白に夢(完)
気が付くと視線になっていた。体がないという事は酷く居心地の悪い事だった。私は手始めに指先に力を入れようと思ったが、動くのは私の脳内での指先のみで、実際には何も動くことはなかった。私はここで気が付く前の記憶を辿ることにした。それは、そうすること以外に特にできることはなかったからであり、特に意味はなかった。昨晩私は、友人と二人で駅前で話し込んでしまい、帰宅が遅くなったので、親と顔を合わせることもなく眠りについたはずだった。布団に入るまでは覚えているのだが、そこからは何も記憶がない。私は、視線になったという稀有な状況を踏まえて、これを夢の中であると仮定することにした。そう考えれば、今の状況は特別焦りを感じるべきことではない。私はその考えに至って初めて自分が焦っていたという事実に気付いた。きっとそれは、この夢の世界があまりにもリアルだったからだ。身体はないが、臭いや音も聞こえたし、なにより意識がはっきりしていた。自分が実体のないものになる機会など今まで当然経験したことのない私は、この状況に高揚していた。私は取り立ててすることのない現状に変化を加えたくなり、全ての視線がそうであるように自分の視界に意識を向けてみることにした。そこで初めて私はとてつもなく広い、真っ白な部屋を上空から眺めていることに気付いた。サッカーグラウンド程の広い部屋の中央には二人掛けの白いソファーが二つと、白いテーブルが置かれている。部屋の広さに比べると、そのこじんまりとした家具たちはあまりにもアンバランスであり、部屋は無意味に広すぎた。よく見れば家具の白さは部屋のそれよりも濁っている。まるで煙草の煙でくすんでしまったかの様なその白に、私は何故か落ち着かなさを感じた。その理由は私には全く理解することはできない。だが、そもそも理解する必要もない。気が付くとソファーには二人の人間が向かい合って座っている。一人は白衣を着ている老人で、その白衣の白すぎる白さは私に病院を彷彿させた。もう一人は私と同じ十七、八ぐらいの青年で、彼の体は病的に細く見えた。青年は必死に老人に何かを語り掛けていたが、ここからは距離が遠すぎて何も聞くことはできない。近づきたいと私が思ったその瞬間に、視線である私は彼らにゆっくりと接近していった。不明瞭だった彼の声は次第に意味を持ち始めていくように感じたが、実際に内容を理解するにはまだ遠すぎた。彼はどうやら老人に対して怒りをぶつけているようであった。彼らとの距離が近づくにつれ、私は老人が医者であることに気付いた。彼の胸元にはネームプレートが垂れ下がっていて、そこには大きく脳外科と書かれていた。気づくと、彼らとの距離は既に五メートル程にまで近づいていて、私はその会話の一部始終が聞こえるようになった。
「……お前、医者なんだったら何とかしろよ」
青年の声は静かではあったが力強く、苛立ちが込められていた。彼は睨むように医者に視線を向けたが、肝心の医者は意に止めることもなく、じっと青年を見つめている。青年は言葉を続けようとし口を開いたが、不意に体を反り返らせ顔を歪ませると、勢いよくソファーから転げ落ちた。見る見るうちに呼吸は荒くなり、手足は定期的に痙攣している。不意に一変したその光景を見て、私は美しいと思った。彼の苦痛に歪むその顔は、私には躍動的な生命力を感じさせた。彼は目を見開き、耐えるような表情で上着のポケットに手を入れると、小さな瓶から錠剤を取り出し、それを貪るように噛みしめた。私は彼の顔をずっと見ていたいと思ったが、視線である私には意思決定権はないようで、その焦点はゆっくりと向かいにいる医者に向けられた。医者は彼の様子を無表情に見つめ、手元のカルテに熱心にメモを取り、そして時折思い出したようにまばたきをしていた。医者は医者であるにもかかわらず彼を助けるつもりはなさそうだ。視線はまた動き始め、青年を見る。彼は既に落ち着きを取り戻し始めていて、額に汗を浮かべたまま、先ほどと同様の視線を医者に向けていた。「……もう嫌なんだ」彼は吐き捨てるように言い、そのまま視線を下した。その時、私の視界は徐々に彼らから離れていった。近づいた時よりもはやい速度で。まるで、この後に起こることから逃げていくように。私は、まだ彼らを見ていたかった。白い世界の中の彼らはとても綺麗だったから。私が最初の位置に戻った時、青年は再度大きく体を反らせて痙攣を始めた。今回は彼自身で薬を飲むことができないようだった。青年は何かを叫んでいるようだったが、それはもう私のもとには届かなかった。どこからか女性の看護士が現れ、彼の所に駆け寄った時、突然私の視界は黒に侵され、不気味な程白く、そして美しかった世界は闇の中に消えてしまった。
