竜舎の長い一日(中編)
帰ってきた竜舎の二階では幼生たちがばたばたと走り回り、騒音の二重奏を奏でていた。
やっぱりこうなってたか、そうだと思ったよ。
「ただいま、今戻ったからこれからごはんの用意するよー」
と扉を開けつつ声をかけた。
一瞬音が止まり、ごろごろと階段を転げ落ちる二重奏に早変わり。もちろん奇声の二重奏のおまけ付きだ。いくら鱗で守られているとはいえ、痛くないんだろうか。
まあおとなしく走り回ってくれてたのなら文句はない。内装が廃屋に変わり果てた様を初めて見た日の、愕然とした気持ちは忘れられない。
「おかえりー」
「ぎゃぎゃぎゃ!」
目の前で急停止して期待に満ちた瞳で僕を見上げてくる。いつもこうなら可愛いんだけど、残念ながら飯の直前にしか見られない貴重な瞬間だ。
腰を落として顎の下をぐりぐりしてやると気持ちよさそうに目を瞑る。幼生とはいえ、竜からの信頼はやはり嬉しい。
しばらく構った後で、よっ、と腰を伸ばす。
「じゃあ部屋に戻っててね、すぐ持っていくから」
はーい、と元気な声で駆けだしていくのを見送った。どの辺がお姉さんなのか首をかしげたくなるがまあいい。
そのまま食糧庫に向かった僕は、とんでもないものと遭遇した。
綺麗に畳まれた襤褸布は先ほどの美人さんが着ていたもの。
それに赤茶けた竜がじっと視線を注いでいる。口元からは猛獣さながらに涎が垂れていた。
へんたいだー! と叫びそうになった自分を押し殺して後ずさろうとしたその時、地面を擦る僅かな音を立ててしまった。
こちらに気づいて振り返る竜の目は赤く染まっていて。まだ幼いころに竜舎長に聞いた記憶が確かなら……魔術に縛られ使役されている……
ゆっくりと、蛇が鎌首をもたげるように首を上げ、こちらに近寄ってくる。威嚇するように僕の前まで顔を下げて。僕は蛇に睨まれた蛙のように、足が動かない。
竜の後ろの床には、地面から成竜が飛び出せるほどの穴が開いていた。
「タマゴ、ハ、ドコダ……」
抑揚のない聞き取りにくい声で、確かにそう言った。
――卵だって? 朝に聞いた話が脳裏に甦ってくる。帝国の人間と、地竜に襲われた話が。
「コタエヌナラ、クッテオマエノノウニチョクセツキイテヤロウ……」
地に縫い付けられたように動かない、僕の足。答える訳にはいかない、だけどこのままじゃ――
冷や汗すら流れない、脳の奥からじんと痺れるほどの恐怖。
それを解除してくれたのは、また姫君の声だった。
「わたしのごはんたちからいやなにおいしてるー!」
「馬鹿、こっち来るなっ!」
僕は叫んで彼女のもとに走る。一歩でも、半歩でもいい、遠ざけなきゃダメだ、扉の外まで連れ出さなきゃ……!
