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作者: 蘚鱗苔

 「被告人を死刑に処す」


 その言葉が僕の耳に届いたとき、僕は死人と変わらぬ顔をしていたことだろう。背に回した両手に感じる冷たい感触、腰を縛る紐の感触、それらがあまりにも重く、立つことすら許されぬような錯覚に陥った。故に、僕はその場で倒れてしまったのだろう。


 それからの記憶はなく、次に目を覚ますと白い部屋の中に入れられていた。角のない、丸い部屋。狭く、半径三メートルもないような球状の部屋。壁、床、どちらとも言えないそれは白く、自分はそこに放り投げられるように横たわっていた。恐らく、放り投げられたのだろう。その際にぶつけた肘や膝に痛みが走り、少し丸くなる。何もない部屋、トイレも、窓も、ベッドもない部屋。聞きしにも勝る部屋、そんな印象を覚える部屋は、やはり死刑囚を隔離しておくための牢獄で。教科書で何度も読んだ部屋、そこに入れられている事実が、自分が死刑囚であることを強く意識させる。

 恐らく入口、出口ではなく入口でしかない場所は、硬く固く閉じられている。微かな線が、そこが開くことを示していて、その入口の中央に小窓になるだろう線が見える。ここから、食料が入れれらるのだろう。排泄は、垂れ流し。


 もぞもぞと尻を動かし、体育座りをして、ごくりと唾を飲み込む。逃げ場はない。何度目を瞑り、開いても景色は変わることなく、牢獄。僕以外に何もなく、そんな僕も全裸。自殺ができないように、歯は全て抜かれていて、爪は全て剥がされている。五体満足で、不満足。考えることしかできない部屋、それ以外の遊具は無く、観察するものもない。

 白い、ただただ白い。僕の姿を反射して写すのではないか、そう勘違いしてしまうほど白い壁、床、天井。立ち上がることはできない、足の腱を切られているから。閉じられた足首からは血が出ることはなく、縫われてもいない。たぶん、瞬間接着剤で処置したのだろう。どうせ死ぬから、しっかりとした治療はいらない。人民の義務として伝えられている死刑の方法と全く同じ。自分は、ここで死ぬまで閉じ込められる。そして、その様を国営放送で垂れ流される。

 それが人民の娯楽で、自分も楽しんでいた。人間が、極悪犯が、この部屋に閉じ込められるだけで畏縮し、恐怖し、誰一人の例外なく錯乱する。それは紛れもない喜劇で、胸のすくような画だった。思わず笑みがこぼれる。見ていた側の僕が、こんなにも簡単に見られる側に変わるとは思わなかった。今も、多くの人民が僕を観ているのだろう。酒を片手にしながら、親からの教育を耳にしながら、日頃のストレスのはけ口としながら……


 「ふっざっけんな!」


 大声で叫ぶ。歯がないから、綺麗に発音できなかったかもしれない。ただ、それは関係のないことだ。人民に提供されるのは映像だけ、面白おかしく囃し立てるナレーターがついているから、音声は何も聞こえない。そんなこと、見てきたから知っている筈なのに、それでも声を大きく張り上げる。


 「ふっざけんな!冤罪だ!死ね!何が正義だ!冤罪だ!奴らが、治安維持組織が犯人だ!おい!」


 喉が枯れるまで叫び続ける。ああ、誰かが気付いてくれるかもしれない。口の動きで、これが冤罪だと、気づいてくれるかもしれない。そう思って、何度も何度も叫ぶ。ナレーターの解説が聞こえているような錯覚に陥りながら。


 何度叫んだことだろうか、口の中が血の味に染まる。体は床に倒れふし、両手と顔を使って何度もアピールした。足をばたつかせ、身体をのた打ち回らせながら。喉が切れたのだろうか、体中は擦り傷だらけ、こうやって体力を使って、死に至る人は何人いるのだろう。そう思っていると、小窓が開く。飯だ、何度も見た映像が頭の中を駆け巡る。流石に死刑の判決がでても、食事はでる。

 誰かの、白い服に包まれた手が伸びてくる。あまりにも長く、恐らくマジックハンドであろうそれの先には、食料が掴まれていて。自分の目の前でそれがぽとりと落とされる。食べても、食べなくても良いそれ。食べれば、人一人が一日生きるには十分な栄養が補給でき、食べなければ、餓死する。目の前に転がる蟹の身を模した練物、こぶし大のそれをジッと見つめる。迷う、どうすれば良い?餓死、それは辛いことなのか。死刑になったからには、判決は覆らない。こうやて閉じ込められては、誰にもアピールできない。だったら、早く死にたい。いや、できるだけ迷惑をかけて死ぬのもいいかもしれない。食べて、生きて、糞尿をこの部屋に垂れ流し、清掃員を不快にさせてやろう。