目を覚ますとカーテンが開いていた。窓から差し込む陽光は、真っ直ぐ私の目元を目指している。寝起きの私に、その明るさは余りにも鬱陶しく、起床の原因は全てこの不快な太陽のせいだと思った。毎日飽きることなく昇り続ける太陽に、私の方は飽き飽きしていたが、それは誰の手にも負えないことだ。誰の手にも負えないことは当然私にもどうしようもない。仕方なく体を起こすと、それを待ち構えていたように携帯のアラームが鳴った。アラームに設定している音楽は、最近はやりの女性ボーカルの曲だったが、私はその歌手について何一つ知らなかった。余りにも大きく設定しすぎたその音を止めた後、私は壁に掛けてある時計を見る。時刻はまだ朝の六時だ。何か夢を見たような気がするが、多くの夢がそうであるように、私はその内容をはっきり思い出すことができなかった。なんとなく窓の方に顔を向けると、日差しはなおも私の顔を照らす。まぶしさから目を閉じたが、私はその白んだ光をいつもより美しく感じた。
階下から母の声に呼ばれたので、私はリビングに繋がる階段を下りた。なぜか何時もよりも足が重い。私は疲れているのだろうか。リビングでは母が朝食の準備をしていた。目玉焼きとハムと、それから少しだけ焼いたトースト。いつもと変わらない朝の光景。母は「ご飯食べてくの?」と聞いてきたが、私は不機嫌を装って返事をしなかった。日常への反抗。それは私の歳では珍しいことではない。決められた毎日の中の決められた私。誰にでも、それを踏み外したい気持ちはあるんじゃないだろうか。私はそう考え、母への当て付けを正当化した。母は困ったように笑い、冷蔵庫の中に一人分の食材をしまってから目玉焼きを焼き始めた。準備をすると八時を過ぎていたので、私は学校へ急いだ。
自宅から私の通う高校までは徒歩二十分。それは近くもなければ遠くもない絶妙な距離だった。通いやすさだけを重視して高校受験をした私にとって、この高校は絶好の立地にある。川沿いを歩き、傾斜のない緩やかな坂を上り切った先にその学校はあった。登校時刻間近の通学路には多くの学生が歩いている。男女二人で楽しげに話している生徒。ギターケースを背負い、指先でコードの確認をしている生徒。五、六人で放課後の予定について大声で話し合っている生徒。私は、その生徒達のいづれにも属していなかった。ただ一人で、静かに坂を上る。しかし私はそれについて、何かを感じることもなかった。「I、おはよう」坂を上りきったところで私は肩を掴まれた。振り返るとクラスメートのUの姿がそこにはあった。Uは高校での唯一の友人だ。だが、私は彼女の名前を知らない。私は周りの生徒たちが呼ぶように、彼女のことをUと呼んだ。「I、なんか今日疲れてるみたいだね」Uは心配そうに声をかけるが、その顔は私には向けられていなかった。きっと彼女も私の名前は知らない。そもそも、私の名前はIではなかった。だが、名前とはそれほど重要なものだろうか。生まれてから十七年連れ添ってきた名前は、Uとの間には何の意味も持たなかった。Uは校門を抜けると、急に話を始めた。
「今日はね。命の話をしようと思うんだ。Iはさ、自分の命に意味はあると思う?」
彼女は毎日、こうやって突拍子もない話をする。知り合って間もない頃は気味が悪かった彼女の日課は、今では私にとっても日常の一部となっていた。
