大声
僕が入って行った時、捜索隊本部はごった返していた。
だから彼女を見つけるのは無理かもしれないと思ったが、その懸念は無用だった。すぐに彼女の、不安と焦燥に曇りながらもなお美しく白い横顔が僕の目に飛び込んできた。六年前と少しも変わっていなかった。
僕は彼女に向かってささやくように呼びかけた。しかし、その声は部屋の全員をこちらに振り向かせ、覚悟はしていたがやはり、僕をドギマギさせた。けれども彼女がすっと立ちあがったので、皆はそれぞれの仕事に戻っていった。その場には他人にかまっている余裕はなかったのだ。
僕は彼女の傍に歩み寄った。
「来てくれたの? ありがとう。……ちっとも変わっていないわね、その声」
「テレビを見たんだよ。ボーイスカウトの一行が岩切渓谷にキャンプに入り、行方不明になったと伝えるニュースの中で君に似た姿が映ったんだ。もしやと思い気をつけていたら、不明者の家族として君の名前がでたんだ。……旧姓だったね。……それで何か力になれることがあるかもしれないと思って」
由紀子は想像していたほど動転も狼狽もしていなかった。
僕がそのことを尋ねると少し顔を明るくして答えた。
「私もここへ着いた時は真っ青だったけど、でもあまり心配しなくてもよさそうなの。経験のある大人のひとが引率していて、装備もしっかりしているということなの。マスコミは事件を少し大げさに取り上げたんじゃないかしら」
「それならよかった。……座ろうか」
彼女は黙って頷き、自分の隣を少し空けて座った。僕はそこに腰を降ろし、二人はそのまましばらくお互いを見つめ合った。この六年間の別離が嘘のように消えて、懐かしい空間がそこに生まれた。
「たしか、結婚したと聞いていたんだけど。ごめん。そんな話をする場合じゃないよね」
「いいのよ。捜索隊の準備が出来るまですることはないの。あの子たちはどこかで雨宿りをしながら救助を待っているに違いないそうよ。キャンプ予定地も分かっているし、じっとしていてくれさえすれば、沢筋の道は足場もしっかりしているので迎えに行くのは難しくない、大丈夫ですって」
彼女の落ち着いている理由がこれで分かった。彼女は僕のほうをじっと静かに見つめた。あの頃、こんな風にお互い穏やかに話せていたら、もっとちがった歳月が流れていただろうに。
僕が彼女を初めて見たのは、上京して少し経ったある日の夕方、会社の帰りにふと覗いた小さな劇団の舞台の上だった。僕は一目で彼女のとりこになってしまった。そして向こう見ずにも即座に入団希望を出したのだ。
子供の頃から恥ずかしがり屋で、学芸会の舞台すら経験したことのない僕だったので、道具係でも何でもいいと思っていたが、リーダーがどう見込んでくれたのか、舞台練習に参加させてくれた。声がおもしろい、と言うのだ。確かに僕の声は昔からよく透ると言われていた。内気な性格から折角の特徴を生かせずにいたのが、思わぬところで役に立った。
僕は少しでも皆に追いつこうと、一生懸命頑張った。登場人物のセリフは全部覚え、部屋に帰ってからも一人で鏡に向かい演技の練習をした。
これらの努力は全て彼女に少しでも近づきたい、僕のことを知って欲しいと思ったからだったが、なかなかそのチャンスはなかった。何しろ彼女は劇団のマドンナであり、皆が狙っていたからだ。新入りの僕には高嶺の花、練習に欠かさず参加して、遠くから見ているほかなかったのだ。
「お前はちょっとうるさいんだよ。芝居もクサいし」
練習の帰りに突然、劇団の数人に呼びとめられて暗がりに連れていかれるまで、自分が劇団の中でどう囁かれているか全く気づいていなかった。
「お前が由紀子さんを狙うなんて十年早いんだ。今後、一切手を出すなよ」
僕はまるで訳が分からなかった。彼女にあこがれていることを彼らが何故、知っているのだ。僕は自分の気持ちを周りに覚られないよう、十分注意していたのに。
「彼女を狙っているだなんて。僕はそんなこと、一度も言ったことはない」
「お前は隠しているつもりかもしれないが、みんな、知っているんだ。お前のでかい声は筒抜けなんだよ」
声がでかい?
