何も考えたくない。放っておいてくれよ。お願いだから。
「フサオ、カナシイ。オデ、ワカル。オデ、ムコウカラキタ。デモ、ココ、ヘクトールイル。バアチャン、イル。オデ、ムコウ、カエルイエ、ナイ。ダカラ、ココ、マモル。フサオ、イッショ。ダカラ、マツ」
ラムダが何事かを言っていた。それももう、どうでもよかった。
もう二度と戻れない。その現実だけが胸に重くのしかかり、全ての気力を奪い去っていった。
最早動くことすら億劫になった僕の体は、大人と子供ほどの身長差のあるラムダに半ば引きずるようにどこかへ運ばれていった。
◇
「ウ。フサオ、マダ、オキテル。ヨフカシ、カラダ、ヨクナイ」
どれくらいそうしていたのだろうか。声がした。音がした。ただそれだけに反応する生き物のようにのろのろと顔を上げ、意味もなく、ただただそれを見る。
ぼんやりと浮かび上がる金属は確か、なんだったっけ……ああ、ラムダだ。
どうしてラムダがここに……と言うかここはどこだろう。それにやけに暗い。さっきまで明るかったのに、一体どうしたと言うのか。
そんなどうでもいいことを思い、現実を思い出してまた自嘲する。
結局僕は何も出来やしないんだ。見栄張って、意地になって、かっこつけたところで……僕が出来ることなんて、何一つなかったんだ。
「……戻れないって、なんだよ……」
闇の中、誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。そのことで、今まで抑えられていた感情が堰を切って溢れ出す。
「嘘なんだろ? きっと何か手段があって、それを隠してるだけなんだろ?」
ラムダは何も言わない。何も言ってくれない。ただそこにある置物のように、じっと身じろぎひとつせず佇んでいる。
「なぁ、なんとか言ってくれよ、ラムダ。嘘だと言ってくれよ。ナナリーがどうなったか、エメロッテとクエルがどうなったか、気になって仕方ないんだ。怖いんだ。皆いなくなるんじゃないかって、怖いんだよ。なぁ、帰れるんだろ? 海を渡る手段がなにかあるんだろ? ―――なんとか言えよ! オイ!」
「ヘクトール、ウソイワナイ。オデ、シラナイ。カエリタイ、ワカル。ケド、ムリ。アキラメル」
「ふざっ―――‼」
何も言わないラムダに、僕の怒りは徐々に激しさを増していった。こんなの完全な八つ当たりだ。そんなものは分かってる。だけど、一度溢れ出てしまった感情は止まることを知らず、次から次へと濁流の如く溢れ出していく。
そんな僕に対し、ラムダは至って冷静に否定の言葉を紡いだ。諦めろ―――その一言で僕の怒りは瞬時に最高潮に達し、ラムダに掴みかかろうと動いた。
―――そして、僕は硬い床に引き倒されていた。
「オコル、ワカル。フサオ、カナシイ、カナシイ、サミシイ、サミシイ、オデモ、カナシイ」
頭上からラムダの声がした。相変わらず老婆のような声だけど、少しだけ震えているように感じた。
バイザー部分の奥―――子鬼であるラムダの目から、涙が零れていたのがちらりと見えた。
「フサオ、カナシイ。オデモ、カナシイ。オデ、カゾクイナイ。ダカラ、フサオ、キモチ、ワカラナイ。ケド、オデ、ココノミンナ、カゾク。イナクナル、トテモカナシイ、カナシイ」
「……ぅぐ……」
僕の頭の上で尻もちを着き、ぐすぐすと鼻を鳴らして嗚咽を鳴らすラムダ。
ラムダはきっとわかろうとしてくれている。人である僕を、種族の垣根を越えて、同じ命を持つ者として分かり合おうとしてくれている。
家族はいない。けれど、この里の人たちが家族だとラムダは言った。同じ悲しみを感じ、そして痛みを感じて涙を流してくれている。
一人ではないと。そう言ってくれている気がして、瞼がかっと熱くなった。
それから僕は、ラムダと一緒に声を殺して泣き続けた。
どれくらい泣いていたかわからない。長い時間そうしていたかもしれないし、ごく短い時間だったかもしれない。
そもそも時間の概念が薄いこの世界で正確な時間を測るのは難しい。
僕が落ち着くのを見計らっていたのか、ラムダが頃合いを見てすっくと立ち上がった。
「オデ、フサオノカゾク、ナル。フサオ、ウー、イクツ?」
床に倒れたままの僕に見えるように、身振り手振りで意思を伝えようとするラムダ。
その動き一つ一つがコミカルでなんとも愛らしく、暗い気持ちが少しだけ和らいだのが自分でもわかった。
「……16……いや、17、かな?」