「私たちは毎日こうやってさ、学校に通うじゃない? それで来年にはそれぞれ進路を決めてさ。それで進学したり、就職したりするんだよ。何も考えずにね。時期が来たら結婚とかして、子供とかできたりして。辛いこともあれば、楽しいこともあるんだと思うんだよね。その次は子供とかできちゃったりしてさ。鼻は旦那に似てるとか、目元は私にそっくりだとか。気付いたら子供は今の私たちみたいに学校に通ってて、私たちは気付いたらよぼよぼのお婆ちゃんで。そんでさ。死ぬんだよ。ねぇ。どう思う?」
私は彼女の話の意図が分からなかったが、彼女はいつもそういう話し方をした。隣に視線を向けると、彼女は相変わらず私の方は見ていない。私たちは校舎に入り、三階の教室に向かうため階段を上る。
「私はさ、いつまで繰り返すのかなって思うんだよね。結局こういうのって何百年、何千年ってずっと一緒なんだよ。歴史の流れにね、沿ってるだけなの。それって何か意味あるのかな?」
彼女の言っていることは分からなくはなかったが、そんなことは考えても仕方ないことであり、答えなど出るわけがなかった。そこで私はいつものように返事をした。
「Uは考えすぎ。もっと気楽になりなよ」
私は微笑みかけながらそう言った。しかし、Uは前を向いたまま無表情で答える。
「これはあなた自身のことだよ」
彼女が言葉を発したと同時に教室に着いた。私たちはいつものように無言のまま別れ、それぞれの席に着く。私は席に座りながら、彼女の言葉について考えてみた。卒業後の進路や、その後の自分について。チャイムが鳴り、担任が現れる。私はいつものように机に伏せて、そして目を閉じた。担任は今日のホームルームで進路調査の紙を配ることを告げた。私の目からは何故か涙が流れていた。
瞼を開けると世界がやけに眩しい。私はいつの間にか眠っていたようだった。教室には誰もいない。この空間には、何故か教室の中心に席を構えている私だけがいた。眠い目を擦りながら立ち上がると、授業の開始を告げるチャイムが鳴った。そこでようやく私は、二限の時間が体育であることを思い出した。授業は既に始まっていて、途中から参加するなどという選択肢は私にはない。私はゆっくりと教室の中を歩き回る。その行為は、普段教室の真ん中に押し込められている反動のようなものだった。私は十五分ほど、教室の中を行ったり来たりした後、荷物をまとめて教室を出た。私にとって、早退は珍しいことではない。初めこそ、罪悪感のようなものを感じていたが、今となっては私のこの行為を阻むものは何一つなかった。廊下にも当然のように人はいない。廊下を歩きながら、私は今朝のUの言葉に囚われていた。彼女の言葉は何故か、私の頭の中で反響し、決して離れようとはしない。しかし、それは考えてもどうにもならないことだった。階段を下りながら、私はこれ以上、考えることをやめた。一階の広間に着き、大きく深呼吸する。大量の酸素をが入ってきて、少しふらついた。私は、私が思う以上に壊れかけているのかもしれない。
校門を抜けると、今朝上って来たばかりの緩やかな坂がある。私は、その傾斜を駆け下りたい衝動に駆られたが、足はやはり重かった。坂の下には小さな公園がある。小さなブランコと、汚い滑り台だけが、忘れられたように置かれていた。ブランコの片側には、何故かUがジャージ姿のままで座っていた。
「……U。何やってるの?」
不審に思い尋ねる。私はなぜか背中に汗をかいていた。Uは返事をすることなく、無表情に私を見つめている。まるでUは精密に描かれた絵であるかのように、身動き一つしない。その顔に生気はまるでなく、私は恐怖すら感じた。ずいぶん長い時が経ったような気がする。しかしそれはほんの一瞬のことだった。Uの口元は少しづつ動き始める。今にもそこから言葉が紡ぎだされそうだ。
「……私ね」
彼女の口角は少しずつ上がり始め、次第にその顔は気味の悪い、冷たい笑顔となった。
「……私ね。Iのこと、嫌いだよ」
Uは立ち上がり、近づいてくる。私は恐怖から身動きができない。人に対してここまでの恐怖を感じたことは初めてだった。Uは私の目の前まで来ると耳元で囁いた。
「あなたは、明日、きっと、死ぬよ」
全身に鳥肌が立つ。私は目を閉じて、その声を耐える。言葉の重みを味わうかのようなその声。Uは続ける。
「あなたは、明日、きっと、自殺する」