 しばらく考えた末、食物を齧る。齧ると言っても、歯のない自分では咥えるといたほうがいいかもしれない。ただ、そのあまりにも非力な力でも食物は噛み千切れる。柔らかく、まるでプリンのような柔らかさのそれを胃の中に流し込んでいく。

 一つ食べるだけで、胃が膨れる。どういう仕組みなのか全くわからないが、これで一日生き延びた。そう思い、決心する。錯乱せずに、生きてやろう。できるだけここを管理する国に迷惑をかけて、死までの時間を長引かせてやろう。死刑囚は皆錯乱し、食料を食べることなく餓死した。それは不思議だったが、自分がその第一号になってやる。何十年も生き延びて、政府を不快にさせてやろう。それが自分の意地だ、そう決意する。

 だから、そのために、いったん寝よう。時間間隔が狂う部屋だけれども、しっかり寝て、飯を食べる。飯が出る時間は一定、そう習った。体を転がすことで運動として、できるだけ生き続けてやる……




 ふと、自分が立っていることに気付く。服を着ていて、爪もある。舌で確認してみれば、歯もある。これは、これは、夢か。本来の自分は牢獄の中にいるはずなのだから。

 突然目の前が明るくなる。思わず目を閉じて、そうして開くと目の前に人がいた。神々しく、顔を確認できないけれども、人だろう、そう思う。


 「君は、チャンスが欲しいかい?やり直す機会が欲しいかい?」


 声をかけられる。機会音声かと思うような、そんな声色。けれども、その神々しさは尋常なものではない。ああ、これが神か?そう自分は思う。夢に出てきて、チャンスを与えようとする。これが神でなくて何と言う?現実の自分、牢獄に閉じ込められた自分、小説で読んだような状況、自分は……


 「やり直したい、あの夜に、もう一度あの夜に戻してくれ!」


 悩むこともなく、叫んでいた。神は存在し、冤罪で殺される自分を助けに来たのだ。ならば、自分はその好意に甘えよう!


 「構わない。さぁ、往け」


 神の声が許しを告げる。その言葉が自分の耳に入った瞬間……




 突然、夜が訪れた。驚き、慄き、自分の姿を見る。そして驚愕する。グレーのチノパン、黒いシャツ、ああ、あの夜の服装。周りを見回す。自分の住んでいる街の、自分の家の近くの、あの通りの近く。殺人事件の、いや、治安維持組織のリンチを目撃して、そして罪をなすりつけられたあの通りの近く。腕時計を見れば自分がそれに遭遇する2分前。

 体が歓喜に震える。ああ、あの日、あの時、あの場所に戻ってきた!頬をつねれば、痛みが走る。ああ、これは現実。神は存在し、自分を助けてくれた!

 ならば、逃げなくては。あの通りを通らずに、どこかに行かなければ。今晩家に帰る必要はない、明日の朝に帰ればいい。そうすれば、あの事件は明るみにでて、治安維持組織が捕まるか、他の誰かが捕まる。自分は、逃げられる。罪をなすりつけられることはない。早く行動しよう、ここから離れよう。

 そう思うが早いか、あの通りとは逆方面に走り出していた。一刻も早くあそこからはなれれば、2分以内にあそこから離れれば大丈夫。急げ、急げ。


 どれだけ走ったのだろう。息は上がり、腿は疲労を主張している。しかし、あの場所からは離れた。時刻はあの時間の数分後。もうここまでくれば安全だろう。僕は違う未来を選ぶことができた。僕は、僕は、自由だ!

 喜び、そして背後を振り返る。走ってきた道に誰も追ってくる人がいないことを確認する。そうして、前を向き、歩き出す。夜だから、人はいない通り。でも、自分がどこにいるかはわかる。確か、この近くに漫画喫茶が有った筈だ。そこで夜を明かそう。そう思い、目の前の角を曲がり、少しばかり前に進む。


 「確保ぉ!」


 その記憶に残る声色が耳に入った瞬間に、僕は地面に押し倒される。地面押し付けられた顔にはアスファルトが刺さり痛みが走る。背中には誰かが馬乗りになっていて、両手を後ろ手に固定されている。現状が理解できず、無理矢理顔を動かし周りを見る。そして、身体がかたまり、焦燥感に支配される。

 少しは離れた場所には人が倒れていて、そして死んでいる。恐らく、僕の上に載っているのは治安維持組織の男だ。断言できる。なぜなら、僕は、この声色を覚えているから。頭を動かしていると、滑った手で首筋を押さえつけられる。血で濡れた手だ。固定された掌には棒状のモノ、ナイフが押し付けられて……




 景色が暗転し、目を覚ます。白い部屋、嗚呼、あの牢獄だ。現実を理解して、先ほど何が起こったのか理解して……目から涙がこぼれる。僕は、逃げることができなかった。最後のチャンスを無駄にした。神が差し伸べてくれた手を無碍にしてしまった……涙が止まらない。口からは唾液が流れる。嗚咽し、後悔の念が訪れる。


