第十七話 いってきます
結果から言うとフェンリル討伐作戦は最悪の結果を招きはしなかったが、それでも良かったと言える結末でもなかった。
今回の作戦で投入された三百名のダイバーのうち、百三十八名という犠牲を出してしまった。更にアメリカのガイ・ヒリアという男が裏で糸を引いていたということもあり、これから数年アメリカは発言力を取り戻すために躍起になるだろう。
この百三十八名のダイバーが何を思って死んだのかは分からない。それでも、彼らの死んだことによってこの勝利が得られたのであれば彼らは紛れもない英雄であり、その死には確かな意味があったと讃えられるだろう。
フェンリルの隊員も殆ど死亡しており、操られていた人もその殆どが解放されたが、少なからず戦闘に巻き込まれて惜しくも死んだ者もいたそうだ。
それでも死なずに解放され、保護されたものたちもいる。当分は彼らの生活支援に力を注ぐことになるだろう。
「千早君・・・」
天宮有紗はそう弱々しくある男の名前を呼んだ。名前を呼ばれた男は何も言い返さず、静かに黙ってベットの上に寝ていた。いつもは開いているはずのその黒い瞳を隠し、まるで自分のこれからの運命を悟ったような。
俺はこれでいい。これでいいんだ。
と、周囲にそう訴えかけるようなそんな表情で一人眠っていた。
簡潔に言えば浅間千早はフェンリル討伐作戦の後、未知の病と呼ばれながらも有り得ない確率で発症する電脳症を発症させてしまった。心を無くし、彼の精神がどうして消えてしまったのかは誰にも分からないことであり、そして元には戻ってこない病であった。
有紗は慣れた手付きで彼のパジャマを脱がし、細身でありながらもそれなりとついている筋肉の体を丁寧に拭いていく。
それが終われば窓を少し軽く拭き、花瓶の水を取り替え、パイプ椅子に座り千早の手を握りしめて彼女は言うのだ。
「千早君、今日は一番私がスコアが多かったの。隊長や先輩に褒められちゃった。もう、私たちもベテラン組に入るのかな?」
そのような感じに今日も有紗は千早に一日会ったことを語るのだ。まるで、彼がそこにいて、息をして、笑っているかのように。
彼女は涙を零さなかった。それは、彼が救ったこの世界で笑い、生き続けるとそう誓ったからである。
すると、部屋のドアを開けて黒崎礼が入ってきた。
「あ、お疲れ様です。有紗さん」
礼は優しく有紗に話しかけた。毎日戦い、その消耗した精神でそのまま千早のお世話をしに病院へと行く。
本人は分かってはいないが、それでも疲労というものは彼女にも分からないうちに顔に出ていたようだ。
「いえいえ、もう慣れました。こんなのが一ヶ月も続けば」
「そう・・・ですか。無理はしないでくださいね。こんな時にあなたまで倒れてしまわれたら元も子もないですから」
「十分承知の上ですよ」
そんな苦笑いする有紗に礼は胸が締め付けられる気持ちを抱く。
彼女がどれだけ辛いか。どんな思いで今その場にいるのか。礼には少し分かる気がしたからである。
だからこそ、礼には自分が持ってきたカバンの中身を見せる必要があった。
それは、楠木穂乃果とともに浅間蓮花の携帯端末に保存されていたデータであった。これは、浅間蓮花の心臓が止まるのと同時にそのロックが解除されて中に入っているデータが外に漏れ出すという設定にしてあった。
そして、そのデータの解読が先ほど終了したのである。
「有紗さん、少しいいですか?」
有紗を連れて礼は病院の屋上へと足を運んだ。山の向こうでは落ちたはずの太陽が未だにそのオレンジ色の光を発していた。俺はまだ死んでいないぞと自己主張しているようにもそれは取らえられた。
「どうか、したんですか?」
有紗は何故自分をこんなところに呼び出したのか分からなかったので、その張本である礼にそう質問した。
礼は鞄から一つの資料を取り出し、それを有紗に渡した。
「これは?」
「これは、千早さんのお姉さんである浅間蓮花さんが自分の死亡と同時に外部に漏れるよう細工されていたデータの中身です」