判ってるんだ、僕の背中のすぐ後ろに、いたぶるようにぴったりと地竜が張り付いてる事なんて。それでも。
だけどこれしかないじゃないか、外にさえ出せばそこは風竜の領域なんだ。このだだっ広い何の障害物のない竜舎の敷地なら、風竜の思うがままに逃げられる。地竜の届かない空高くへ。外に出る瞬間の一撃だけでいい、僕の体が持ってくれれば勝ちだ。
幼生の元に辿り着くまで、実際には十秒もなかっただろう。感覚的には何倍もの時間に引き伸ばされ、何もかもが遅く感じていたけれど。
後から思えば、生涯最高の走りと絶妙な均衡感覚を発揮したに違いなかった。とにかく僕は走りながら彼女を抱え、そのまま扉まで最高速で辿り着いてやる。だけど僕にできたのはそこまでだった。
扉の前に大穴が開き、同時にもう一体の地竜が現れ、成す術もなく巻きつかれ絡めとられるまで、一秒も有ったか無かったか。
しまった、もう一体いたのか、もしかしたらそれ以上――とたったそれだけ考えたところで、骨が砕けたかと思うほど強く体を締め上げられ、痛みと呼吸困難の中僕は意識を手放した。
時間は少し前に遡る。
竜舎長とその相方であった風竜は数年ぶりに顔を合わせていた。
お互いに元気そうだと笑い、竜舎長は私室に彼女を招き入れた。
「大したもてなしもできねえが茶でも飲んでくれ。つーかなんでウチの作業服なんて着てんだ? それも存外似合っちゃいるが趣味じゃねえだろう」
「着ざるを得なかったんだよ。それも突然ここに来ることになった理由の一つってわけだ」
「おだやかな話じゃなさそうだな、って判っちまうのが悲しいねえ」
大人しくしていれば、と前置きのつく大層な美人は、ふん、と鼻を鳴らした。
「揉め事だと判って嬉しい、の間違いだろう、そなたの場合は」
「否定はしねえけどな」
と獰猛な顔で笑って続きを促した。
「で何があったんだ? 茶飲み話で済めばいいがそれどころじゃなさそうだな」
土産話は落ち着いたら話すさ、と言い置いて、紅茶の香りを楽しむように目を閉じたまま彼女は話し始めた。
今回の旅は、ここ十年以上比較的静かになっている帝国領のさらに北側、北端の地が目的だった。
それ自体は予想以上に実りあるものだったが、帝国がもしかすると活動期に入ったのかもしれない。
徒歩で街を歩けば、行き交う人々や商店からは物資の不足と価格の高騰が聞こえてくる。夜間に空から見れば、各地の城塞には異常なほどの数の篝火が立てられ、夜を徹して訓練する兵士の姿。どちらも軍事行動が近くなってきていることを匂わせている。また小競り合いが始まり戦争に突入するかもしれない。
その動きの一つと思われるのが、帝国風の人間と地竜から襲撃を受けたことだ。
元々、北西の妖精郷に顔を出して次の来訪の先触れとしておき、一端ここに戻って情報交換する予定を立てていた。
が、予想外の実りとなった氷竜と番って出来た卵を抱いた直後に襲撃されたため、北西の妖精郷は諦めて卵を抱えたまま逃げ回る羽目になり、ようやく巻けたようなのでここに戻ってきた。
奴らの目的は判らないが、風竜である自分が王国の竜騎士団と思われたのかもしれないし、もしかしたら氷竜との卵を産んだのが帝国のものを奪ったと逆鱗に触れたのかもしれない。そんなことは知ったことではないが。
「というわけだ。短い話ながらも楽しそうだろう?」
「おいおい。今更最前線に出るほど酔狂でも元気でもねえぞ。精々魔物が十匹ぐらいじゃねえと俺一人じゃ無理だ」
やや顔を顰めた竜舎長に風竜は呆れた声を投げつけた。
「誰が一人で何とかする類の話をしたというんだ、まったく戦闘狂は変わらんな。まあそれはいい。例の少年にはすでに話してあるんだが、さっき言った卵の世話を頼みたい。構わないか?」
「もちろんこっちもそのつもりだから大丈夫だが、すぐまた出るのか? 巻いたと言っても簡単に諦めてくれる気がしないんだが」
前の時もこの男はこんな顔をしたな……と風竜は数年前にも似たやり取りがあった事を思い出し、懐かしさが込み上げる。
心配、強がり、寂しさ、期待、いろんな感情が混ざっている、人間ならではの複雑な表情。昔はそれがなんなのかよくわからなかったが、竜である自分も人と長く過ごす間には変わるものらしい。
この男がこんな顔をするのは自分に対してだけだ、という事に気づいた時の己の感情も竜にしては複雑なものだった。
「帝国がきな臭くなってきているからな、しばらくはこの王国に留まるのもいいかと思っている。思えば竜騎士団に所属して以来、仕事でしかこの王国を見たことがない。だから時間があるときで構わないから付き合ってもらえると嬉しい」
