1
「……ん……うわっぷ!」
鼻に走る違和感に目を覚ます。目を開けると視界一杯に蛾のようなものが広がったので反射的に体を起こして振り払う。
ごしごしと袖で顔を拭って落ち着いたところで、改めて自分がどこにいるかを再確認した。
「……ここ、は……」
そこは変わった樹木が生い茂る、見たこともない森の中だった。
見るからに毒々しい色の葉をつけた木。ゼンマイに似た不思議な形状の草花。そこら中から聞こえてくる謎の生き物の鳴き声。
見たこともなければ、聞いたこともない。一体ここはどこなのだろうか。
と、脳を回してみても答えはさっぱり出てこない。これでは埒が明かないと腰を上げ、探索してみることにした。
「夢……なのか? ん?」
そこらから聞こえてくる鳴き声、物音にびくびくしながら慎重に進んでいくと、妙に見覚えのあるものが視界の端に移った。
この時僕は、何もわかっちゃいなかった。
ここがどんな場所かも、今しがた手に触れた、見覚えのあるゲル状のものが何と呼ばれていたのかも。
「―――ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」
左腕から走る激痛が全てを支配した。左腕に絡みついていたこのゲル状のものはスライム。ゲームで何度も見たことがあるものだ。
そしてこれは魔物、つまり敵として出てくるもの。決して安全ではないものだ。
激痛が支配する中、肉がじわじわと溶かされ、消化されていく様を僕ははっきりと感じ取った。
獣染みた絶叫を上げながら、激痛から逃れるべくめちゃくちゃに腕を振り回す。
それが功を成したのか、スライムは腕から外れ、木の幹にべしゃっと叩きつけられた。
「あああああああ、あああ、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいいいいいいい!」
拘束から逃れた腕はまだしゅうしゅうと溶解を続けており、絶え間なく激痛を発し続けた。
ボタボタと流れ落ちる赤い滴は紛れもない僕の血。
頭の中の警鐘が鳴り止まない。これは何の冗談か。逃げろ。今すぐ逃げろと体が叫んでいる。
それでも僕は痛みに耐えかねて叫び、流れる血を眺め続けることしかできなかった。
不意に、水が撥ねる小さな音が鳴った。弾かれるようにそちらに目を向けると―――。
「あ、あああ……」
木に叩きつけられた衝撃でそうなったのか、最初からそこにいたのかは定かではない。
一体だけだったはずのスライムが、二体になってゆっくりと僕に近寄ってきていた。
「く、くるな……くるなああああああああ!」
僕は半狂乱になって叫んだ。左腕から走る激痛が嫌でも教えてくれている。
これは遊びでもゲームでもない、紛れもない現実なのだと。
そして目の前のモノは確実に僕を殺す気で来ている。
殺される。死ぬ。このままでは死んでしまう。嫌だ、死にたくない。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!
「いやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」
「はぁっ!」
それは本当に、一瞬の出来事だった。
僕に襲い掛かろうと球状の体を変化させ、薄い膜状になって飛び掛かってきたスライムが、目の前ですっぱりと寸断された。
続けざまに風を切る音と一緒に、もう一体のスライムが真っ二つになる。
何が起きたか飲み込めずに茫然とすることしかできない僕の前に、コスプレとしか思えない、全身鎧姿の何かが現れた。
おそらく騎士であろうそれは周囲を見回し、何もいないことを確認すると鈍い輝きを放つ剣を収め、僕の方へと向き直った。
「危ないところだったな、君。怪我は……腕をやられたか」
目線を合わせるためなのか、わざわざ片膝を突いて手を差し出してくれた。
兜のせいなのか、くぐもって聞こえる声はどちらなのか判別しがたい。だが、目の前の全身甲冑姿のものは同じ人であると理解できた。
人間であるとわかった途端、左腕からの痛みが蘇ってくる。思わず呻き、顔を顰めると騎士風の人が声のトーンを落とし、そっと左腕を掴んだ。
改めて自分の左腕の惨状を目の当たりにし、吐きそうになった。皮膚は焼けただれ、一部骨も見えてしまっている。
溶け残った皮膚はケロイド状になり、そこから染みのように血が流れ続けている。こんなものを見て平然としていられる人間がいられるだろうか。いや、絶対にいるわけがない。自分のことながら、それほどまでにこれは酷い有様だ。
「少し染みるぞ。男なら耐えて見せろ」
「―――っ、あがぁ……⁉ ぐぎ、ああぐ……く……‼」
余りのグロテスクさに目を背けていると、騎士風の人がそんなことを言い出し、何やらごそごそやり始めたのでそっとそちらに目を向ける。
―――その瞬間、またも激痛が走った。
なにやら青い液体を腕にかけられた途端、溶かされた時よりも激しい痛みが僕を襲った。
言われたからかどうかはわからないけど、僕は歯を食いしばって痛みに耐えた。
脂汗が吹き出し、涙と鼻水とよだれでただでさえ不細工な顔が見るも耐えない顔になっているだろう。それでも僕は耐えた。
それしかできないと分かっているかのように、ひたすら歯を食いしばって耐え抜いた。
「うん、上出来だ。スライムごときにやられる気骨とは思えんほどだ」
その声と共に、終わらないと思われた拷問は終わった。
騎士風の人がそっと僕の腕を下ろし、すっと立ち上がる。
朦朧とする意識の中で見た左腕は、見るも無残なケロイド状のものではなく、いつも通り見慣れた贅肉だらけの腕だった。
「はぁっ、はぁっ、は……あり、がとう、ござ、ます」
「うん、礼節も弁えている。見た目に反して良く教育が行き届いている。良い親を持ったな、少年」
辛うじて紡いだ感謝の言葉に、騎士風の人が何度も頷く気配がした。がしゃがしゃと金属音が聞こえることから、そう思っただけなんだけど。
いろいろと聞きたいことがある。せっかく話の通じる人が目の前にいるんだ。状況を整理しないと、どうすることもできない。
「それで、どうしてここに? それも丸腰で、だ」
「それ、は―――」
「っと、質問より先に安静に出来る場所が必要か。少し休め、話は君が目を覚ましてからにしよう」
意識を保とうと精一杯努めるも、限界を迎えた。もはや座っていることすら出来なくなった僕の体を、騎士風の人はすかさず支えてくれた。
それに対してお礼を告げようにも、もう指一本動かせない。
「―――隊長、そ―――」
「―――魔物―――だ」
薄れていく意識の中、誰かが何かを言っていた。やがてそれも遠のいていき、僕はまたしても意識を手放した。