有紗は不思議に思いながらもその資料をペラペラとめくり始めた。そして、最後のページでその手が止まる。
呼吸が乱れ、目が見開く。まるで、何か不思議なものでも見てしまったかのような、そんな表情であった。
「これは、本当のことなの?」
有紗はそれに書かれている内容の真偽を礼に問い正した。
「確証はありません。ですが、理論上は納得できる点があると」
その言葉を聞いた有紗はすぐその場から移動した。CDT研究室へとだ。別に明日でも良いかと思ったのだが、礼は止めはしなかった。
それは彼女も有紗と同じ気持ちだったからである。
有紗はCDT研究室の扉を勢いよく開けた。
「おやおや、随分と無作法な女性がきたね」
まるで、彼女が来るのを予期していたかのように楠木穂乃果はいつも通りの態度で有紗を出迎える。
有紗は穂乃果に近寄る。
「あの、これは本当に可能なことなんでしょうか?」
「それはやってみなければ分からない。何事もそうだろう?仮説があり、それを実行して可能かどうかを決めるのは神様じゃない。いつだって、人間自身だ」
それを聞いて有紗は少しずつ彼女本来の落ち着きを取り戻し始めた。
「だが、これを作るには難解なプログラムが必要でね。正直に言えば私が作るにしても数ヶ月はかかるかもしれない。それこそ、本体は君たちに任せることになるがね。それでもやるかい?」
「そんなに・・・」
数ヶ月という言葉を聞いて絶句した有紗だが、すぐにその瞳に光りを取り戻す。
「や、やります。私は森島千早が帰ってくるというのなら、なんだってやります。だって、千早君はいつも私を支えて、助けてくれたから。だから、だから今度は私が彼を救うんです!」
肩を息をしながらも有紗はそう最後まで自分自身の意見を言い切った。そこに嘘偽りはなく、純粋に彼女の思っていたことだ。後のことなんて知らない。今はただ、彼が戻ってくるという確率が一パーセントでもあるというのなら、それに自分自身の全てを賭ける。
そう覚悟して彼女は言った。
「分かった。じゃぁ、時間が惜しい。パーツは既に準備してある。他のプログラマーも呼んで作ることにする」
「楠木さん・・・」
「このままあいつが目覚めないのはこちらとしても目覚めが悪い。だが、私たちが相手にするのは未だに回復の事例がない電脳症だ。覚悟を決めろとは言わない。ただ、全力を尽くせ」
「はいっ!」
有紗は力を込めてそう返事をした。
という感じに浅間千早を呼び戻す一世一代の大規模な研究が始まった。それは、世界中から注目された。
浅間蓮花が残した資料によれば、理論上は電脳症を発症させたダイバーを目覚めさせることが出来るのだからである。それでも、この数十年間なんの回復の目処が立たなかったものであり、そう簡単に治ることは期待されていなかった。
当然それは本人たちも自覚していた。他からの大きな支援はそれほど望むことは出来ない。それでも、彼を再び隣立たせたいというその一心で、彼女らは精一杯取り組んだ。
例えそこに人類の為にだとか、今も電脳症で心を無くしてしまった人の為になどという気持ちはありはしない。
動機が不純と言われたとしても彼女らは何も言い返すことは出来なのかもしれない。しかし、例え彼女らの理由がそこで誠実なものだったとしても、もっと根幹にある何かを成そうという熱意が変わらないものであるというのなら、動機が不純だとしても誰もそれを攻めることはできないのかもしれない。
そうして、彼女らはこれからの時を心に刻むのだから。
八ヶ月後。
桜の花が散り、その中を黒崎礼は先ほど購入した肉まんの袋を持ちながら歩いていた。早朝ということもあり、今現在その歩道を通っているものはいない。
CDTビルに入り、受付を通って研究室へと入り込む。数にして三人、四人ぐらいだろうか。机に突っ伏して大きな山を作っている者がいる。
しかし、それとは反対にカタカタとパソコンを打つ音とともにその画面に向かって身を起こしている者がいた。
礼はその人物に近づいて声をかける。