貴方が心配だから王国に留まる、という意味合いは言外に塗り込めて逗留の意だけを伝えておく。
すぐに出る、という返事しか予想していなかったのだろうか。目の前の男は唖然とした顔でこちらを見た。
何を言われたのかよく判らない、という表情は判りやすくていい。
「お、おう……時間があればな」
ぼそりと一言だけ返事が返ってきた。
「それはそれとして……少し嫌な予感がするんだ。竜の逆鱗がピリピリしている。もしかしたらお前の言う通りまだ追われているのかもしれん」
「何言ってんだ、今は竜の姿じゃないだろ」
「逆鱗は人の姿にあっても存在しているよ。……どこにあるのか知りたい?」
竜舎長ともあろう者がむせ返った。あの少年には見せられん無様な姿だった。
いや今はこんなことをしている場合じゃない。
「置いてきた卵が気になる、竜舎まで飛ぶから付き合え!」
私が窓を開け身を乗り出したその時、すさまじい破壊音と共に竜舎の屋根が吹き飛び、うねる様に地竜の姿が飛び出した。
忌々しい、やはり追ってきていたのか。地に縛られた地竜ごときは地を這っていればいいものを。
刀一本を手に引っ掴んだ竜舎長を抱え込んで窓から一気に身を躍らせる。空は私たちの領域だ、地竜が舞うなど許されるものか。
全力で竜舎に向かった私たちは、しかし奴らを阻むことはできなかった。
最初に飛び出した地竜に巻き付かれた、人の少年と竜の幼生が見えた。
風竜の意識が怒りに染まる。我が娘に小汚い手で触れるな!
「そいつらに触れるな!」
現役時代と変わらぬ威圧感のある声で吠え、竜舎長が抜刀する。
彼我の間には、無手の地竜が立ちふさがり、その向こうで帝国の人間が振り返った。
「これはこれは。元竜騎士の副長殿ではありませんか。二十年振りになりますかねえ?」
「誰だてめえ」
「おや。元天才騎士様は私を覚えていらっしゃらない。これはこれは悲しいことです」
「こそ泥に知り合いは居ねえ。さっさとその二人を離して牢屋に戻れ」
どうやら元相方と帝国の人間は知己のようだった。相方の方は忘れているようだが。
その上確認する気もないらしい。もしかしたら私も会った事があるのかもしれないが、思い出す気もない。
「お断りします。竜の卵を取り戻して私はもう一度国の中枢に立つのです。ついでに二十年前の恨みもここで晴らすことができようとは、今日はいい日になりそうですよ」
何者かわからないが、この帝国の人間の身勝手な言い分など聞くに堪えない。竜の私には。
「愚かな妄想など地の底で一人で垂れ流すがいい、人間。今すぐ我が娘を返せば、生きていてよかったと思える程度の苦痛で許してやる」
「お断りだと申し上げたでしょう。弱っている風竜など、私の魔術で使役する地竜の敵ではない」
「なら死ねずに続く苦痛をくれてやる」
もう会話は終わりだ。空気を穢す臭い息など地上には不要。
声帯を震わせ戦いの狼煙を上げる。生みだした衝撃の波は一瞬でこの男を行動不能に追い込む。
はずだった。
割り込んだ無手の地竜が、それを阻んでいた。
「だから言ったじゃありませんか。竜にも戻れないほど弱った風竜など敵ではないと。
この地竜を遊び相手に置いていって差し上げます。それでは失礼しますよ」
竜舎長が切り込む。が、こちらも振り回された尾に阻まれる。
「そこで指をくわえて見ているがいい、私の腕を奪った罪はこの程度では済まさぬ。貴様から何もかも奪ってやる」
帝国の人間は、狂ったように哄笑しながら、もう一体の地竜と共に竜騎士に憧れる少年と風竜の娘を連れ去っていく。
力の戻りきらない風竜と老いた元竜騎士では、地竜一体ですら相手取るに容易ではなく、帝国の人間ともう一体の地竜を取り逃がした。
屋根の吹き飛んだ竜舎と、倒れ伏した地竜。それが十数分の死闘の末、私たちの手元に残った結果だった。
「ちび助の方はやはり無事だった。寝室までは回らなかったらしいな。それと卵は無事だった。やつらは保温器など知らないのだろう」
舎の中から竜舎長が手に幼生を抱えて戻ってくる。
「何故だ? 卵を狙ってきた口ぶりだったが、そっちははったりだったという事か?」
私の疑問に竜舎長は肩をすくめた。
「さあな。はったりだったのかもしれんし、気が狂っているのかもしれん。俺に復讐したそうだったしな」
「きゅる…」
と小さな鳴き声が聞こえた。この幼生は、今も竜騎士団に所属する友人の子だ。この子だけでも無事なのは嬉しい、嬉しいが……
膝をついて項垂れる私の頭に、ぽん、と手が置かれた。この手は何のつもりだ?