確かに声がいくらか大きいことは自覚していた。しかし本当に自分の声が廻りの人の迷惑になるほど大きいとは思っていなかった。もちろん、これまでも「お前の声は大きいぞ」と冗談っぽく言われることはあったが、まさか心にしまいこんだ好きな人の名前まで人に聞かれているとは想像もしなかった。
でもそう言われてみると、いろいろなことが符合してくる。
僕は子供の頃、クラスの仲良しグループに入れてもらえることはほとんどなかった。秘密が守れないというのだ。決して喋ったことはないのに「このお喋り、お前から聞いたとあいつは言ったぞ」となじられたり、告げ口野郎と非難されたり。これは先生がうっかり、「友田君から聞いたわよ」と言ったからだった。僕は先生にも誰にも一言も話してなんかいないのに。
中学校に入ってからも「友田とは内緒話はできないな」と言われたし、教室が騒がしい時に「こら、友田、静かにしろ」と真っ先に注意されるのは僕だった。
子供の頃から僕が好きになった子はすぐ周りの皆に冷やかされた。いつのまにかばれてしまうのだ。おかげで女の子の方も恥ずかしがって寄ってこなくなり、それからずっと、女性に関して臆病になってしまっていたのだ。
僕はショックだった。シャイな僕は好きになったことも打ち明けられず、彼女のそばにいる時に小さな声でささやいていただけなのだ。でもそれが全部、周囲の人間に丸聞えだったとは。いくら、声がでかいとはいえ、何てことだ。
参ったな、それで生意気な新参者に腹を立てた男たちから袋叩きにあうという訳か。僕は自分でも驚くくらいさばさばとして、この状況を受け入れようとしていた。
その時、パッと陽の射すような明るい声が響いた。
「あなたたち、そこで何をしているの。ああ、剛司くんじゃあない。もう、話は終わったの。方向同じでしょ、一緒に帰らない?」
そう言うと一人の女性がすばやく腕を組んできた。
由紀子だった。彼女は僕のことを知ってくれていたのだ。おまけに一緒に帰ろうと誘ってくれた。それで仕方なく男たちはブツブツいいながら、囲みを解いて消えてしまった。
「ありがとう、助かったよ。あいつらに絡まれていたんだ」
僕は彼女と並んで歩きながら、礼を言った。
「そうだと思った。彼らは私の親衛隊なのよね。もちろん、彼らが勝手にそう言っているだけ。でも興味はないわ」
「剛司君、私のこと、好きなんでしょう。あなたの傍を通る度にそんな声が聞こえてくるの。最初は変な感じだったけど、不思議なものね、好きだ好きだと囁かれるのに慣れてしまうと、今度はその声が聞こえないと物足りなくなってくるの。それにあなたってとても優しいのよね。この都会で一人頑張る女には、何かそんな優しさが必要なの」
こうして僕たちの付合いは始まった。そして二人の仲は信じられないくらい急速に深まり、気付いた時には一緒に住むようになっていた。なぜ彼女が僕を選んだのかはわからない。彼女の言うとおり僕の優しさのせいだったのか、それとも、僕の「声」のおかげ?
僕はやはり道具係りに落ち着いてしまったが、彼女は劇団のスターであり続けた。しかも二人のときは家庭の優しさを兼ね備えた女性であり、僕は本当に幸せだった。
しかし、その幸せも長くは続かなかった。しばらくして彼女が劇団の主役の座を降ろされてしまったのだ。僕と暮らし始めたのは関係ないと思いたかったが、それ以外思い当たる理由はなかった。
最初は彼女も「私の実力ってこんなものだったのね」とサバサバしたように話していたが、やがて不機嫌な日が続くようになってきた。
「毎日、毎日何をイライラしているんだい。このままじゃ僕たち、駄目になってしまうよ」
「それじゃ言ってあげましょうか。私が毎日、毎日何にイライラしているか。あなたの声よ。耳の傍でがなりたてるその大声よ」
「なんだ、その言い方は。僕の声の大きいのは承知の上で一緒にいるんじゃないか」
「ああ、また大きな声で。その声に我慢できないの。もうあなたの顔なんか見たくないわ。二度とあなたの声なんか聞きたくないわ」