Uはそう言うと、私から離れていったようだった。私は、まだ目を開けることができない。彼女は、もう既に決定されたことを伝えるかのようだった。やっとのことで目を開けると、遠くの方から、授業の終わりを告げるチャイムが聞こえてきた。Uの発した言葉は、私の胸の中にずっしりと腰を下ろし、決して動くことはなかった。ブランコは、Uの存在を証明するかのように、軋みながら揺れていた。
真っ直ぐ家に帰ることは、今の私にはできなかった。ただひたすらに歩き続ける。生まれた時から慣れ親しんだこの街も、今の私には白々しく感じられた。世界から少し色が奪われた気がする。空を見るとわざとらしい青空が広がっていて、所々に雲が浮かんでいる。その雲の白さには見覚えがあったが、どこで見たのかは思い出すことが出来なかった。私の心の中の恐怖に、何とも言えないざわつきのようなものが溶け込む。いつの間にか街の外れの方まで来ていた。もう少し先に行くと、地元の子供達が遊び場にしている廃墟がある。廃墟と言っても、言葉からイメージする汚くて禍々しい種類のものではなく、ただの人の住んでいない一般的な家屋だった。何故か施錠はされていないため、遊び場の少ない子供達にとっては格好の場所となっている。私は何かに呼ばれるかのようにそこに向かう。五分ほど歩くとその家はあった。その家は不自然なほど清潔に保たれている。ドアに手を掛けると、やはり鍵は閉まっていない。今の私にはもはや、部屋に入る以外に選択肢はなかった。
室内は極めてシンプルな造りだった。玄関には靴を入れるための収納が備え付けられていて、その上には花瓶に挿された白い花が置かれていた。廃墟にも関わらず、その生花はまだ新しい。私はその花を手に取り、指でなぞった。花弁は無抵抗に摩擦に連れられて、調和の取れていた本体から舞うように散った。視線を前方に戻すと玄関からは廊下が延びていて、左手にはトイレとバスルーム、右手には二階へと続く階段があった。目の前にはリビングにつながる扉があり、開かれたままのそれに誘われるように、私は足を進めた。部屋に入ると、中の光景は異様だった。広い正方形の部屋には家具は何も置かれておらず、室内の壁紙やカーテンは純白と言っていいほどの美しい白だった。しかし、私の目を引いたのはその潔癖すぎる白の世界ではない。なにもないその世界の中で、唯一色を持つものが、部屋の中心に乱雑に投げられていた。私は近寄り、その物体を眺める。それは血にまみれた猫だった。その猫は、鋭利な何かで綺麗に腹を割かれていて、その傷口からは大量の血があふれ、自らの体を赤く染めていた。私はその血液を指先でなぞる様に触る。まだ温かく、ぬめり気を感じる。私はしばらく、その指先を眺め、ゆっくりと考えた。猫は明らかに人に殺されていたが、そのことについて私は興味がなかった。ただ、その血液の温かさについて。白と赤が織りなす色彩について。私は壁際まで近づき、そこに背中をもたれて腰を下ろした。この状況にも関わらず、私は落ち着いていた。きっとそれは、私が近頃、死を意識していたことと関係があると思った。周りと上手く馴染めない私。母親に反抗しようとする私。近づいてくる進路に漠然とした不安を感じる私。取るに足らないようなこの程度の事柄でも、私にとっては大きな負担となっていた。そして今日、引き金は引かれたのだ。Uの言葉によって。私はこの猫の死も、あながち偶然ではないように感じた。ふがいない私にとどめを刺したUのように、この部屋もまた知っていたのだ。ふと猫を見ると、猫の視線は私を捉えていた。死を迎えたその目に力はないが、白い部屋の中の赤い視線は私を惹きつけた。「待っててね」私は小さくそう言うと立ち上がり、先ほどよりも確かな足取りで部屋を後にした。あとに残された猫は、決して動くことはない。カーテンが揺れ、窓から夕日が差し込んでくる。真っ白だった部屋は、その時真っ赤な部屋となった。