「そんな顔すんな。絶対に取り戻す、それ以外の選択肢なんかないだろ?」
それは勿論そうだ……だが今の私では地竜一体の相手すらままならないのだ。二人でようやくだったのを判っているのかこの男は。
「誰が二人で何とかする類の話をしたっていうんだ?」
それは私の台詞ッ……!
「天剣に連絡を付けてくる。必ず引っ張ってくるから待ってろ、勝手に動くなよ」
戦いの疲労は隠しきれないが、友人の子を私に押し付けて立ち上がる。
いや私が飛んで行った方が早い。そう告げると、
「うるせえ飯でも食って寝てろ」
と返ってきた。通常、人間が四十年も生きれば相応に丸くなるものだと私は知っている。だが残念ながらこの男はこういう人間だ。
体力を回復させておけ、という事なのだろうと解釈し、見送ることにした。どちらにしてもこのままで次戦うことになったら耐え切れない。
竜舎の中に入り、食糧庫に向かう。遠慮なく一番うまいものを貰うつもりだった。抱えた幼生にも食わせてやらないと。食べ終わったらこの子の話を聞いて、眠れそうなら少し寝るのもいいかもしれない。
襤褸布――元は自分が着ていた服――は地竜の忌々しい匂いがこびりついていたので燃やしておく。風を巡らせ換気をしてみたが、地面に開けられた大穴から漂ってくるので意味がない。
さっさと欲しいものだけ持って子供たちの寝室に移動すると、ようやく落ち着けた気がする。
自分は食べ終わり、友人の子がわふわふと食べるのを見ていると――睡魔が襲ってきた。
ここ数日はどうしても緊張を解くことができなかったから、やはり疲れは溜まっている。しばらく寝かせてもらおう。馬の嘶きと蹄の音を遠くに聞きながら、私は幼生を抱えたままで身体を横にした。
どこかで僕を呼ぶ声が聞こえる。
うるさいなあ。もうちょっと寝かせてくれないかな。体中が痛くて動きたくないんだ。
「……起きて! ねえ、起きてってば!」
そんな強く揺すられたら痛くて寝れないじゃないか。やめてほしい……痛みのせいで少しずつ意識がはっきりしてくる。一緒にいた姫…は大丈夫なのか!?
一瞬で目が覚めた。残念ながら、痛みのせいでがばっと起き上がったとはとても言えない。
ろっ骨を走る痛みに顔を顰めた僕の目の前には、気の強そうな眼差しを丸くした一人の少女がいた。
「起こしてくれてありがとう。もう少し優しく起こしてくれたらもっと嬉しかったけど。ええと、君は?」
僕と同い年ぐらいだろうか。誰かに似てる気がする。将来はきっと美人になるだろうな。
「ね、僕と一緒に竜を見なかった? 子供の竜。地竜に捕まってここに連れてこられたんだと思うんだけど、何か知らない? というかここは何処なんだろう?」
「……その子供の竜は貴方の何なの?」
辺りを見渡していたら返事が返ってきた。ここは牢屋だ、いや牢屋を中から見たことはないけど。壁は岩でできてるみたいだけど、鉄格子の嵌ったいかにも牢屋のような部屋の中に僕たちはいた。
「ううん、なんて言えばいいんだろう」
少し考えて言葉をつづけた。
僕は竜を育てる所に勤めていて、働き始めた最初のころから、ずっとその子の世話をしてきたんだ。まだまだ見習いみたいな半人前だけど、そんな僕に最近はだいぶ懐いてくれるようになってすごく可愛くてしょうがない。いつか巣立っていくんだって判ってるけど、生涯忘れることはできないだろうね。ていうか、竜を育てるって王国しかやってないらしいけど話してる意味は伝わる?