「ウ。オデ、12。フサオ、アニキ。アンチャ、ヨブ」
「え、いや、そんな急に言われても……」
「……ウ。アンチャ、ダメカ?」
ラムダが予想以上に年下だったことにも驚いたが、何よりいきなり家族と言われても正直ついていけない。
戸惑う僕の反応を見て、今の今までぴこぴこ元気に動き回っていたラムダがしょんぼりと大人しくなる。
……これは卑怯だと思う。こんなの見せつけられてダメだと断れるはずがない。
僕は気持ちを落ち着かせ、ゆっくりと上体を起こし―――少しだけ、笑った。
「……好きに呼んでくれていいよ。でも、ごめん。まだ気持ちの整理がつかないや」
「ウ、ウ! アンチャ! アンチャ! フサオ、アンチャ!」
言葉の通り、気持ちの整理なんて到底つくはずもない。
ヘクトールさんやラムダが嘘を言ってるはずもないと理解している。
―――だけど。
僕は諦めない。ここは魔王と同じく伝説として今もなお語り継がれている竜人の里だ。
きっと何か手立てはある。みっともなくてもいい。やるだけ無駄だと笑われたっていい。
僕は必ず、みんなの元へ帰るんだ。
足掻いて足掻いて、それでもどうしようもなくたって死ぬまで足掻いてやる。
ここにはラムダがいる。僕を家族と認め、兄ちゃんと慕ってくれる子鬼がいる。
ラムダは子鬼で、魔物だ。だけど、心を持っている。とても優しく、暖かな心だ。
弟と共に生活し、外の世界へ戻る手段を探す。
今はそれしかできないけれど、どれだけ時間がかかってもやりきって見せる。
僕の大切な仲間と再び会い見える……その日まで。
◇
「……ふむ。一夜明けて、少しは頭が冷えたのかな?」
翌朝、僕はラムダと共にヘクトールさんの家を訪れていた。
ヘクトールさんは僕の目を見つめ、赤銅の瞳を穏やかに細め、笑った。
それだけで昨日の自分がどれだけ取り乱していたかわかってしまい、なんだか無性に恥ずかしくなった。
けど羞恥心なんぞ感じている暇はない。今の僕はとにかく時間が惜しい。
一秒でも早く元の世界へ戻る手段を見つけることが先決なのだから。
「いえ、そう簡単に割り切れることじゃありません。でも、立ち止まっているだけじゃ何も変わらない。だから、今出来ることをやるだけです」
「……ふむ、なるほど。あいつが選んだ理由も頷ける」
「あいつ?」
「いや何、独り言だ。さて、君はここで生活することを選んだのだな?」
あいつ、と言う単語に思わず聞き返してしまったが、ヘクトールさんはそれ以上は聞くな、とばかりに話題を変えてきた。
しつこく追及して心象を悪くするのもなんだし、それ以上は何も言わなかったけど、昨日の事と言い、ヘクトールさんは明らかに何かを隠している。
確信はない。けれど、僕はそれが手掛かりになるんじゃないかと睨んでいる。
なにせここは竜人の里。そして魔王を知る人物なのだ。外の世界に渡る手段を知らないと決めつけるにはまだ早すぎる。
「……はい。と言っても、先のことはまだわからないですけど」
「くく、いいぞ。臆せず現実と立ち向かう者は強き戦士になれる。それもまた、力だ。いいだろう、今この瞬間を持って君を歓迎しよう」
そういってヘクトールさんが大仰に両手を広げ、赤銅の瞳を煌々と輝かせる。
その光景を目に焼き付けた僕が思ったことは―――試練。
なんでかはわからないけど、確かにこれは試練なのだと無意識の内に理解していた。
そうさせたのは他でもない、目の前で煌々と目を輝かせる竜人の戦士だ。
「ようこそ、人の子よ。神話に語り継がれし竜の血脈を継ぐ竜人の里へよくぞ来た。君がここで何を得て、何を思い、そして何に至るのか。このヘクトールが君を見定め、見届けよう。それまで君は―――そうだな、まずは共に畑を耕そうか」
「あっはい」
「ウ。アンチャ、ガンバル」
僕に与えられた仕事は想像を絶する厳しい修行でもなんでもなく―――地味な肉体労働だった。
畑を耕すこともなかなかの重労働なので決して馬鹿にしたものでもないけれど……なんとも拍子抜けしてしまった。
呆気に取られてぽかんとしてしまった僕に、ラムダがずんぐりむっくりした体全体を使って応援してくれた。
……里一番の戦士が畑仕事してるってなんだよそれ。……なんなんだよ……。
いつもありがとうございます。更新頻度が遅い割に話数が少なくて申し訳ございません……。
感想、指摘などあればお気軽にお願いします。それが励みになり、作品の向上に繋がるのであれば全力を尽くします。