 「嗚呼……神よ、ごめんなさい、僕は、チャンスを無駄にしました。ごめんなさい、できれば、もう一度、もう一度だけチャンスを下さい……」


 嗚咽しながらも、喉から声を絞り出す。そんな僕の耳に、音が響く。


 「構わない。さぁ、往け」




 突然、夜が訪れる。驚き、慄き、自分の姿を見る。そして驚愕する。グレーのチノパン、黒いシャツ、ああ、あの夜の服装。周りを見回す。自分の住んでいる街の、自分の家の近くの、あの通りの近く。殺人事件の、いや、治安維持組織のリンチを目撃して、そして罪をなすりつけられたあの通りの近く。腕時計を見れば自分がそれに遭遇する2分前。

 体が歓喜に震える。ああ、あの日、あの時、あの場所にまた戻ってきた!頬をつねれば、痛みが走る。ああ、これは現実。神はまたもチャンスをくれた!

 そこまで認識して、僕はそのまま走り去る。今度は、人通りの多い繁華街へ。そこならば、目撃者もいるから冤罪はない。逃げ切る、また無駄にするわけにはいかないから。


 繁華街に辿り着いて、心から安堵する。この時間ですら人ごみは絶えず、これならば安心できる。そう思い人の波に飲み込まれる。不安が薄れていく、人ごみに癒されていく。こうやって、朝まで絶えぬ人ごみに紛れていればいい。そうして、逃げ切ろう、あの冤罪から。

 そう思い、人ごみの中を漂う。行くあてもなく、人の流れに身を任せ、逆流し、ほぼ同じ場所を往復する。何度も何度も、時が朝を告げる時まで歩き続けようとして、目の前の人にぶつかる。

 突然止まった人に驚き、そして謝罪の声をかけようとして、その人が崩れ落ちる。慌ててその人を助け起こそうとして、掌が濡れる。赤い液体、それが何かを理解して、叫び声を上げようとした瞬間、押し倒される。


 「確保ぉ!」




 あの声色が耳に響いたと思った瞬間、景色が暗転する。白い部屋、また戻ってきた。溢れていた涙はそのままで、それを理解した瞬間勢いが増す。僕は、またもチャンスを無駄にしてしまった。神よ、本当にごめんなさい。


 「ああ、ごめんなさい、折角のチャンスを、本当にごめんなさい。もう一度……」


 嗚咽しながらも、喉から声を絞り出す。そんな僕の耳に、音が響く。


 「構わない。さぁ、往け」




 突然、夜が訪れる。驚き、慄き、自分の姿を見る。そして驚愕する。グレーのチノパン、黒いシャツ、ああ、あの夜の服装。周りを見回す。自分の住んでいる街の、自分の家の近くの、あの通りの近く。殺人事件の、いや、治安維持組織のリンチを目撃して、そして罪をなすりつけられたあの通りの近く。腕時計を見れば自分がそれに遭遇する2分前。

 体が歓喜に震える。ああ、あの日、あの時、あの場所にまたしても戻ってきた!頬をつねれば、痛みが走る。ああ、これは現実。神は三度もチャンスをくれた!


 今回は、この場所に居よう。動かなければ、何も起こらないだろう。こうして、朝まで突っ立っていればいい。繁華街にもいかず、漫画喫茶の近くにも行かず、あの通りにも行かず、ここで時間をつぶそう。そう思って、立ち尽くす。時計を見続け、秒針が回る様を観察していく。


 永久に感じる様な時間が立ち、時計がここに戻ってきてから20分がたったことを告げる。たった20分がこれだけの長さなら、朝まではどれだけ長いのだろう。そう思うけれども、逃げるためなら苦しくはないだろう。そう考えていると、後ろから声がかかる。


 「君、ちょっといい?」


 聞いたことのある声に驚き、そちらを向こうとした瞬間、押し倒され、掌に棒状のものを押し付けられる。


 「確保ぉ!」




 景色が暗転する。白い部屋、ああ、またも……なんで……どうしたらいいのだろう、どうしたら逃げ切れるんだろう。今度は何をしよう、チャンスはあるのか?

 嗚咽し続ける僕の耳に音が響く。


 「構わない。さぁ、往け」

 





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 「おい、交代の時間だ」

 「ああ、もうそんな時間か。なぁ、286番、ついに狂ったぞ」

 「死刑囚を番号で呼ぶのはあまり好きじゃないが、まぁ、アレも駄目だったか」

 「これで286人中286人か、百パーセントとは随分高性能だな……」

 「一人くらい耐えられるかと思ったけど、やはりダメなのか。まぁいいや、そうしたら数日中に死ぬかな?」

 「希望から絶望に叩き落すと人間はどうなるか、だっけか。お偉方も怖い実験をするもんだ」

 「わざわざそのために冤罪事件を起こしてんだろ、あー怖い」

 「な、じゃあお疲れ、次は5時間後か?」

 「おう、監視、頑張れよ」

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