家に着く頃には既に日は落ちていた。空には雲一つなかったが、東京の空では星一つ見ることはできない。黒い空の中でただ一つ、月だけがその存在を主張している。月は満月に近かったが、よく見るとその一部はどうやら欠けはじめているようだった。幾日か過ぎれば、空は黒一色に染まる。しかし、先のことなどは私には関係なかった。明日決行されるであろう一つの事柄が、今の私には全てだった。朝の時のような足の重みはまるでなく、その解放感に似た感覚は、快感と言ってもいいものだった。家に入り、玄関を抜け、私はそのまま階段を駆け上がった。リビングからは父と母の談笑が聞こえてくる。話の主題は恐らく私だ。今朝の私の態度について、母から父に相談したのだろう。彼らは娘のことについて何も知らない。娘を心配する母と、それを暖かく見守る父の構図は、Uの言ったように、ただ流れに沿って演じられているだけのように感じられた。自室に入り、ベッドに倒れるように寝転がると、私は明日自分が行う事について頭の中でじっくりと反芻した。私は、私自身に対して執着がない。きっと明日、その時が来ても、動じることはないのだろう。多くのことがあり疲れていたのだろうか、私は目を閉じるとすぐに眠りについていた。
気が付くと視線になっていた。この経験が初めてではないことは、今でははっきり理解できた。私は、昨日の夢についてはっきりと思い出していた。また、あの白い世界を見たいという気持ちは私の中で徐々に大きくなり、いまではその大部分を占めていた。死を覚悟した今の私は、強く求めていた。苦痛に歪む、あの青年の顔を。それを能面の様な無表情で見つめる、あの医者を。そして、白く二人を包み込む、あの白い部屋を。私はこの世界に完全に魅了されていた。まるで、街頭に群がる羽虫のように、私はその白に強く惹きつけられ、抗うことはできなかった。
視線に意識を向けると、私は望み通り再び、白い夢にの中にいた。今回の視線は、何か台座のようなものに固定されているようだ。よくテレビで観る隠しカメラのように、私は息をひそめながら部屋全体に意識を向ける。そこは前回とは異なり、一般的な診察室であった。ただ一点、その異様な白さだけはそのままだった。そこにはやはり、あの青年と医者が向かい合って座っており、青年の隣には恐らく両親と思われる男女が、不安げな表情を浮かべていた。
「残念ですが、もう手の尽くし様がありません」
医者は表情を変えずにそう言った。その声には、感情の類はまるで込められておらず、その響きは電車の車内アナウンスに近かった。医者である彼に、患者の生死は興味の対象外であるようだ。彼は患者についての事実を、極めて簡潔に伝えることに徹していた。医者の言葉を受けた青年の両親は俯き、目には悲嘆の色を浮かべながら、青年の顔を横目にすすり泣き始めた。白い部屋には彼ら二人のむせび泣きと、青年の貧乏ゆすりが生み出すかすかな摩擦音のみで満ちている。当の本人である青年の顔からは生気が感じられず、恐らく医者の言うように長くはないのであろう。青年は医者の言葉を反芻するように何度か頭を掻きむしると、不意に立ち上がった。
「こんな所にもう用はない。もう我慢できない。俺は、もう出ていく」
青年の顔には色がなかったが、その表情からは確固たる覚悟がにじみ出ていた。それを聞き、医者は初めて薄ら笑いを浮かべた。彼の表情らしい表情は、私は初めて見たような気がした。医者はその表情の変化をきっかけに大きく変化し、壊れたように言った。
「どこで好きな所に行くがいいさ。でもな、お前は何もわかってないんだよ。お前は、お前という存在が生まれてからずっとこの世界の中にいるんだ。真っ白で、清潔で、異常なまでに均衡を保たれたこの世界。お前は他の世界ってやつが想像できるのか。お前はずっとここから出たがってたみたいだけど、じゃあ出てからはどうする。外の世界にはなにがある。結局お前は、この世界に甘やかされてきただけなんだよ」
医者の急な饒舌に青年は驚きを隠せないようだった。いつの間にか彼の隣にいた両親は消えており、この空間には青年と医者の二人になっていた。医者は青年を罵倒し終わるとすぐに無表情に戻った。彼の先ほどの変容はまるで嘘の様であった。青年はしばらく医者を睨んでいたが、突然何かを思い出したかのように目を見開くと、部屋の外へと走り出してしまった。視線である私は、どうやら変化のない老人よりも、急激な変化を生み出した青年を選んだらしく、固定された視界は彼を追って動き出した。