「有紗さん、お疲れ様です。少し休憩しませんか?」
「あっ・・・うん」
手渡された熱いコーヒーを喉に流し、肉汁溢れる肉まんを口に含む。ジュワァと肉の旨さが空腹であった胃に入り、体に浸透していく。
よほど空腹であったのだろうか、有紗は肉まんを五口と、あっという間に食べてしまった。
「あ・・・」
「もう一つどうですか?」
伸ばした手が一瞬止まる。
食いしん坊な女だと思われてしまっただろうかという女として恥ずかしい気持ちが溢れてきてしまったが、空腹の前に勝てる程有紗の胃は強くはなく、一度止めてしまった手が再び動き肉まんをガッツリと掴んだ。
やってしまったと思いつつもこの空腹には耐えられず、彼女は二つ目の肉まんを食べるのであった。
「どうですか、調子は?」
「まぁ、装置自体は完成したけど、やっぱり肝心のプログラムが厳しいらしいの」
「そうですか」
装置の制作はあまり苦労はしなかったが、プログラムというものは彼女らの管轄外である。それを一人の人に任せるのはあまりにも苦ではないかと二人は思う。しかし、何度自分たちが手伝おうと言っても彼女は無理だ、出来ることはないと彼女らを拒絶してしまう。
「だって、人間の意識を電子に変えるのはまだしも、その意識自体に侵入するのって難しいことらしいから。人間の頭が元から電子でも組み込んでいたら別らしいけど」
「そうですね、私たちの脳というものは未だ未知数でありますし、到底簡単に弄れるものではないですからね。でも、我々にも出来ることがきっとあります。今は楠木さんを信じていましょう」
「うん。そうだね。私は待つって決めたんだから」
二人は奥の部屋で相変わらずキーボードを使って数字の羅列と格闘している一人の研究者の背中を見た。
六ヶ月後。
ここまで来る時間を考えるとおおよそ、一年と四ヶ月という途方もない時間を使ったということは振り返れば誰にでも分かることであった。
常人であったならばとっくの昔に諦めていたことであったことかもしれないが、彼女はいや彼女らはそれを完遂させた。諦めるのが常人であるのならば、彼女らはとっくの昔に常人ではなくなっているかもしれない。
十二月の始めということもあり、今現在京都の街には雪が降り注いでくる。徐々に街全体がクリスマスムードへと変わりつつある町並みを有紗は一人歩いていた。
黄土色のコートに深緑のマフラーをしていた。腕時計を指す時刻は六時五十七分と、辺りは暗くなっており、サラリーマンも学生もそろそろ家に帰ってもいいのではないかと思う時間帯であった。
有紗はCDTのビルに入り、受付を通って通い慣れてしまった研究室へと足を運ぶ。既に何人かいたようで、これから始まることに対して準備に取り掛かっていた。
「こんばんは、天宮」
「楠木さん」
そんな有紗を出迎えたのは相変わらずの低身長とその大きな態度の楠木穂乃果であった。彼女は両手にカップを一つずつ持っており、その一つを彼女に渡した。
「飲みたまえ、少しは落ち着くと思うぞ」
有紗は穂乃果から熱いコーヒーが入ったカップを受け取る。
「ありがとうございます」
ズズと熱い液体を有紗は飲む。先ほどまで寒かった体が暖かくなっていくのを感じる。有紗は穂乃果にお礼を言う。すると、横から工藤加奈と七宮健人がやって来た。
「よう、お疲れ。有紗」
「お疲れです、有紗さん」
二人は現悪鬼隊の隊長と隊員としてこの場にやって来た。そして、これから起こるであろう出来事をその瞳に刻む為に。
「なぁ、有紗。もし、向こうで千早に会うことがあったらサボった分、働かせるぞと言っておいてくれ」
「わ、分かりました」
その加奈の言動に有紗はぎこちなく返事をする。二人に軽く頭を下げると、有紗は一人更衣室へと移動した。
自分の名前の書いてあるスーツに体を通して、研究室に戻った。すると、黒崎礼も来たようで有紗に向かって軽く微笑む。
「やっとですね。有紗さん」
「本当にやっとですよ。長かったけど、これで私はもう一度前に進める。千早君が私を助けてくれたように、今度は私が千早君を助けてみます」