そんな言い争いがしばらく続いた挙句、ある日突然、彼女は書置きを残して僕のもとを去っていった。
「ごめんなさい。このまま一緒にいると私たち、本当に憎み合ってしまいそうだわ。完全に壊れる前に別れましょう。私は故郷に戻るわ。……本当は自分でも才能がないのは分かっていたの、でも認めるのが恐かったのね」
馬鹿なことに僕は彼女のあとを追わなかった。そのうち、彼女の方から謝って戻ってくるものと思っていたのだ。つまらないプライドが彼女を迎えに行くことを許さなかった。しかし彼女はそのまま戻ってこなかった。
彼女が去って初めて自分の気持ちがわかった。彼女を本当に愛していたのだ。でも「あなたの声は二度と聞きたくない」と言う彼女の言葉が僕を拒絶していた。
しばらくして、愕然とする知らせが届いた。
由紀子が結婚したというのだ。相手は幼馴染、田舎町の公務員だということだった。一時の怒りで本当に大事なものを失ってしまったのだ。しかし全てはもう遅かった。
それもこれも僕の大声のせいだった。僕がこぼす愚痴や泣き言まで同僚たちに聞かれているのでは、と想像するともう耐えられなかった。都会の喧騒よりも自分の声のほうがうるさいなんて。
ここから
結局、僕は会社を辞めて故郷に戻った。そして家を継ぎ、野菜を作り始めたのだ。
僕は全てを忘れるために仕事に没頭した。野菜作りは僕の性に合っていたようだった。植物はいくら話し掛けてもうるさいとは言い返さない。逆に、僕の野菜は出来がいいと評判になってきたのだ。「綺麗だよ。もっと赤くなろう」とか「立派な葉だ。どんどん伸びろ」とたっぷり誉めてやっていたのが効いたに違いない。
また、僕は他人の頭にガンガン響くと言う自分の大声についても少し勉強し、大学の研究室で調べてもらってもみた。ひょっとしたら、テレパシーのたぐいかなとも空想したが、彼らの見解では僕の声は特殊な周波数の組合せで構成されていて、極めて減衰しにくい音波となって伝わっているのではないかということだった。
「今だから素直に謝れるのだけど、私はあなたを随分傷つけてしまったわよね。逃げ出すように別れたこと、黙って結婚したこと、あなたの声についてひどいことを言ったこと」
「全部、本当だから仕方ないじゃないか。僕も君を迎えに行かなかったし」
「それも声のことを言われたのを気にしたからでしょう。あの時は全てがうまく行かなくて、イライラしていたの。逃げるためにあんなことを言ったのね」
「でも、どうして別れたんだい、旦那さんと」
僕は一番気になっていたことを尋ねた。しかし由紀子は僕の質問には答えず、こちらを見つめて聞いてきた。
「何故、会社をやめて故郷に帰ったの。あなたはちっとも悪くなかったのに」
「君がいなくなり東京にいる意味がなくなってしまったし、都会で他人にがなりたてている自分がとても惨めで滑稽に思えてきたんだ。もう、人と話すのが嫌になってしまったんだよ」
「でも、私たちが別れたのはあなたの声のせいじゃあないわよ。単にお互いをあの瞬間、見失っただけ。別の人と結婚したのもあなたと別れたショックからだったと分かったわ。だからすぐ、この結婚は間違っていると気付いて別れたの」
彼女は六年前のことを昨日のようにそう言った。あの時、どちらかがほんの少し素直になっていれば……。後悔は尽きなかった。
「それからはずっと一人で?」
「そう。今ではこの子だけが生きがいだったの」
その時、一本の電話が入り、急に部屋の中が騒がしくなった。
「何、遭難者が自力で下山して来たって?」
受話器を握って叫ぶ捜索隊長の顔に全員が集中した。
「何人だ、えっ、一人で?」
やがて担ぎ込まれる様にして本部に入ってきたのは大人だった。皆がその男に向かって殺到したが隊員に阻まれ、男はそのまま別室に連れていかれた。僕たちはその場で情報を待つしかなかった。
大人が一人で下山したということは今、子供たちの面倒は誰が見ているのだ?