部屋の外は長い廊下だった。私はこの廊下がどこに続いているのか気になり目を凝らす。しかし、廊下はどこまでも廊下であり、その終着点は見ることができない。青年は、相変わらず不気味なほど白いこの世界を、ひたすら前へと走っている。彼のその必死さは、何か恐ろしいものから逃げているかのようだった。私が彼の背中を追いかけて十五分程経ったところで、ようやくはるか向こうに廊下の終わりが映った。そこにはたった一つ、扉が存在しているのみで、他には何もなかった。その唯一の存在である扉は開かれたままになっており、青年がここに来ることを知っていたかのように見えた。青年はその扉が視界に入ると、少しずつペースを落とし、そしてゆっくりと歩き始めた。視線は彼の後方から、側面に移動する。青年の口角は少しだけ上がっており、顔はさっきまでの運動のせいであろう、ほんのり赤みが差していた。彼はドアの向こうをひたすら見つめていたが、ここからはまだその先を見ることができないのだろう、彼の目は限界まで細められている。扉の先の世界からはそれほど強い光が放たれていた。私もその光の向こうが見たくなり、必死に覗き込んでいたが、視線は急に青年と正対して、扉は死角に入ってしまった。私には青年の顔しか見ることはできない。青年は冷静さを保とうとしていたが、その顔には喜びがありありと浮かんでいる。しかし、口元は歪み、瞳孔は開きかけており、顔面の筋肉は時折、痙攣していた。何かがおかしい。私がそう思った瞬間、青年の顔は苦痛に歪み、彼の体は大きく痙攣し、そして吐血した。青年はまるで舞台役者のように大胆に倒れこんだ。その時、彼のポケットから薬の瓶が飛び出し、青年の手の届かないところに飛んでいった。それは前回、彼が倒れこんだ時に自ら服用していたものだった。私は思わず、その瓶に手を伸ばすが、視線である私には触れることができる訳がなかった。今の私には何もすることができない。彼の体は未だに痙攣し、その吐血は決して助かることはない量に見えた。部屋の白に彼の赤が満ちていく。私の中で、彼の姿と町はずれの廃墟で見た猫の姿が重なった。しかし、私にはその意味を理解することはできない。私がこれからの結末を待っていると、青年は痙攣しながらもゆっくりと、顔をこちらに向けた。彼の目はしっかりと視線であるはずの私を捉えている。彼の目には生気が宿っていないが、しかし確かにそこからは意志を感じることができた。私の視界には部屋の白と、血の赤と、そして彼の黒い目しか映っていない。私は彼の目から視線を逸らすことができなくなった。どのくらいそうしていただろう。それから彼はゆっくりと目を閉じると、一言何かを口にし、そして動かなくなった。私には青年が何を言ったのか聞き取ることが出来なかった。視界はだんだんと黒に染まっていく。その黒は彼の目の色と似ていた。全てが黒に染まっていく。最後の瞬間まで私は、彼の最後の言葉について考えていた。彼は確かに私に対して何かを遺した。黒の世界が私の意識を現実に引き上げる時も、私には何一つ理解することはできていなかった。
朝はまた、私の下に訪れた。私は今見たばかりの夢について、少しだけ考えてみる。上手く思考が働かない。時計の秒針が何周かしたところで私は起き上がることにした。何かを考えて答えが出ないという事の不毛さに私はもう飽き飽きしていた。私はこんな事に時間を使っている場合ではなかった。私には今日、やらなければいけないことがある。