「・・・ふふ、羨ましいですね」
何故か微笑む礼のその言動に有紗は不思議と首を傾げる。
「?」
「有紗さんは千早さんのことを本当に好きでいるんですね」
と、礼がそう言うと有紗は顔を真っ赤にしながら後ずさる。
「えっ、いや、そういうんじゃないですよ。いや、本当に」
その慌てっぷりは何処からどう見ても意表を突かれて焦っている純情な一人の乙女であった。その状況に礼はクスクスと笑う。
「ちょっともう、からかわないでくださいよ」
「私は別にからかったつもりはないんですがね。まぁ、それでも有紗さんが千早さんのことを大切に思っているのは良いことじゃありませんか」
「・・・それは、否定しない」
研究室にある一つの小部屋。そのガラス張りの部屋の中には一人の男が台座に寝ていた。少し痩せこけているように見えるが、それでもあの時と何かも変わらない彼がそこで寝ていた。
礼はガラスに手を付きながら寝ている男、千早を見た。
「有紗さん、私は千早さんに勇気を貰ったんです」
「勇気?」
「はい、私の仕事は皆さんを見送ることしか出来ません。確かにその分私は彼らの最大限のサポートをします。けど、いつも通り笑いながら行って、消えていった人はたくさんいるんです。たくさん・・・その中で私は孤独を感じました。私だけがここから置いていかれるのだと」
礼は自分の心の叫びを有紗に零した。
「ですが、有紗さん。私は千早さんが教えてくれたんですよ。私は一人なんかじゃない。
決して、孤独じゃないって。だから、私も有紗さんに負けないぐらい千早さんを助けたいと思っています」
真剣な眼差しで礼は有紗にそう言った。
その気持ちは礼の心からの本心であり、この一年と四ヶ月で自分の中で生まれた答えでもあった。
ダイバーにはダイバーの覚悟があり、オペレーターにはオペレーターなりの覚悟というものが存在する。それを一概にして分けることは出来ない。そもそもが彼らは違うのだから。
だけど、それでも彼女らは前に進むのだ。その先に待っているのがなんであろうとも。
「さぁ、そろそろ時間だな。天宮、頼んだぞ」
穂乃果に言われ、有紗は千早が乗っている台座の反対側にある台座に寝転がる。そこに礼と穂乃果が来てケーブルを千早の頭につけたヘッドギアに装着する。そのケーブルを反対側の台座に寝た有紗のヘッドギアに接続する。
これが浅間蓮花の生み出した最後の希望。ニューロコネクター。対象者の神経に接続して、直接人間の脳にダイブする装置である。
彼女はそのことを予期していたのか、そんなことは分からない。だが、それでも浅間蓮花が残したこの遺産によって浅間千早を含む、電脳症を発症した者をこれで呼び覚ますことが出来るかもしれない。
そんな淡い希望を彼女らは掴んだのだ。
「それじゃぁ、有紗さん。千早さんのこと、お願いしますね」
礼は軽く手を振ってその小部屋から移動する。相対する二人をこの一連の関係者らはガラス越しにそれを見守る。
この選択が悪かったのか、良かったのかと言われれば正直に言えば難しい問題であるが、それでも彼女らはそれを必要とした。だからこそ、手に掴んだのかもしれない。掴むことが出来たのかもしれない。
この一年四ヶ月という長い時間の中、浅間千早という男が何を思って何を感じたのかは彼女らにも神様にもきっと分からない。
これが上手くいく保証は何処にもないが、それでも彼女らは彼に手を伸ばし続け、いつの日か彼がその手を掴む日を今か今かと待ち望んでいるのだ。
有紗はゆっくりと目を閉じ、誰にも聞こえない声で言った。
「いってきます」
と、言うことで『ハレルヤボーダーライン』はこれにて終了になります。もう少し与太話でも入れればなと思っていたんですが、作者も思っている以上にストーリー重視になってしまい、こんなにも速く終わったことを見苦しく思います。最後までお付き合いありがとうございました。
それでは皆様、またこの世界のどこかでお会いしましょう( ̄^ ̄)ゞ