隊長が男からの事情聴取を終えて出てきた時、家族たちは期待を込めて隊長を見た。しかし、隊長は少しうつ向き気味に誰とも視線を合わせないようにして言った。
「えー残念ですが、少し状況が変わりました。でも決して心配しないで下さい」
だが隊長の言葉とは逆にその場は一気に騒然とした。そんな風に切り出されて落ち着ける人間はいるはずなかった。
「彼はこのボーイスカウトの責任者ですが、残念ながら我々を遭難者たちのところに案内することはできません。彼は避難の途中で、彼の話では助けを呼ぶためにグループと別れ、下山したと言っています」
「それなら、一行のところに案内できるはずじゃないか」
遭難している子の家族の一人が声をあげた。
「ところが下山途中で道に迷い、グループが今どこにいるか全く分からないそうです。彼らは増水の危険が出てきた沢筋から尾根に移動する途中で別れたそうです。岩切渓谷は俗に九十九谷といわれるくらい複雑で一旦、登山コースから離れると自分がどこにいるか知るのはベテランでも困難になるのです」
「でも、子供たちはもう一人の方がちゃんと面倒を見て、危険な目にはあっていないんでしょう?」
今度は別の母親が、少し声を震わせながら聞いた。
「それが、もう一人はかなりひどい怪我をしているそうなんです。子供たちがその大人の世話をしている状態だったそうです」
「何だって!」
「それじゃあ、あいつは子供たちを見捨てて一人逃げてきたと言うことじゃあないか!」
家族たちは口々に非難の声を上げた。
「この雨でヘリコプターは飛べません。我々は急ぐ必要が出てきました。遅れると雨と霧でますます発見が困難になるでしょうし、土砂崩れの恐れも出てきます。今、ここに集まっているメンバーで捜索を開始する積もりです」
「我々も一緒に行くぞ」
一人の父親が叫んだ。まわりの男たちも次々に同意の声をあげた。
「経験のある方だけお願いします。装備の予備もそれほどありませんし、何と言っても、二次遭難の危険は冒したくありませんから」
隊長はきっぱり言って、声をあげ続ける親たちを制した。
由紀子はさっきからじっと黙り込んで下を向いていた。
「私にはあの子しかいないのに」
由紀子は切れ切れに、すすり泣くように呟いた。そして僕に向かって言った。
「あの子を助けて」
僕は初めここに来た時は何を自分がしようとしているのか、分からなかった。ただ、彼女の力になれるかもしれないと思っただけだ。しかし、今は自分の役割が分かっていた。僕が子供を捜しに行くのだ。
「こんなことを急に言っても信じてもらえないかもしれないけど、別れた理由は子供のこと、そしてあなたのことだったの。全部私が悪いんだわ。夫は子供のことをずっと疑っていたの」
「どういうこと? まさか、その子は……」
「そう、響樹はあなたの子なの。黙っていたけど、夫には何となく分かっていたようで、ある日、喧嘩をした時問い詰められて話したの。離婚はあの人が切り出し、私も同意したわ。あの子の父親はあなたなの」
「まさか、だって」
確かに僕たちは一年間一緒に暮らした。でも。
僕はこの突然の告白に動転してしまった。しかし、僕をじっと見詰める彼女のその瞳に嘘はないと思いたかった。
ここから
苗字をもっと特別なものにする。
「僕は古川響樹の関係者です。僕も捜索隊に参加させてください」
僕はすでに四人が名乗り出ていた志願者の中に加わった。
捜索隊総勢二十人は雨の中、沢伝いに遭難場所を目指して歩き始めた。隊長の計画はこのままキャンプ予定地まで進み、そこから捜索隊を分けて、可能性の高い支流の尾根筋を順に探すというものだった。尾根をしらみつぶしに捜索するにはどうしようもなく小人数だったが、今や時間が最も優先される。捜索隊が増援されるまでこの人間で頑張るしかなかった。
我々はジープに分乗し、キャンプ場に向かう最終駐車場まで一気に駆け上った。そこにはこのキャンプにやってきた子供たちの乗ってきた車が四台残されたままだった。ここからは歩くしかなかった。
僕は雨の中を歩きながらいつしか、堂堂巡りの考えに陥っていた。
本当にこの子は僕の息子なんだろうか。可能性はあまり高くないはずだ。あの当時はまだ、由紀子も主役の座についていたから子供を作るという選択肢はなかったのだ。彼女は子供を救いたいばかりにそんな嘘を言ったのでは。
やがて山道は考え事をする余裕もないほど険しくなり、岩切川の本流に注ぎ込む支流との分岐点にやってきた。キャンプ予定地はこの近くの中洲のはずだが、最終的にどこにテントを張ったかは分からなかった。このあたりの中洲が既に濁流に飲み込まれているところを見るともう少し上流なんだろう。それらしいところを探すしかなかった。
この時点でみんな、既にずぶぬれだった。
「ようし、ここで一班分かれよう。山田は六人を連れて東の支流ぞいの道を遡ってくれ。連絡は無線で随時行うこと」
隊長の指示で捜索隊員はかねてからの訓練通りなのだろう、六人が分かれた。それに家族のうちから二人が続いた。彼らは黙々と支流沿いの小道を上がっていき、すぐ霧の中に消えた。
「我々はもう少し本流を遡り、もう一本の支流で分かれる。ここで見つからなければ、このメンバーでの捜索は無理になる。最悪の場合は翌日に再開するしかない」
隊長の言葉は少し冷たく響いたが、それしかないのはこの雨の中を歩いてきた者たちには理解できた。誰も何も言わなかった。
しかし大雨の中、怪我をした大人と子供たちだけで、無事に一夜を越せるのだろうか?