真昼の土手は美しかった。夏の日差しは川の水に反射し、私の目にその光を見せつける。休日には多くの人が利用するランニングコース沿いには、桜の木が何キロにも渡って景観を彩りながら、水面の光を見つめている。つい数か月前までは満開だった桜たちは、今では全て葉桜となってしまったが、その生命力は春よりも強く感じられ、この町の多くの住民に愛される存在だった。私はランニングコースを走る何人かの集団を眺めながら、桜の木陰で息をしていた。右手に持った袋の中には、これから使う太いロープとカッターが入れられていた。私はこれから死を見に行くのだ。数々のきっかけは全て私を死に導いていた。Uの言葉。猫の死体。そして連日の白い夢もきっと。これから私は近くのホームセンターで買ったこのロープで首を吊る。ただし、私は右手にはカッターを持つことにした。私は死にたいわけではなく、死が見てみたいだけだった。死ぬことに対して恐怖はなかったが、些細なことでも生にしがみつける取っ掛かりが欲しかった。自分自身でも何がしたいのかは分からない。ただ、私にはこの行為をやり遂げなければいけないような気がしていた。日差しは尚も私を照り付ける。人生最後になるかもしれないその温度を感じながら、私はひたすら息をしていた。
日が暮れると、あたりに人の気配はなくなった。もともと街灯があまり多くないせいだろう、夜にこの辺りを歩いているのは地元の不良か、もしくは盛った若者カップルのみだった。時計を見ると既に十一時を過ぎていた。私は深呼吸をし、それから袋からロープを取り出すと、慣れない手つきで太い枝に括り付けた。足がつかないように、近くに落ちていたタイヤを引きずり、足場を形成する。私はそこに乗ると、ロープの高さを調節した。試しに首を乗せてみる。問題はまるで感じられず、このまま足場を蹴飛ばせば、私の体は宙に浮き、そしてそのまま死ぬ。私は目を閉じて早まる鼓動を意識し、もう一度深呼吸した。ふと、閉じたはずの視界の中にあの白い世界が浮かんだ。あの大きな部屋の中心には青年が一人立っていた。不意の事に目を開けると、そこはやはり夜の土手だった。私はあの白をもう一度見たいと思った。私はゆっくりと足場を降りると、腰を下ろし、日の出を待つことにした。きっと朝焼けの中にあの白を見ることが出来る。根拠などないにも関わらず、私の鼓動は少しだけ落ち着きを取り戻していた。夜風が頬を撫でて、流れる水の音が私を包んだ。私は身体が捉える刺激を一つずつ丁寧に感じながら、朝まで呼吸を続けた。
私は前後に揺れていた。まるでメトロノームのように前後に揺れているのだ。私は本能的にそれが生死の境であると理解した。きっと私は前後のどちらかに倒れきった時、死ぬか、もしくは生きるかするのだろう。私は変わらないリズムで揺れていた。どちらに倒れるかは、きっと誰にも分からないのだ。最後の瞬間まで、私はただ揺れるしかない。
焦がれるように待ち続けていた白が現れる前に、Uは私の前に姿を現した。Uはきっとこの後、学校に向かうのであろう、制服姿だった。私は亡霊のように不意に現れたUに対して、驚くことはなかった。恐らく私にはこの展開は想定内だったのだ。
「見に来てあげたんだよ。あなたの最後を」
Uは正対しているにも関わらず、相変わらず焦点は合っておらず、私のことなどまるで見ていない。Uはその後何かを言うつもりはないらしく、いやらしい笑みを浮かべたまま私の方向を見続けている。私は覚悟を決めた。実行するなら今だった。私はゆっくりと立ち上がり、そして足場の上に乗った。手を使わずに縄で作られた輪の中に、自らの頸動脈をあてがう。自分の脈動を縄越しに感じる。その拍は一定のリズムで刻まれ、力強く、これから失われるものとは到底思われなかった。最後にUの顔を見ると、その顔は喜びのあまり大きく崩れ、化け物のようだった。私は目を閉じる。ゆっくり、ゆっくりと最後の呼吸をすると私は、一気に足場を蹴り崩した。苦しさで一気に目が開かれる。苦痛の中の最後の景色はUの笑みでも、川に沿う葉桜でもなく、上ってきた朝日による白の世界だった。右手に持ったカッターは必至で縄を切ろうともがいているが、その抵抗は意味を成すことはなさそうだ。大きく前後に揺れる。消えゆく意識の中で、私はあの青年の顔を思い出していた。なぜ私はあの青年に魅かれているのだろう。答えなど出ないまま、私の意識は途絶えた。
私が前後に揺れている。まるでメトロノームのように。今にも生と死のどちらかに転びそうだ。どちらに倒れるのかは分からない。待ち続ける事に私が飽き始めた頃、ブチッ、と何かがちぎれる音がした。揺れは止まり、私は世界の動きを待つ。私はいつまでも、次の動きを待った。