そう聞くと、彼女はこくこくと首を縦に振った。話に興奮しているのか、頬が紅潮している。竜好きに悪い人はいない。変な人は多いけども。
よかった。と話を続ける。
僕に懐いてくれてるのは勿論嬉しいんだけど、その子の親が帝国に絡まれたみたいで、そのとばっちりで僕とその子が一緒に地竜に捕まってしまったんだ。ただ今ここに居ないってことは、うまく逃げられたのかもしれない。無事でいてくれたらいいんだけど心配だよ。
そんな話をしていると、陰気臭い恰好をした男が部屋の前に現れた。
「目が覚めたようだな、小僧」
間違いない、こいつはあの時の地竜と関係がある。判りやすい悪党台詞が証拠だ。
「誰ですか? 知らないお爺ちゃんについていっちゃいけないと言われてるので家に帰してください」
白髪のお爺ちゃんはピクリと頬を引き攣らせた。
「減らず口を叩く小僧だ、あの男にそっくりなのが忌々しい。
……卵は何処にある? それさえ言えば帰してやる」
嘘ですね、僕にだって判ります。話を聞いたら用済みだと目が言っています。あの男って誰だろう。竜舎長のことだろうか?
黙秘一択だろうと思ったその時、女の子が僕の腕を抑えながら、守る様に前に移動した。え、それは男の僕がしたいことなんですけど。
知りません、と答える前に、女の子が口を開いた。
「話せば帰してもらえるのか?」
いやいや待ってください僕は話す気はありませんからね? それになんで君がそんな交渉をしてるのですか。知りませんと知ってるけど話さないじゃ大違いです。
「お前が知らないというから少年に聞くまでだ。言えば帰す」
あっさりと嘘をつくお爺ちゃん。正解を言えば強奪した後そのままここで飢え死にだろうし、嘘を言えば失敗の後拷問が待っている。まずい、詰んだかもしれない。
「このお爺ちゃんは帰す気なんてありませんよ。理由を強いて言うなら顔が悪党です」
ぷっと女の子が噴き出した。この状況でよく笑う余裕があるなあこの子。こっちは冷や汗だらだらものなのに。
ほら、君が笑うからお爺ちゃんの顔が怒りに変わったじゃないか。
「心底苛立たしい連中だな。少しお仕置きをした方が喋りやすいというならそうしてやる」
そう言って手をこちらに突き出してきた。そのまま詠唱を始める。しまった、魔術師だったのか!