分岐点を西に歩き始めた我々は大声で子供たちを呼んだ。
「おおい、誰かいるか? 探しに来たぞ」
「和夫、お父さんだぞ」
みんな、口々に叫んだが、その声は一層強くなる風雨にかき消されて百メートルも届きそうもなかった。
「よし、ここで野村の班は西に行ってくれ。先には例の中洲があるから、そちらに進んだ可能性は高いはずだ」
隊長の声に野村と呼ばれた隊員が一歩離れて立った。僕は可能性が高いと聞いて思わずそちらに寄った。
「私も西に行かせてください」
「一番きつい道ですよ」
「構いません」
僕はまだ一度も会ったことのない響樹という、自分の息子かもしれない子供と強く引き合うのを感じた。必ず見つけ出してみせる。そうしたら、由紀子とも……。
「おおい、誰かいないか?」
「助けに来たぞ、聞こえたら返事をしろ」
我々六人のグループは一歩一歩進みながら、左右の霧の中に声を限りに叫んだ。
何故、この声が聞こえないんだ。僕の声はでかいんじゃあなかったのか。こんな時に役に立たなくてどうする。必ず、響樹を見つけ出すんだ。
「おおい!」
叫びながら、キャンプ場の中洲までようやくやってきた。しかしここにも子供たちがいた痕跡はなかった。一体、今どこにいるのだ。一同の気持ちは暗くなり、声もかすれ気味になっていた。僕の声も叫び過ぎてかれてきた。
雨はますますひどくなり、日没も近づいている。もう、かろうじて足元が見えるだけだ。あと一時間もしないうちに真っ暗になるだろう。そうなっては終わりだ。ベテランの隊員たちでも山麓の捜索隊本部に帰還するのがやっとのことだろう。諦めムードが隊員たちを包んだ。
野村隊員が無線機を取り出し、何事か囁いた。
「……一旦弾き返して、出直しましょう……」
確かにそう進言しているのが聞こえた。他の隊員も野村の顔色を覗うように頷きかけている。絶対駄目だ。
「おーい響樹、どこだー、ひびきー」
僕は最後の力を振り絞って叫んだ。
「とうさんだぞー」
僕の声は雨を突きぬけ、岩切岳に響き渡った。
その時、隊員の一人が叫んだ。
「静かにしろ、何か聞こえたぞ」
「…………」
誰も一言も発せず、雨の中で耳を澄ました。
「……おとうさん、こっちだよ。助けて……」
子供の声だった。僕にはそれが響樹の声だという確信があった。僕の声が届いたんだ。
捜索隊は色めき立った。
「こちら野村隊。本隊応答せよ。今、子供の声を捉えた。流れ沢から東の方角、多分そちらとの間だ。何? そちらでも声を確認した?すごいぞ。了解。お互い挟み撃ちで探そう」
「子供の声を本隊でも確認したらしい。見つかるぞ」
どうやら我々の東側を捜索していた本隊でも子供の声が聞こえたらしい。捜索隊はこれから東に向かって山の中を突っ切るらしかった。しかし僕はもう一歩も動けなかった。
「ご苦労様です。これからは我々に任せてください。必ず息子さんたちは救い出して見せます」
プロは現金なものだ。実際に子供たちの声が聞えて無事と分かると、足もたちどころに軽くなるものらしい。野村隊員は元気にそう言うと、本部までの道案内に一名の隊員を僕たちに残してあっという間に沢を上っていった。
あたりは相変わらず凄い風雨が吹き荒れていたが、しっかりと息子の声だけは響いていた。
「響樹は本当によく頑張った。ずっと声を出して、捜索隊を呼び続けたんだから」
僕たちは響樹の眠っているベッドの傍に立って、静かに寝息を立てている子供の顔を見つめていた。
「それは、あなたの声が聞こえたからよ」
「捜索隊は声から推測したよりずっと離れたところでこの子たちを見つけたらしい。あの距離で子供の声が聞こえたのは奇跡だと野村さんも言っていたよ」
「私には分かっていたわ。あなたの声はきっと響樹に届くだろうと。そしてあの子の声もきっと返ってくるだろうと。……だってあなたの子供なんですもの」
僕と同じ声を持つ男の子。これ以上の親子の証明はなかった。
初めて彼の声を聞いて以来、響樹への愛おしさは増すばかりであった。しかし彼がこれから直面するであろう現実を考えると……。
「父親似の大きな声か。これからお前は苦労するぞ……」
僕は響樹の寝顔を見つめながらささやいた。
「でも大丈夫!きっと、最後には彼の声を愛する可愛い女の子と結ばれるのよ」
由紀子はにっこり笑って、僕に寄り添った。