せめてこの女の子は守らないと、そう思って腰に手を回して体を入れ替えようとしたその時少女が叫んだ。
「耳を塞いで!」
む、火炎の魔術じゃなかったのだろうか? 隷属の魔術でも使おうとしているのだろうか。慌てて耳を塞ぎながら這いずる様に前に体を割り込ませる。
耳を塞いでいてもなお痛みを感じるような高音が聞こえ。
男はそこに倒れ伏していた。
耳を塞いで、と言う女の子の声が聞こえたと思ったら、男が倒れていた。
この世には僕が説明のできない事柄が多すぎる。
鉄格子にもたれ掛かるように崩れ落ちた男を見ながら、彼女にお礼を言った。
「よく判らないけど、もしかして君がこの男を? それだったらありがとう。僕は隷属の魔術でもかけられそうになっていたのかな?」
あまり詳しくない僕でも火炎の魔術は知っている。だからそれだと思ったのだけど。
「ううん、火炎の魔術だよ」
大正解だった。じゃあ耳を塞ぐって意味ないと思うんだけど。というかこの男が倒れたのはなぜだろう。
「あたしがやったの。ちょっとは力使えるから」
ちょっとどころじゃないよねこれ。生きてはいるみたいだけど、完全に意識が飛んでる。
よっと、部屋の鍵持ってないのかこの男。間近で倒れてくれたので服を漁りやすい。まさか人の服に手を入れて漁るなんて自分がするとは思わなかったよ。そんな僕の手元を少女が後ろに張り付いて覗き込んでいる。
よし、鍵束があった。どれかがこの部屋の鍵であってほしい。
というかですね、後ろに張り付かないでくださいよ。動きにくいですから。
そう言うと、さっと離れていった。顔が赤くなっている。そうそう、恥じらいを持って頂けるとうれしいです。
顔赤くしてるくせに。と彼女もこちらを見ながら言う。誰のせいだと思ってるんですか。
鍵を一つずつ試しながら彼女に聞いてみた。
「そういえばまだ名前を伺っていませんでした。良ければ教えていただけませんか? それと何故貴方もここに?」
「ここから脱出出来たら教えてあげる」
つれない返事だった。さいですか。
「大丈夫、ちゃんと守ってあげるから」
いやそこは男に任せてほしいところです。それに騎士を目指してる僕としては、ね。まあ、武器もなく引きずるように歩くしか今はできませんけども。
「よかった、開いたよ。どうせ仲間もいるんだろうし、急いで逃げよう」
彼女の肩を借りながら部屋の外に出た。
それにしても悪党の生態は不思議だ。他人を信じられないから自分で何もかも持ち歩くのだろうか。鍵を持っていなければ、今僕たちはここから出ることもできなかっただろうに。
「出るのは出来たよ? こんな細い鉄なんてすぐ曲がるし」
なんですと? 衝撃だった。嘘を言ってるようには見えない。鉄格子を握って力を込めてみたが、全身に痛みが走ってそれどころじゃなかった。
「もーなにやってんの」
地面にしゃがみこんだ僕にまた肩を貸してくれた。世話焼き女房か。
「出られるのになんで出なかったの?」
僕のもっともな疑問に対する返答は、
「君を置いて出るわけないでしょう」
という一言だった。
幼生のことは心配だったけど、今の体で出来ることはない、とりあえず外に出よう、ということで意見の一致を見た。
一刻も早く戻って竜舎長に報告するしかない。僕の力じゃ何もできない。竜舎長がここに助けに来るまでに場所は移されてしまうかもしれないけど、出来るだけ情報を持ち帰ろう。必ず助けに戻るから待ってて。
俯く僕の肩に添えられた彼女の手。大丈夫、僕は元気ですよ。
歩いてみると、それほど大きな洞窟でもなさそうだった。横穴にいくつか部屋を作った程度だ。といっても奥に進む気は起きない。最初は警戒していたが物音ひとつしないのが不思議だ。思ってたより仲間はいないのだろうか。仲間は居なくても、地竜だけでも困るし逃げて助けを呼ぶ以外選択肢はないのだけど。
すぐに外の光が見えてきた。僕の歩みも少し早くなる。女の子も小さくやったと声を上げた。
ああ、そんなうまい話はないのだった。
切り立った崖の中腹に開いた横穴。それがこの場所だった。確かに地竜なら出入りに困ることはないだろう。そう簡単に見つかることも攻め入られることもないだろう。――ちくしょう!
それでも降りていくしかない。今の体で無事に降り切れるか判らないけど、ごつごつとした岩肌は足場に困ることはなさそうだ。
「かなりきついけど、降りようと思う。一緒に行けそう?」
そう女の子に問う。ここに残る選択肢は僕にも彼女にもない。来てもらうしかないのだ。
「もちろん。あたしを誰だと思ってんの」
誰だと言われても教えてもらってないから判らないけれど。
残してきたあの子ならそう言いそうだ。少し不思議な高揚感に包まれて僕はふっと笑いそうになる。
あと少しだけ待ってて。必ず助けを連れてくるから。
そして僕たちは、二人で絶壁に挑んだ。
今まさに天剣の竜騎士団が助けに向かっているとも知らず。